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午前の授業が終わると生徒たちは昼食をとる。習一の席の周りにいた生徒は自席を離れるか、別室へ逃げた。反対に、午前最後の授業を担当した教師は近よる。四十代の中年男性で、意志の固そうな太い眉毛が印象深い。姓を掛尾という。彼はこの学校の教師の中では珍しい真人間だと習一は認めている。それは同時に教師陣営中の異端者であることも意味した。
「小田切、体の調子はどうだ? だいぶ痩せたようだが……」
「なんともない。先生こそ、変な教師が来なかったか?」
「才穎高校の人のことか? 格好は一風変わっているが、誠実な先生だったぞ」
人物評が世辞でないことは評価者の晴れやかな表情でわかった。
「お前が不慮の事故で期末試験を受けられなかったから、再試験の機会を与えてほしいと頭を下げてこられた。あんなに子どものことを真剣に考えるとは、若いのに感心な人だよ。学校の評価がどうだ、生徒の成績がどうだという体面ばかり気にして、肝心の子どもの気持ちを考えようとしない連中に見習ってほしいもんだ」
ここぞとばかりに掛尾は一部の偏狭な教師を糾弾する。あるいは学力主義な親のことを言っている。そういった大人たちと衝突する習一におもねった可能性はあるが、この教師の場合はこれが本音に聞こえた。掛尾が周囲の人間をなじりながらもこの学校に留まる要因は、習一のような常識はずれの生徒をすくいあげる目的があるらしかった。
「あの銀髪の教師がオレの面倒を看ようとする理由、先生は知ってるか?」
掛尾はきょとんとした顔をする。この教師も理由は知らないのか、と習一は落胆した。
「小田切が才穎高校の生徒と喧嘩しただろ? 止めに入った先生が彼だったそうだ」
掛尾は当事者が他人事のような質問をしたことに軽い戸惑いを感じたようだ。
「その時、小田切をひどく痛めつけてしまったことに気負いして、お前を手助けしてやりたいと思っているらしいぞ。シドさんはお前に伝えてないのか?」
自分が他校の生徒と喧嘩した──そんな騒動はありふれている。しかし、習一の記憶には銀髪の男が自分を苦しめた情景が残らない。これが警官の言う、習一が失った記憶か。今の習一には身に覚えのないことゆえに、あの教師は習一に援助する理由を述べなかったのだ。彼が掛尾に話した動機は、習一の補習にこぎつく交渉に必要だったからだろう。
「……あいつ、オレにはぜんぜん説明してくれやしない。今はとにかく普通に過ごせるように努力しろって言ったきりだ」
「彼なりに理由があるんだろう。実を言うと俺の同期が才穎高校に勤めていてな、そいつがシドさんのことを教えてくれたよ」
真面目すぎて融通の利かない時もある。だが誰よりも生徒を想う優しい男だと、掛尾は知人の評をならべた。掛尾自身の言葉と大差ない説明だ。
「当面、あの先生の言うことを聞いておいて大丈夫だろうよ」
「ほかの教師連中はどうなんだ? 外野に余計な手出しをされて不満なんじゃないのか」
「そんなもの、言わせておけばいい。どうせ口だけだからな」
人聞きの悪いことを言い捨てる中年がくしゃりと笑う。
「そうそう、プリントはもらったか? 来週やる補習を受けるのとプリントを提出するの、二つをこなして及第だ。補習はプリントの問題に沿って解説をする。予習しとけよ」
「今朝、あの教師のお使いが家にきて置いていったよ。そいつが出席日数のために登校しろと強制するから、退院したばっかなのに学校に来たんだ」
「そりゃよくできたお使いだな、小田切に言うことを聞かせるなんて、うちの教師にできないことをやってのけるとは」
外柔内剛とはこのことか、と掛尾は新たな評価をくだした。次に腕時計に視線を落とす。
「昼飯を買って食う時間がなくなるか。んじゃ、午後もがんばれよ」
気さくに話しかけてきた中年は教卓にある授業道具を抱えて退室した。
今朝、習一を学校へ導いた少女は昼食を用意すると言った。部外者が校内へ入ることは一般的にはばかられる。立ち往生しているやもしれず、習一は校舎の外へ出ることにした。
廊下ですれちがう生徒は習一の気分をそこねた。冷たい視線をよこす者、畏怖を注ぐ者ばかり。今朝は遅刻という明白な罪を犯したがゆえにそれらの視線は公然と承服できた。こたびの注目の第一原因は頭髪だ。習一は校則で禁じた染髪を堂々と行なう。一目でわかる問題児に気安く接する生徒はいない。教師にしても掛尾が特殊であり、他の教師は習一と関わろうとしない。貧乏くじを引いた担任の教師が嫌々業務の一環として習一をたしなめる程度だ。この人間関係は習一が望んで生み出したもの。甘んじて負の象徴であり続けた。
習一は内履きのまま蒸し暑い外へ出た。心持ち涼める木陰に早々と入る。天気のよい昼休みといえど外へ出て飲食及び遊興する輩はいなかった。
木々を通り学校の正門へ向かう。突然木の上から何かが落ちた。それは逆さまになった人影だ。空中で止まったまま、銀の髪を垂らして習一を見つめる。今朝、習一に登校を促した少女だ。枝をひざ裏とふくらはぎではさんで、逆さ吊りの状態になっている。
「えいようってよくわかんないんだけど、今日はこれ食べてね」
少女は両手で枝をつかみ、ひざを浮かした。くるりと後転し、すとんと両足を地につける。見事な軽業だ。その技芸を誇示することなく少女はリュックサックを下ろす。中からビニール袋を出し、それを習一に渡した。習一が受け取った袋にはスーパーやコンビニで見かけるサンドイッチ、おにぎり、サラダ、お茶のペットボトルが入っている。
「これがオレの昼飯か。お前の分はどうした?」
「わたしはいらないの。シューイチだけ食べて」
「ふーん、ありがとよ。全部でいくらだ?」
「いーの。シドのおごり」
少女がきっぱりと断る。習一はズポンのポケットに入れた財布に触れたまま、固まった。
「補習がおわるまでのごはんはシドが用意する。だから勉強にせんねんしてね」
「なんでそこまでする? 若い教師の給料なんざ知れたもんだろ」
「おかねは心配いらない。シドはつかいみちなくて、たまってくから」
「金の使い方を知らねえタイプか。浪費するのは他人のためなんて、どこの慈善家だよ」
「うん。そうやって子どもを助けるって、ある人とやくそくしたの」
「へえ、その約束をするまでにえらい美談があるんだろうな」
彼らの背景を聞くつもりは習一にはない。冷えた室内へもどろうと踵を返した。
「……きれいなはなし、じゃない。いっぱい、ひどいことした」
後方から少女の力ない声が微かに伝わった。習一は意味深な発言の真意を聞こうと振り返ったが、少女の姿はもうなかった。




