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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第六章 雲隠れ
34/49

3

 習一はあてもなく歩いた。どこかへ行こうという明確な目標は出ない。無心に、何も考えないようにと、無意味に急ぐ。やみくもに移動するうち、自分以外の足音が常について回ることに気付いた。習一が立ち止まると追跡者の物音もやんだ。後ろを見れば体格の良い男性のシルエットがそこにある。

「どこまでついてくる気だ?」

「オダギリさんが一晩過ごす場所を決めるまで、同行します」

「駅の待ち合い所やコインランドリーで寝るかもしれんぜ」

「そこではぐっすり眠れますか?」

「そんなわけあるか。硬い椅子の上で熟睡できやしねえよ」

 父に弁論で勝ったくせにトンチンカンなやつだ、と習一はむしゃくしゃした。

「では布団のある寝床を望まれるのですね」

 言うまでもない理想条件を教師は問う。習一は馬鹿げているとは思いつつ返答する。

「布団はそのへんに落ちてないだろ。あっても虫が湧いていそうだ」

「清潔な寝床は私が提供しましょう。どうです、私についてきませんか?」

「どこへ行くんだ?」

「私の下宿先です。今日のところはそこで手を打ってください」

 教師の部屋で寝泊まりする。そこに彼の妹分も住むのだろうか。

「エリーもいるのか?」

「彼女はほかに厄介になるお宅があります。いたりいなかったりしますね。オダギリさんはエリーと一緒にいたいのですか?」

「いや、あの子とあんたは家族みたいだから聞いただけだ。そんな色ボケた発想はない」

 教師の頭部が揺れる。首をかしげたように見えた。

「色ボケ……? 私は貴方がエリーに気を許していることを言ったのですけど」

「オレが?」

 教師の目には習一が銀髪の少女に心を開くものだと映っている。習一にその実感はないが、教師よりは警戒していない自覚があった。

「外で立ち話もなんですから、私の部屋へ行きましょう。蚊に刺される前に」

「ああ……わかった。あんたの世話になる」

「一つ、よろしいでしょうか」

 話がまとまったのになにを言い出すのやら、と習一は耳を傾ける。

「私のことはシドと呼んでください。私はこの呼び名を気に入っています」

「なんだ、そんなことか。気がむいたら呼んでやる」

 習一は一宿の恩人に不遜な了承をした。その物言いが礼儀知らずだとわかりつつも「わかった、そう呼ぶ」とは明言できなかった。相手は周囲から先生の尊称付きで呼ばれている。習一が出会った人物では、彼を名前だけで呼ぶ者はエリーのみ。習一も呼び捨てにしてよいのだろうが、近親者が使う呼び方を乱用する気になれない。白壁のように他校の教師にもかまわず「先生」と慕う純朴さもない。「あんた」という人代名詞がもっとも習一の気質に合致する。シドに投げた台詞は習一にとって最大限の前向きな表明だった。

 シドが習一の言い方を不快に感じた様子はなく、淡々と下宿先に案内する。その仮住まいは才穎高校の経営者が建てたアパートだと語った。該当者は少ないが同学校に通う生徒も住むという。一人暮らしをする高校生は存在するのだ。

(オレも……早く住む所を見つけないとな)

 居候を頼める身内はいない。住居費を払う資金も持ち合わせていない。どうやって一人暮らしを成立させるか、と考えると途方に暮れた。過去にも空想した一連の流れだ。そのたびに自分には無理だと思い、実家に縛られるのを父への反抗の機会とした。息の詰まる生活との別離を決心した今、すぐにでも金策と住居の手配を考えるべきだ。

 生活の目途が立つまでは教師に頼らざるをえない。おそらく彼もそのつもりだ。浮浪児を放置すれば、窃盗恐喝といった犯罪行為に走る事態は想像がつく。警官を友とする人物が犯罪者予備軍をみすみす見逃しはしないだろう。

(こいつがオレを守るワケはきっと、他の連中のためなんだ)

 習一を憐れんでの善行ではない。他者への被害を防ぐ自衛策だ。そう考えると厚意に甘んじる引け目は薄れた。同時にその推察が真実を捉えていないのではないかと訴える異物が胸の奥に住みつく。異物に対峙する気力は持てなかった。

 シドはアパートの自室の扉を開け、暗い部屋の照明を点ける。玄関の奥には部屋を仕切る戸があった。その戸も開いて電灯をともす。習一が一番に目にしたものは仕事机とその上にある寝台──ロフトベッドだ。高さのあるベッドに合わせて部屋の天井も高くなっている。

