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習一は掃除機の音で目覚めた。現在いる空間の壁には床のすぐ上に小窓があり、そこから光が差しこむ。その明るさは日の出から数時間が経過したことを予想させた。
ロフト部屋は人がまっすぐ立てないほどに天井が低い。この場での移動は腰を曲げて歩くか、四つん這いになる。習一は四肢をついて動いた。ロフト部屋と居室との境目には蛇腹折りの硬いカーテンがあり、昨晩は空調の冷風を遮断せぬよう半分開けていた。習一はカーテンを全開にする。初めに黒灰色のシャツが見え、次に掃除機のノズルがすべる光景が見える。ほこりを吸い取る音が止み、清掃人が顔を上げた。連日、目にするサングラスがある。
「おはようございます。昨夜は眠れましたか」
習一は素っ気なく返事をしておいた。部屋主は掃除機を持ち上げて玄関へと姿を消す。階段を降りた習一は開放されたベランダに注目する。物干し竿に制服のズボンがハンガーにかかった状態で干されていた。他の洗濯物はなく、単品で洗われたらしい。
(クリーニングに出した……ら、こんな早くもどってこないし、干さなくていいよな)
他の服とまとめて洗濯機で洗えばいいのに、と効率の悪さを胸中でなじった。一点干しを行なった者は脱衣場に行き、脱水した衣類を入れた洗濯かごを抱えてくる。シドはベランダに出て衣類を干す。その背中に、習一はつい先ほど感じた疑念をぶつけた。
「なんでズボンだけ先に洗ったんだ?」
「手洗いが機械の洗濯より早く終わりました」
シドは物干し竿と洗濯かごの二方向にのみ顔を向けつつ答えた。
「オレの制服だけ? あんたのズボンは?」
「洗濯機で洗えるタイプですので、いつも自動洗濯しています。学校の制服ズボンは替えがききませんから安全な方法で洗いました」
「そんな手間のかかることを……」
「私は掃除と洗濯が好きです。これくらいの作業は負担になりません」
シドは洗濯ネットに入れた衣類を取り出す。それは制服のシャツだ。多少ねじれた箇所はあるが、畳まれていたあとが残る。
「洗う前にも畳むのか?」
「こうするとシワになりにくいのだそうです」
「デカイ体しといて、マメなことやるんだな」
「大事な制服ですから。それはそうと顔を洗ってはどうです。朝食をとりに行きますよ」
「どこで食う気だ?」
「最初に私と一緒に行った喫茶店です」
「オカマがいるっていう店か」
「そういう覚え方が適切なのかわかりませんが、そこで合っています」
目下の行動計画を聞いた習一は洗面所に行き、顔に水をぱしゃぱしゃかける。朝の洗顔はしなくとも気にならない性分だが、そのことで保護者にそむく意義はないので指示を聞いた。
ぞんぶんに水を浴びたあとは洗面台に掛けたタオルで顔を拭く。水気を取った顔を鏡に映すと、少しこけていた頬が幾分ぷっくりしている。この一週間、シドの手引きで栄養を摂取しつづけた成果だ。退院したての頃は心身ともに萎えた状態だったのが、目に見えて回復した。唯一、もどらないものは不特定多数に向かう敵愾心だ。
(飼い馴らされた犬になっちまったか?)
別人かと思うほどに習一は他者への反抗が減った。憑き物が落ちたかのごとくあらゆるものを受け入れる心構えができた気がする。その原因は推理するまでもなくあの男にある。
(変だな……あんな真面目くさった、獣贔屓野郎に……)
改心させられている、と考えるのを頭をぶるぶるふって打ち消した。
ノーネクタイの同室者と共に外出し、徒歩で個人経営の喫茶店に行く。照りつく太陽は熱く、習一が洗った顔に汗が流れた。夏場は朝洗顔の意味がないと思った。
数日ぶりの喫茶店内は客数が少なかった。レジの店員はボーイッシュな女性のままだが、客を案内する給仕は小山田だ。習一は噂のオカマ従業員の姿がないのを不審に思う。
「やたら胸のデカイ男女は、いないのか?」
「オーナーはモデルのお仕事中だよ。ちょっと日取りがわるかったね」
その表現は習一がオカマ目当てに来たかのようだ。習一は「べつに会いたかねえよ」と毒づいた。
習一はドリンクの注文を終え、取り放題のサラダや卵を皿に盛って食べる。同席者は店内の雑誌コーナーにあった新聞紙を広げる。黄色のサングラスや変わった髪色がなければ普通のビジネスマンだ。様になるくつろぎぶりを前にして習一は声をかけるのをためらい、顔見知りの給仕が飲み物と食べ物を届けるまで無言でいた。
深緑色のエプロンをかけた小山田が厨房へ去る。シドは自分の食事を習一の皿に分けた。彼の意識が習一に向いたのを見計らい、習一は一番に気兼ねする事柄をぶつける。
「オレをとっとと部屋から出したいだろ。そんなにのんびりしてていいのか」
「貴方が納得のいく身の振り方を決めるまで待ちます。その間の生活費はご心配なく」
「いつまで待つ気だ? 何年も居候されて、平気だっていうのか」
「貴方はきっと一年経たないうちに決断します。それだけの知恵が備わっていますから」
「ずいぶん買い被ってくれるな。オレは親と喧嘩してウダウダ一年無駄にした野郎だぞ」
