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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第二章 前支度
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 習一は授業の終わりまで座席に残った。久々の学校の風当たりと病み上がりの体力の乏しさゆえに、放課後は疲労が蓄積する。寄り道せずに帰宅し、体を洗ったあとは自室で休んだ。食欲はわかず、そのまま朝になる。起床を促したのは窓を叩く音だった。銀髪の少女が窓の縁におり、習一は窓を開ける。少女がまたも土足で部屋に踏み入れる。

「今日も学校にいこう。終業式なんだって」

「そうか。もう、夏休みになるのか」

「半日でおわるから、プリントをいくつかえらんで、すずしいところでとこうよ」

「オレが課題を進めるのを、お前が見張るのか?」

「うん。シドも明日、てつだう。はやくおわらせようね。そしたらいっぱいあそべる」

「遊ぶ、ねえ……」

 習一は手近な遊びという遊びは不良生活でやり尽くした。どれも子供だましであり、心は満たされなかった。遊ぶ行為が勉学に励んだ報酬に釣り合うとは感じにくい。

「はやく学校についたら、そこでもプリントがこなせるよね。さっそくでかけよう」

「まだ飯を食ってないんだが」

「家族はいま、朝ごはんをつくってくれてる?」

 家事を担当する母は習一の朝食を作らない。作っても息子は食べにこないからだ。一般的な家庭と異なる事情に直面して、習一は「いや……」と顔をそむける。すると少女はいつもの調子でリュックサックを床に下ろし、中に両手をつっこむ。ごそごそと作業したのちに白いものを出した。それはラップに包んだサンドイッチだ。

「んじゃ、これを朝ごはんにしよう」

 朝食の包装には値札及びバーコードのシールがない。お手製の品だ。

「シューイチのお昼ごはんようにつくってもらった。でもお昼はお店でも食べられるね」

 言って少女はサンドイッチをまたリュックサックの中へもどす。

「これは学校についたらあげる。いっしょにいこう」

 少女が窓を通って外へ行く。習一は溜息を吐いたのち、制服に着替えた。先日渡されたクリアファイルを一つ鞄に入れて家を出る。家族がリビングにいたが挨拶はせず、早歩きで駆け抜けた。昨日と同じく少女が門の外で待っていた。

 習一は後ろに見張り役が控えた状態で学校を目指した。平常時の登校時刻より早いせいもあって熱気は弱く、爽やかな気分で登校できた。正門の前で少女は止まる。水色の布で包んだサンドイッチと細長いステンレス製の水筒を習一に手渡す。

「終業式がおわったらここでまってる」

 監視役は去った。習一は水筒を小脇に抱え、鞄と水色の包みを手に持つ。人気のない生徒玄関を通り、教室へ向かう。他の教室には数人の生徒を見かけたが、自分のクラスは誰もいなかった。昨日腰を落ち着けた席へ座り、もらった弁当の包みを広げる。サンドイッチの具はツナとレタス、卵、ハムとチーズ、とごく普通だ。イチゴのジャムを塗っただけのものもある。それぞれ二つずつあり、一袋八枚切りの食パンを丸々使ったサンドイッチのようだ。ツナサンドを一切れ食べると味はありふれたもの。マヨネーズであえたツナとしゃきしゃきしたレタスの食感がある。昨晩何も食べなかったせいか、普通な食事が口の中に染み渡った。一口、二口と次々ほおばる。二切れめを食べかかる頃には口の中の水分が減って飲みこみが悪くなり、水筒の茶を蓋代わりのコップに入れる。飲むと冷たい茶が喉をすっと流れていく感触がわかった。

(手料理……いつ食ったっけ?)

 手作りの食事を長い間口にしなかった。習一は他の生徒の当たり前を、自分が享受することに妙な感覚を覚えた。そしてこの食事は誰が用意したものか推測する。

 習一に食べ物を届けた少女は「作ってもらった」と言った。彼女の作ではない。では彼女を手配した教師が作ったのだろうか。万事を無難にやりそうな男ゆえ、料理ができても驚きはしない。しかし「もらった」という他人行儀な表現は第三者の存在を匂わせた。

 銀髪の彼ら以外にも習一の支援者がいる。その仮説を胸に秘め、四種のパンを一つずつ平らげた。満腹には達しないものの、半分は昼食用に残しておく。己のために弁当を作った者がいるという、誰とは知れぬ存在の実感を惜しく感じた。

