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光葉が先に仕掛けた。単純だが破壊力のある右ストレート。その拳にはこの場に立つ意義を貶された憤激がこもる。怒りのあまり大振りになった動作は見切られ、シドが半身をずらす。光葉の太い腕は黒シャツの胸元をかすめた。光葉は外れた拳を自身の胸へ抱きこむように薙ぐ。これもシドが光葉の背後へ移動してかわす。全力で振りかぶる光葉に対し、シドはその場を動くだけに留まる。彼は最小限の自衛に専念してばかりで攻勢に出ない。
「挑発しといて、ビビっとるんか!」
光葉はかかと落としを繰り出す。ぶん、と大きく空を切った蹴りはシドの肩を狙う。その足首をシドの手が受け止めた。光葉の足を発泡スチロールのように軽々と持つ。
「なんやと……?」
シドは光葉の太い足をポイっと捨てた。光葉は多少よろめきつつ体勢を整える。
「わかりませんか。私と貴方との力の差はかけ離れていることを」
光葉は力量を低く評価されたことへの報復を起こさない。闘争心にかげりが見え始めた。
「元気に帰れるうちに引いてください。貴方が実力を高めた上での再戦は受け付けます」
「……アンタは優しいな。やけど、その優しさが他人を傷つけるっちゅうのは覚えとき」
挑戦者は無謀なタックルを試みる。シドが寸前で回避しようとしたところ、彼のサングラスが宙を舞った。光葉の手足は触れていない。だがシドは顔面に攻撃を食らった。
「剣道三倍段、てな。リーチの長いもんが有利や!」
光葉は黒い警棒を振り上げた。伸縮する携帯武器を隠し持っていたのだ。予想外の打撃を受けたシドは顔をそむけたまま、迫りくる敵に注意を払わない。
「もらったぁ!」
勝利を確信した激声が響き渡った。警棒は戦意を見せない男の頭めがけて振り下ろされる。無防備な銀髪が揺れるのを最後に、習一は思わず目をつむる。だが打擲する音は発生しなかった。かわりに誰かの苦しげな声が聞こえる。習一は慎重にまぶたを開けた。
二人の男が向かい合う姿があり、どちらが優勢か判断がつかない。光葉が警棒を落とし、空いた手を自身の首元へ運ぶ。彼は己の首を掴む手をはがそうと必死にもがいた。光葉を締め上げる手は一つ。しかし光葉の両手はその握力に負け、拘束を解けない。
「『考えなしに打ち合うな。己の弱点を相手に教えることになる』」
感情をともなわない、朗読のような語りが始まった。
「『決して驕るな。子どもが振るう短剣とて己が命を落とす凶器になりうる』……」
この朗読の一文に、習一はなぜか寒気を感じた。
「私の武術の師匠が述べた戒めです。貴方の師匠は教えてくれなかったようですね」
言ってシドは光葉を解放した。光葉は膝を屈し、喉に手を当てて咳こむ。
「手錠の鍵をください」
シドが差しのべた手を光葉は憎たらしいもののように払いのける。
「……渡せるか! ワシはまだやれる」
「強情ですね。どうしたら納得してもらえるのですか」
「もちろん、アンタの仲間に会わんと帰れん!」
「──わかりました。一目だけでもお見せしましょう」
シドは習一を見た。習一は自分の後ろになにかあると思った。彼の視線の先を見ると木の幹から一人の男があらわれる。光葉に匹敵する大男だ。彼はつばの広い帽子を被る。男の全容がはっきりするや否や、習一の肌が粟立つ。手錠がガチャガチャと鳴って習一の逃走を阻んだ。
(こいつは……!)