「以前はそうすることが父への反抗になると思ったのでしょう? その行為が優柔不断だとか、愚かだということにはなりません。貴方の価値観がそうさせたのだと思います」
シドは皿を置いた。食材の量が増した皿を習一の前に移動させる。
「貴方は以前の貴方がしなかった行動を選んでいます。価値観が揺れ動く最中なのです。今後悔いが残らない決定ができるよう、それだけを考えてください。私にかかる労苦は全く考えなくてよろしいのです」
シドは再び新聞の記事をながめた。習一は譲渡された食べ物をばりばり食う。どうにか相手の涼しい顔を崩せないものかと思案し、下手をすれば自分が窮する話題を思いついた。
「あんたは自分の父親を覚えているか?」
習一の記憶が確かならば、シドにとっての親は彼が主と呼ぶ相手。性別は知らないが、ひとまず父親として話を振った。シドはわずかに眉を上げて習一の顔をじっと見た。唐突な質問に不快を示す様子はない。彼は彼自身の父に対する嫌悪感を持たないようだ。
「親にあたる方は一人いますが……父親ではない気がします」
「なんだ、その言い方。あんたのご主人様はオカマか?」
「見た目で性別がわかる方ではなかったもので」
「ますますわからねえ。男か女かも知らない相手を、本当に親だと思えるのか」
「そう、ですね……普通は親とは呼べないのでしょう」
彼の視線は左手の指に落ちた。白い宝石がついた指輪を見ている。
「この指輪を私に与えたことくらいですね。あの方にとって……私が特別だという証は」
習一の家庭以上に複雑な背景があるらしい。習一は深く踏み入ってよい事情かどうかと悩み、黙った。生まれついての従者とは、昔の奴隷制度を匂わせる出自だ。習一の家庭事情を鼻で笑い飛ばせるほどの過酷な環境で育ったのではないか。
「……あんたは、オレをとんだ甘ったれだと思うんだろうな」
「そんなことはありません。人が感じる幸不幸は性格嗜好と同じく、優劣をつけられません。他者への隷属は貴方には耐えがたい苦行でしょうが、私は抵抗がなかったのです」
「人の子どもになるのも適材適所、てか」
「親は自分の意思では選べませんからね。育ての親と折り合いがつかない人は必ずいます。その場合は一人立ちするか、馬の合う保護者を見つけられたらよいのですが──」
ああそうだ、とシドは何かをひらめいた。
「局地的な状況ではありますが、私が父のように感じた男性はいます。武術の師匠です」
「あんたに弓を教えたやつか?」
「はい、弓以外にも様々な武器の扱いを教わりました。一対一で打ち合う時はなんとも思わなかったのですけど、初めて弓を習う際……言いようのない感覚を覚えました」
シドは両手をすっと動かし、弓をつがえる姿勢をとる。
「彼が背後から私の手を握り、弦の引き方を教えました。その時に私は安心したのです」
空想の弓を置いた彼は手のひらを見つめる。ほんの少し、嬉しそうだった。
「彼のそばにいる間は、私に降りかかる危険を彼が取り払ってくれる。いま考えてみると、そんなふうに感じたのだと思います」
この発言に習一は違和感を覚えた。かように強く、自立した男に、守護者を得て安心する感覚が本当にあるのか。
「師匠に守られてて嬉しいと思えるか? あんたにとっちゃわずらわしいんじゃないか」
「当時の私は右も左もわからない赤子同然でした。戦う術も、他者と接する方法も知らない。無知な私に最善の方法を指導する師匠は太陽にも等しい存在です」
「ふーん、ずいぶん懐いてるんだな、その師匠って男に」
シドは申し訳なさそうに伏し目がちになる。
「いえ……武術の師匠にはあまり敬慕の情を抱きませんでした。彼は武芸の腕は一流ですが、人格者には程遠い方です。私がいつも慕っていたのは……ケイという女性です」
「恋人か?」
シドは微笑みながら頭を横にふった。
「いいえ、彼女も私の師匠です。彼女からは体術と一般常識を習いました。私が間違いを犯せば叱り、正しい行ないをすれば褒める。善悪の判断を教えてくれた……大事な親です。母親と呼べる年齢差はありませんでしたがね」
「じゃ、姉貴ってとこか」
「はい。私は手のかかる弟でした」
習一は昔話の背景を大まかに想像した。シドが武術の指導を受けた時はまだ弱々しい少年だった。親と呼んで差し支えない中高年の男に師事して体を鍛え、姉に相当する若い女性に品行を正してもらい、それらの過程を経て現在のシドを形作った。彼は元から強靭かつ理性的な男性だったのではない。周囲の人間がそうなるように育てたのだ。
「彼女たちとの修業は大変でしたが……とても充実していましたよ」
回顧者は目を細める。その言葉は一点の曇りもない本音だと習一に認めさせた。実の親がおらずとも満ち足りた人生は送れる。だがその実現は個人の力だけでは成就困難。出会う人々に恵まれたがゆえに、足ることを知る彼がうまれた。
(こいつが才穎じゃなくて、うちの高校に来ていたら……)
ありもしない世界を思考するのがバカらしい。習一は席を立ち、無言でトイレへ入った。




