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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
終章 胸襟
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5

 暗い廊下に光源が一つあった。そこから母の声が聞こえる。

『習一、学年で一位をとったんですって』

 わがことのように誇らしげだった。この口調から察するに話し相手は父だ。

『この成績を維持できたらどの大学でも狙えると、先生がおっしゃっていたのよ』

 三者面談では担任にそう言われた。進学を目指す者にはこれ以上ない評価だ。習一は父の称賛をひそかに期待した。だが父の声は一向に聞こえない。

『……どうして、嬉しくないの?』

 母のか細い落胆の声がもれる。

『あなたはいつもそう。あの子が満点をとったテストを見せてきても全然喜ばないで……一言くらいほめてあげてもいいじゃない』

『ほめなくていい。あいつはできて当たり前だ』

『習一は天才児じゃありません。努力して、いい成績をとるんです。そのがんばりを認めて』

『あいつは血統がいいんだ。あの男の血に感謝するんだな』

 習一の思考は止まった。父がなにを意図した発言をしているのか、わからない。

『またそんなことを……あの子が聞いたらどんな思いをするか、考えたことがあるの?』

 母の返答も習一の理解を超えた。父の言葉はこの時、はじめて出した妄言ではないのだ。

『納得するんじゃないか。父親に顔も頭も似なかったことを』

『顔はたまたま私に似ただけよ』

『ああ、顔はお前似だな。それはよかったよ。カミジョウに似たんじゃ美形にならない』

 カミジョウ、とは母が語る回想に登場した名前だ。写真を見せられたこともある。醜男ではないが麗人でもない、ふくよかな男性だった。それらの情報は決まって父が不在の際に見聞きした。彼は父と母の共通の友人であり、母とは懇意な仲だったという。

『頭だって少し物覚えがよかったのを、あの子なりに鍛えたから雒英に入れたんです』

『あれが「少し」なものか。たった一度教えたことでもしっかり覚えるうえに、抜け目ない観察力がある。カミジョウもそうだった』

『あなただって賢いじゃないの。難関の司法試験に合格してるのよ』

『あいつは一発で合格したんだぞ。俺が一度滑ったのを、カミジョウは簡単に乗り越えていった』

『二回めでちゃんと受かったでしょう。一回の結果なんて、その時の運次第──』

『バカを言え!』

 父がいきり立つ。その悪声には己の自信を粉砕する人物への憎悪があった。

『あいつは急に「海外の仕事をしたい」と言い出して、ほんの数ヶ月で英語と中国語の資格を取ったんだ。中国語なんぞ必須単位だけ習っていたやつが……』

 友人の優秀さを肯定する裏に、醜い嫉妬が凝り固まっている。

『やつはお前に海外行きの話をすぐにしなかったそうだな。なんでか、わかるか?』

『……知りません、そんなの』

『自分の恋人が、法曹界に入る男を夫にしようと考える女だと思わなかったからだ。どんな生き方でも応援してくれると自惚れていたわけだな。あいつは自分のこととなると勘が鈍る……そんなところも習一は似た』

『あの子が父親に認めてほしくて頑張ってるのを、わかってて冷たくするの? そんなにあの人も習一も憎いなら、どうして検査をしないの』

『カミジョウの子だとわかったら、お前は習一を連れて家を出ていくんだろう? 独り身のあいつは歓迎するとも。大企業に勤めていて羽振りがいいんだ、お前もいい再婚相手だと思うはずだ。……思い通りにはさせん。お前たちだけ幸せになってたまるか!』

『だったら習一をどうしたいの?』

『養ってやる。自分が不出来な人間だという劣等感を抱きながら、一生過ごせばいい』

 父の下卑た笑いが響いた。だがこれは真実ではない。脳が手を加えた作り話だ。習一はまどろみの中、己だけが見える非現実の世界を漂流していたと理解した。どこまでが本当にあった両親の会話だかおぼろげだ。

(ほかにも言ってたことがあったかな……カミジョウって人のこと)

 知り得た情報はまだある。ただ、父の嫌疑を聞いた時に知ったこととはかぎらない。

 母の昔話には母と父が学生結婚を果たしたという一段がある。その際に様々な事情を覚えた。どれも母の口伝であり、母の都合の良い部分が切り取られていた。

(いい人、みたいだったな……)

 両親の友人は明朗、かつ才識にめぐまれながらも他者に驕ることはなかったという。父とは性格がまったく異なる男性だ。合わない二人が学生生活をともに過ごせた要因は、ひとえに友人の度量の広さによるのだろう。

(オレみたいなやつでも、仲良くしてくれんのか?)

 そのような空想は過去に何度も出現した。実の父親との疑いのある人物が、行き場のない自分を庇護してくれる。そんな自分勝手な夢想を、最近はめぐらせていなかった。

(もう……いるもんな、オレの保護者)

 習一の身を案じる男がいる。彼がどんな障害でも取り去ってくれる。その事実を掛け値なしに信じる気持ちが芽生えてきた──

(いまじゃ、ない。もっと前からだ)

 信頼はとうにあった。その心に蓋を閉めていただけなのだ。蓋に気付いていながら知らぬふりを続けてきた。それは少し前のシドも同じだ。

 彼は絶対たる主人への忠誠ゆえに自身の感情を押し殺し、望まぬ犯罪に手を染めた。だが小山田とその家族との関わりが、彼の蓋を取り払うきっかけになった。

(あの教師は小山田がいなかったらここにいないし、オレも不良のままだった。結果的にみんながいいほうへ転んでる……のか?)

 長考に飽きた習一はまぶたを開けた。室内は薄暗い。日がのぼりきらない早朝に目が覚めたのだ。二度寝をしようと寝返りを打ったところ、階下から光が漏れる。習一は物音を立てないよう移動し、居間の様子を見た。またベッド下の机には煌々とライトが点いている。ライトの光は縦長の陰影を座卓の上にまで形作る。その影は部屋主のものだ。

(いっつも寝ないでなにやってんだ?)

 好奇が眠気に勝り、習一はロフト部屋をおりた。



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