 用済みのラップをくしゃくしゃに丸め、室内の片隅にあるゴミ箱へ捨てる。蓋をどけて見た中身は空っぽだった。掃除をきちんとこなす生徒がいる証拠だ。他校の生徒の雑談で「ゴミ箱にゴミがあふれてて使えない」と耳にしたことを思い出す。そんな事態は起こりえない学校なのだ──習一という異端児を除いて。

 廊下からキュキュっという足音が響く。滑り止めのゴムがすれた時によく鳴る、生徒が常用する靴音だ。誰かが登校してきたのだ。習一は自席につき、食糧を鞄に収めた。入れかわりにクリアファイルと筆記用具を出す。ファイルの中には数枚のプリントをステープラで留めた束が三種類あった。国語と数学と英語。どれも二年生の一学期で学んだ範囲らしい。習一が去年に学習した部分だ。習一は初めに数学に手をつけることにした。自分がどれほど記憶を保持しているか、最もわかりやすく判定できる科目だ。

 筆箱の中をかきわけてシャープペンシルを探す。かちゃかちゃと鳴る文具の音に足音も重なった。廊下で発生した音源が室内へと移る。生徒が入室したとわかった習一は少し首を動かし、目の端で人影を探った。影はゆっくりと習一に近付いてくる。

「小田切さん、おはよう。ずいぶん早いんだな」

 入室者はまるで普通の生徒と接するかのごとく習一に挨拶をした。そんな物好きは学年に一人いる。習一は生徒を正視した。身長一八〇センチほどの体格の良い男子だ。彼は習一の一つ年下だが同じクラスの同級生。名字を白壁という。変な名前だと思ったが最後、習一は彼の名を忘却できないでいた。

「ああ、あんたもな」

 無愛想に返答し、プリントに視線をもどす。無関心を装う習一に白壁は屈さず、隣席に座る。そこは彼の席ではない。それは昨日の授業に参加した習一がよく知っていた。

「そのプリント、夏休みの宿題じゃないな」

 全くの敵意も警戒もなしに会話を続けられて、習一は少し混乱する。他の生徒は不良な習一を腫れ物のように危険視し、関わろうとしない。白壁は感性が常人離れしているのか、習一の数少ない一学期の登校日にも今の調子で話しかけてきた。喧嘩の強い習一の怒りを買っても平気だという自信があっての行動だ、と習一は声には出さず思った。彼は中学時代の空手の好成績を評価されて入学を果たした噂がある。

「おれは朝練をしに来たんだが今日はないのを失念していた。物覚えが悪くていかんな」

 白壁は習一が会話に加わらないのを不愉快とせず、しゃべり続ける。

「小田切さんはその課題をこなしに早く登校したのか? 家じゃ、集中できないか」

「なんで、それを聞く?」

「親と仲が悪いから……荒れてるって聞いたんでな」

 それは真実だ。習一は親への憎しみから悪事を厭わぬ悪童へ転向した。その事情を誰から聞いたか、およその見当はつく。それは昨日、ただ一人習一を気にかけた教師だ。

「他人が口出しすることじゃないが、もったいないな。荒れる前の成績はトップだったんだって? すごく出来がいいんだな。下から数えたほうが早いおれとは大違いだ」

 白壁が空手バカだという評判は習一も聞いていた。とはいえ、落第生になるほど馬鹿でもなさそうだった。健全な肉体と精神を持つ男子は「なのに」と声を低める。

「わざと留年して親に恥をかかせて……今はそれで気が済むんだろうけど、せっかくの自分の将来をダメにするの、惜しくないか?」

 習一は答えない。白壁の主張は全くの正論だと熟知している。己の愚行は自分自身がよくわかる。だが、それ以外にできる抵抗の手段がなかった。

「親だけじゃない。ここの教師もどうか、というやつはいる。そいつらに刃向ってるだけじゃ、自分のためになってないと思うんだ。なあ、小田切さんは本当はなにがしたい? おれが空手に打ち込むような、やりがいのあることはないのかな」

「ないな、なにも……どれもつまんねえよ」

 白壁の言葉がわずらわしいのだが邪険に扱えなかった。彼は真っ正直に習一の身を案じている。善意を悪意で振り払えるほど、習一は悪に染まっていなかった。ふたたび黙して問題を解く。やむかたなし、といった様子で白壁は席を立った。

「才穎高校には寮があるんだとさ。先生たちは結構おもしろいらしいし、そこなら小田切さんの居場所が見つかるかもしれないな」

 白壁は暗に習一の一人立ちを勧め、自席へ着いた。習一は頭を起こして彼の姿をはっきりと捉える。前列の席に座る生徒の背はしゃんとしていて、広かった。



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