習一は理屈抜きにその男が危険だと感じた。泣きたいほどの恐れが全身に押し寄せる。その原因は理論では推し量れない。ひたすらに本能がこの男への強い拒否反応を示した。
習一とは正反対に光葉が歓喜した。意気揚々と立ち上がり、帽子の男に一歩近寄る。
「アンタか……! ちっとばかし頭を見せてくれんか?」
男は帽子の天井を手のひらで覆い、無言でどけた。その頭髪はシドと同じ輝きがある。照明の不十分な野外といえど、シドという標本と比較すると銀色に違いないと思えた。
「ホンマもん、みたいやな。よーし、アンタと勝負や!」
意気込む光葉に対し、シドは頭をふって拒否する。
「ダメです。事前の約束と違うでしょう」
「ええやん。カタいこと言うなや~」
光葉は合掌してシドを拝みたおす。たった一人が信仰する神仏は深いため息をついた。シドは帽子を被りなおす男に「手加減なしで」と忠告し、後方へ下がる。光葉のねばり勝ちだ。使い捨ての崇拝者の皮を脱いだ男は嬉々として構えた。
「今度こそ、勝──」
言い終わらぬうちに男の掌底が光葉のみぞおちに入る。光葉は相手の戦法がシドと同じ、最初は防戦に徹するものだと高をくくっていたのだろう。まるきり警戒していなかった腹に攻撃を受け、やすやすと吹っ飛んでしまった。地面に倒れた光葉は腹をおさえる。
「っく~! ヒトが喋っとる間に手ぇ出すんは卑怯やぞ!」
「徒手試合の途中から武器を使う行為は卑怯ではないのですか」
シドはすたすたと光葉に接近し、その顎をがしっとつかんだ。
「な、なにする気や?」
「これ以上は時間の無駄です。貴方には眠ってもらいます」
光葉はシドの手を離そうとして暴れる。その抵抗は数秒減るごとに目に見えて衰え、動かなくなった。シドは光葉を地べたに放置し、帽子の男に歩み寄る。
「お疲れさまです。もう変化を解いていいですよ、エリー」
「うん」
屈強な大男の口から少女の細い返事が発せられた。直後に男の姿が絵の具でぼかしたかのように潤み、人の体を失くす。全体的に丸みを帯びた、黒い、人間ができそこなった怪物が出現する。首のない頭部には大きな緑色の双眸があった。
「ほんとうに、そいつが……エリー?」
共通点は目の色と声の二点のみ。それ以外は見る影もない。黒の怪物がずるずると棒状の足をひきずり、習一のもとに来た。習一は恐怖で固まってしまう。見た目は異形であろうと二たび習一を光葉の手から救おうとした相手だ。自分を襲うはずがない──そう頭で理解はできても、体は猛烈に生命の危機を感知した。
異形の腕が習一の拘束されていない手を包む。ひんやりしたクッションのように柔らかな感触があった。その冷たさが習一の臆病風を強める。習一は助けを求めてシドを捜す。しかし教師の姿はない。ただ一人、習一に視線を射る男がいた。光葉を吹き飛ばした帽子の男。だがそれは黒の怪物と化したエリーが形作る偽の姿だった。ではあれは誰なのか。
(まさか、あいつが本物の……?)
習一は誰のどの姿が本物なのかわからず、混乱した。唯一の真実は、習一に良くしてくれた者たちの姿がどこにもないということだ。習一はひとまず人の原型を保つ男に助けを請おうと考えた。男の顔を凝視すると、その瞳が冷たい青色だと気付く。
『悔いても遅い。お前には助かる機会を与えた。むげにしたのはお前自身』
男は口を堅く閉ざしているが、習一にはそんな言葉が聞こえた。それらは過去に、この男に言われたのだ。今と同じ、黒の化物に束縛された状態で。
習一の視野に黒い異形の頭が入りこむ。緑の目の下に丸い空洞を一つつくり、習一の眼前を覆い尽くす。喰われる──その空洞は人の骨と肉を食いちぎる口だと、習一は身をもって知っていた。
「うわああああ!」
『ああぁぁぁ……』
──現実の絶叫と記憶の中の断末魔が共鳴した。