「少し部屋の整理をします。その間、体を流してください。着替えは出しておきます」

 着の身着のまま家を出た習一には寝泊まりする用意がない。しかし、かろうじて習一の衣服一式はこの部屋主に預けてあった。

「あんた、こうなるとわかってたな」

 シドはリモコンを操作して冷房を入れる。彼は黙って習一を見た。

「だから風呂屋に行かせて、着替えを確保したのか。オレをいつでも迎えられるように」

 思えば律儀な彼が洗濯物を一向に返さないのは不自然だった。現在は一年でもっとも洗濯物が乾きやすい季節。一日経てば返却できたはずである。彼はこの三日間をわざわざ習一の家先に出向いたのだから、もののついでに衣類を持ってこれた。あるいは便利屋なエリーに届けさせることだってできただろう。

「……貴方は父親と距離を置くべきだと考えていました。宿泊所が私の部屋か、オヤマダさんの家が良いかわかりませんが、衣食住に関しては不自由させません」

「なんのために、オレなんかの世話を焼く?」

「今はお答えしかねます。かわりにこれだけは言っておきましょう。貴方が安定した生活を過ごせるようになるまで、私は貴方とともにいます。貴方が私を信用しなかったとしても、自分の行動は変えません」

「わかった、理由は聞かない。けどこれは教えろ。オレを助けて、見返りはあるのか?」

「罪滅ぼし……一種の自己満足です。私の道楽だと考えてもらってかまいません」

「罪、ねえ」

 習一は意味深な台詞を放置し、部屋主に従って脱衣場に足を踏み入れる。そこは洗面台があり、その隣りのくぼんだ壁に埋まるようにして洗濯機が設置してあった。シドはプラスチック製の洗濯かごを指して「ここに脱いだ服を入れてください」と言い、居間へもどった。習一は制服のポケットの中身を出す。手近な棚に私物を置いて服を脱ぎ、かごに放って浴室へ入った。シャワーから出る水がお湯になるのを待ちつつ、一室の状態を確認する。男性の一人部屋ともなると掃除が行き届かないだろうと覚悟していたが、予想外に綺麗だ。鏡に水垢はついていない。水場によくある赤カビもない。目地につきものな黒い汚れも見当たらない。風呂屋やホテルと同等に清潔な風呂場だと習一は感じた。

(オレが来ると思って、掃除したのか?」

 一般的に教員は休暇が少ないと聞く。一人暮らしの教師が日常的に家事をぬかりなくこなす様子は想像しにくい。浮浪少年を保護する目的で、労を割いたのだろうか。

(クソ真面目そうだからな。普段からこうなんだろ、きっと)

 習一はそう思いこんだ。ひとえに、他人が自分に尽くしている、という発想から逃れるためだ。お湯を体にかけ、シャンプー類を使って汚れを落とした。

 浴室を出てすぐの棚に、先ほどはなかった衣類があった。衣類の上にあるタオルで水気をふき取り、畳まれていた服を着る。リビングに出ると涼しい空気がたちこめていた。居住者の姿はない。上のほうから物音がして、習一は天井をあおいだ。

(二階がある……?)

 部屋の上部には間口の広い押入れのような場所がある。そこからシドの顔が現れた。

「今晩はこちらに寝てもらいます。布団を敷いたので眠る準備ができたら上がってください」

 シドは前屈みになって立ち、壁に設置したスロープに手をかけながら階段を降りる。その階段は収納棚だ。大小様々な四角の空洞があり、その中に本やテレビが置いてある。ロフトベッドといい、とにかく空間を最大限に活用しようという造りの部屋だ。賃貸の部屋で、個人がこれほど無駄のない内装に設計できるだろうか。

「このアパートはぜんぶ、こういう部屋なのか?」

「ええ、家具家電とロフトつきです」

「へえ、その階段にできる棚は経営者のセンスか」

「そうです。体重が重いと上り下りの最中に壊れないか心配になりますけどね」

「あんたが乗っててなんともないんなら、安心だ」

 習一はロフト部屋に上がろうとした。しかし習一の濡れた髪と歯みがきの未完了をシドが指摘し、洗面所へ習一を連行する。用意してあった新品の歯ブラシと歯磨き粉を使い、習一がしぶしぶ歯磨きをはじめた。その間、シドが湿った頭髪にドライヤーの風を当てる。

(こいつ、子どもを育てたことあんのか?)

 この甲斐甲斐しさはズブの素人にできない芸当だ。彼には年齢の離れた妹分がいるため、その面倒をみるうちにつちかった手際かもしれない。

(オレはぜんぜん、妹に手をかけなかったな)

 妹の身支度を整えたり子守りを頼まれたりした思い出はない。妹の身の回りの雑事は両親がすべてやった。特に父は妹を溺愛し、習一に妹を託す指示は出さなかった。子どもがやる世話はつたなくて目に余ったのかもしれないが、本当は信用ならなかったのだろう。

(他人に自分の子を預けるようなもんだ。それも憎んでた男の……)

 これ以上の思考は中止した。鏡に映る自分の顔が情けなくなったと感じたせいだ。世話人に気取られなかったと信じて、口腔内をすすいだ。



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