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二人はアパートのベランダに到着した。室内の座卓に洗濯物の山ができている。その奥にイチカが扇風機の風で涼む。ベランダのガラス戸を開けるとイチカは「おかえりー」と笑顔で出迎えた。知人がベランダから出現したことを日常茶飯事のごとく受け流している。
「おさきにお風呂入ったんすけど、オダのアニキはどうする?」
湯船に浸かる気分ではないがシドが「お先にどうぞ」と言うので、なんとはなしに入浴の流れになった。嫌な汗はべったりかいている。さっさと洗い流すことにした。
風呂を出た習一と入れ替わりでシドが脱衣場に入る。彼は自身よりも風呂場を綺麗にする目的で入浴するのだと昨晩知った。清掃にはそれなりに時間がかかる。話を再開する時機がずれてしまい、習一はじれったく感じた。
帰宅時は未整理だった洗濯物が片付けられ、卓上にはイチカが用意した冷茶が置かれる。
「オダのアニキは、なくした思い出を元にもどしたいんすよね?」
習一はうなずいた。イチカが得意気に破顔する。
「アニキの日記を読んだら思い出せるかも!」
彼女はロフトベッド下の机に行き、棚にしまったノートを取った。
「勝手に読んでいいのか?」
「じゃ、了解をとってくるっす!」
イチカは座卓にノートを置いてから風呂場に向かう。行動の順番が逆だと習一は思いながら茶を飲んだ。ものの十秒ほどで「読んでいいっすよー!」という声が飛ぶ。思えば以前、日記を読んでもいいと本人の了解を得ていた。だがその時はあまり習一の役に立つ記録はないだろうとも言われた。
(このまんま待ってるのもなんだしな……)
適当にページをめくる。開いたページには三月、シドが才穎高校へ赴任するくだりが載っていた。このあたりは習一と出会う前のことだ。とばして他の日付を見る。イチカが習一のとなりに座り、一緒に見始める。
「オダのアニキの話は四月の下旬くらいから出てきたはずっす!」
「お前、いつも日記を読んでるのか?」
「アニキんちに遊びに来た時は読ませてもらってるんすよ。今日は買い物中にアニキが一人でどっか行っちゃってヒマだったんで……」
「だから無断でオレに読ませようと?」
「最初はあるじさんの報告用にまとめてたもんすから、アニキの事情を知っていい人は読めるんす」
「ご主人様に、ねえ。あいつはなにが目当てでここに来たか、聞いたか?」
「人を捜してるっす。何人か連れてったけど違ってて、ヤマダさんがドンピシャなんす」
「ふーん……?」
習一は説明不足な箇所を複数思いついた。捜す対象はどんな人物か。連れ去った人とは露木の言う習一と同じ被害者か。どうやって目当ての人物だと見極めるのか。小山田はどういった理由で当たりの人物なのか。
しかし今は自分の情報を得ようとして日記を漁る。文中にはアルファベット一字で表記される仮名が登場し、なかでもHという名が頻出した。イチカが閲覧をすすめた四月下旬の記録を探すも、習一とは無関係な内容に目がとまる。
『校長の講義中、Hが事務員に変装してきた。目的は私と校長の密会の理由を探るためだという。行動力と胆力のある娘だ。校長が言うには、彼女は私に気があるという。校長の注目を集めると今後の行動に支障が出そうだ』
Hなる人物がシドと直接関わった形跡だ。彼と関連の強い女子生徒──習一は小山田かと思い、イチカに尋ねた。イチカは悔しそうに「そうなんすよ!」と答える。
「もーアニキったらヤマさんに甘々なんすよ! アニキはおいらと何年いたってレディに見てくれないのに、ヤマさんには女性あつかいするんすから!」
「だってお前ガキだろ。自立してたらあいつにベタベタしねえよ」
イチカは熱烈に反論するが習一の興味の対象外だ。Hが小山田だという変換が正しいとわかれば他の情報はいらない。習一は日記を読み進めた。
四月の終わり際、シドは町中の見回りを行なっていたことが書かれる。そして雒英高校の制服を着た金髪の男子生徒について言及があった。習一のことだ。この時期は習一の身辺調査をしていたと書きつづられる。その目的は教え子たちと二度目の衝突を起こす前に、不良のリーダー格を無力化するというもの。
(二回目……? あいつに負ける前に、才穎の連中とやり合ったことがある?)
