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「なんでワシを見てすぐ逃げたんや?」
光葉は手にこめた力とは真逆に、子どもに諭すような声で尋ねる。その声色はいっそう危険な状況を物語る気がして、習一は正直に話すことに決めた。
「あの時、『走れ』って言われたから」
「そんな声、ワシは聞いておらんで」
おかしな主張だ。間違いなくエリーは声を張りあげて習一に逃走を命じた。そしてどうやったか見ていないが、追いかけてくる光葉を転倒させていた。
「あんたを転ばせた女の子がいただろ。あいつが、そう言った」
「女ぁ? そんなやつ見てへんな。すっ転んだのはまあ、足がもつれたからやと思うが」
光葉はエリーとかなりの近距離にいたにも関わらず、彼女の存在に気付いていない。エリーの声を聞かなかったという証言といい、まるで彼女は習一にしか感知できぬ幽霊になったかのようだ。そんなはずはない。シドも小山田も、エリーとは自然なやり取りをしている。
「まあええわ。ニーチャンのセンセイの家、あそこで合っとるか聞きたかったんや」
「それを聞くために、金を使って人を雇ったのか?」
二人組の男の言動により、かいま見える光葉の行動。その原動力は習一が簡単な質問に答える程度のことを最終目標には設定しない。
「よう口が回るやっちゃな。もうちっとおバカなほうがかわいげあるで」
「それで、あんたは何がしたいんだ。あんな頭の軽そうな連中に小金をちかつかせておいて、慈善家気取りしたいわけじゃないだろ」
「その通り、施しただけじゃワシは満足せえへん。ワシの望み、もう知っとるやろ?」
光葉は習一の背後に回り、後ろ手を組んで本格的に拘束する。体格差のある相手への抵抗はできなかった。習一は彼の目的が自分にはないことを頼みに平静を保つ。
「あの教師と果たし合いするのか。だったらオレは関係ない」
「ニーチャンの身柄と引き換えに戦ってもらう。そうでもせんと全然会われんくてなぁ」
無理もない提案だ。シドは不可思議な協力者のおかげで光葉との邂逅を未然に回避している。それゆえ光葉が強硬手段に出た。それは理解できるのだが。
「どうやって呼びつける? オレはあいつの連絡先を知らねえぞ」
「なんやと、連絡網っちゅうんはないんか?」
「あいつはオレの学校の教師じゃない。前にもあんたにそう言ったつもりだが」
光葉は「なんやとぉ?」とキテレツな声を出した。
「とぼけとったんやないんか。じゃ、センセイはなんでニーチャンにかまけとるんや」
「オレは覚えちゃいないが、オレになにかやらかしたんだとよ。その詫びだって」
この解説で光葉が納得できたか確認できないが、話が進展しないまま光葉は歩き始めた。
「ほんならどないしよか。直接センセイのおる部屋にお邪魔するか」
アパートへ連行される道中、部屋はどこかと聞かれても習一は知らぬ存ぜぬを突き通した。さいわい習一がシドの下宿先に寝泊まりする現況は知らないようだった。習一から情報を引き出せない光葉は一部屋ずつ訪問すると言い出す。習一を捕縛した状態で住民と会ったなら、異変を感じた住民が通報するだろう。警察沙汰はまずい。それは光葉も同じはずだ。
「オレを捕まえたまんま、部屋を総当たりする気か?」
「そらそうやな」
「『自分は不審者です』と紹介して回るようなもんだぞ」
「それは気ぃつかんかったわ。まあええ、用が済んだら寄りつかんからな」
警官が来るという発想は光葉にない。もしくは警官があらわれたところで支障がないと考えたのだろう。この大男は卓越した身体を有する。何者にも負けぬ自信があるのだ。
「いでっ」
突然光葉が痛みを訴えた。コロコロと軽い物が地面に転がる。途端に習一の手首がぐいっと下に押しやられた。拘束がすべり落ちる。習一が咄嗟に後ろを見れば、少女が走ってきている。
「こっち!」
エリーが腕をのばした。だが光葉が習一を抱えこんでしまい、少女の手は空を切った。
「なんや、誰かがワシの邪魔をしよる!」
光葉は頭をぶんぶんと動かす。あたりは無人。光葉は「おっかしいな」と一人ごちた。
(あれは見間違いだったのか?)
大男はまたも少女に気付かなかった。習一の耳には真新しいエリーの声が残るのだが。
「その少年を放してください」
もはや親の声より聞き慣れた声だ。後ろに向きなおると目の据わった銀髪の教師が立つ。
「やぁっと出てきてくれたな。アンタを捜してあちこち回っておったんや」
「貴方の事情は知りません。その子から離れてください」
「まずは不意打ちの謝罪、と言いたいとこやけどええわ。ワシの頼みを聞くこっちゃ」
「一つだけですよ」
「アンタの仲間にアンタと似たような銀髪の男がおるやろ? そいつを紹介してくれや」
今朝の光葉はシドと戦うのでもよい、と言っていたのだが、本音はやはり違うらしい。
「私がお相手します。私に勝てないようでは彼には到底かないません」
「アンタを倒してもな……ちょいと気乗りせんのや」
「わかりました。貴方が私の膝を地につけられたら、彼を呼びましょう。いかがです?」
温厚な男による好戦的な条件がつらつらと流れる。習一は普段の彼との大きな隔たりを感じた。しかしよく考えると、決闘になれば光葉は嫌でも習一を放さねばならない。シドは戦いを引き受けることで習一を逃がそうとしているのだ。彼の根底にある行動理念は変わらなかった。
光葉はこの要請に快諾し、目の前の公園に入る。そこに習一が急所を蹴った男の姿はなかった。園内の広場で戦うかと思いきや、光葉は広場を通り越す。
「おい、どこ行く気だよ」
「ニーチャンをどこも行かれへんようにしとくだけや」
光葉は広場の端にある高さの違う鉄棒をぽんぽんと触った。内ポケットからじゃらりと音のする金属を出す。外灯の光を反射するそれは警察が所有する手錠に酷似していた。
「カギはもっとるさかい、安心して捕まっとってくれや」
二つの輪っかのうち片方を習一の手首にはめ、もう片方は鉄棒に繋ぐ。習一は完全に繋がれた犬状態になった。シドは腕組みをしながら光葉の所行を見ている。
「疑り深いのですね。私は人質がいなくとも試合をしますよ」
「まぁまぁ、気ぃ悪くせんでくれや。証人はおって困らんやろ?」
「どちらが勝った、という証言者が欲しいのですか」
「そういうこっちゃ。ほんじゃ、準備はええか」
「その前に一つ、お尋ねします。銀髪の男を倒す理由はなんですか」
光葉は白のジャケットを脱ぎ捨てた。首の骨をこきっと鳴らす。
「ワシはこれでも末っ子でなぁ、アンタの年下なんやわ。若いとなっかなか周りに認めてもらえん。せやけど無敗のバケモンを倒したあかつきにゃ、ワシの箔がつくってもんよ」
「つまり、名声が目当てですか」
「そうや。男らしい理由やろ?」
それはプライドや外聞の概念に疎い者には理解しがたい動機だ。シドがうつむく。
「……くだらない」
非難を凝縮したつぶやきが開戦の合図になった。