無関係だと切り捨てた四月以前の過去にさかのぼってみる。シドは四月から赴任したというので、彼が人づてに聞いた騒動だろうか。日記に事跡が書かれていない可能性はあるものの、とりあえず確認する。ぱらぱらと数ページめくった先の二月、そこに少年たちの喧嘩が記載される。
『新たな土地へ訪れる。強く惹かれる力を感じた。同胞に似た感覚だ。力に接近すると少年らの乱闘を目撃した。そこにいた編み帽子を被った一番小柄な子が力を発していた。後日、試験をしよう。もう一つ気になったことがある。あの中で体術に優れる子の一人が私を見ていた。あの視線は偶然ではなさそうだ。帽子の子とは友人のようだった。接近には注意が必要』
喧嘩に関わる少年の身分は不明だが、この時に目当ての人物を見つけたとわかる。姿を消したシドが見える少年とは誰か。習一は自分かと思ったが、編み帽子を着用する知り合いはいない。これはビルの屋上でシドが言った、小山田の友人のことだろう。
(じゃあ帽子の子ってのは小山田か?)
その予想を胸に秘め、脱衣場より鳴る機械音を耳にした。じきに日記の作成者は現れる。習一に衛生を説いた模範として、髪をきちんと乾かした状態で。
(しっかし、体がないっていうバケモンが体を洗う意味はあんのか?)
姿を消した時に体に付着した汚れが落ちそうなものだ。だが衣類が体と同化して消える仕組みを考えると、汚れもずっと付いたままなのかもしれない。
(いや、問題はそこじゃない。あいつがオレを襲った理由……それを知らなきゃな)
枝葉末節にこだわっていては夜が明けても疑問が解消されない。習一は現在一番に知るべき真相を突きとめようと、退院の一か月前にあたる六月の記録を漁った。
才穎の体育祭の記録を読み飛ばしたところで部屋主がやってきた。相変わらずの黒シャツと灰色のスラックス姿だ。彼は寝間着を持たないようだ。
(バケモンだから寝なくても平気なのかな)
またも思考が逸れた、と習一は己に注意する。だがイチカが騒ぐせいで集中が途切れた。
「アニキー! チューするっす!」
「オダギリさんと大事な話をしますから、そういうことは明日以降に」
「イヤっす! いま、愛が欲しいんす!」
イチカがシドに抱きつく。彼の胸に押しつけた顔は嬉しそうだ。シドの腕はイチカの背を包み、うなじと二の腕に手を置く。手から黒いもやが発生した。
「あー……アニキ、おいらを眠らせるんすね?」
黒い気体はイチカの上半身から出て、シドの体へ吸収されていく。
「今日のところはこれで休んでください」
シドの背中をつかんでいたイチカの手が落ちる。あんなにはしゃいでいた彼女がすぐに眠りに落ちた。ぐったりした少女をシドが横抱きにし、ロフトベッドに横たわらせた。
「お見苦しいところ見せましたね。この子はいつまで経ってもお兄ちゃん子なんですよ」
「あんたはそいつの兄貴じゃないだろ?」
「イチカさんには本当の兄がいました。残念なことに、私がこの世界へ来る前に亡くなったそうです。その兄の代わりが、私です」
シドはベッド横の階段をおり、机のライトを点けた。
「私が早くこちらに着いていれば助けられたかもしれません」
「そんなの考えるとキリないぞ。イチカはあんたに会えて喜んでる。それでいいじゃねえか」
シドが悲しそうに笑った。次に部屋の照明のスイッチがある壁へ向かう。
「部屋の明かりは消しましょう」
「ああ……イチカが起きないようにだな。わかった、オレも話の腰を折られたくねえ」
習一はシドがイチカを眠らせた力について触れなかった。それは必要な知識ではない。そう己に言い聞かせていると天井の明かりが消えた。机のライトは習一とその周辺に光を届ける。ただし光源から距離をへだてるごとに明るさは弱くなった。
「日記を読みたかったら私の机でどうぞ」
「あんたに直接聞く。そのほうが早い」
習一は日記を座卓に放り、壁際で立て膝に座る人型の異形を見た。




