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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第六章 雲隠れ
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2

 習一は自宅の玄関を開ける前に後ろを見た。敷地内を守る塀と塀の間に設けた鉄格子の奥に、銀髪の男性が立つ。彼は習一が帰宅する現場を確認できるまで、ああして見守る気だ。まるで幼い子どもが寝付くまでかたわらにいる親のよう。その視線を断ち切るため、習一は玄関に入る。一目散に風呂場へ行って制服を脱ぎたいと思った。

「ずっと無視するつもりか?」

 恨みがましい声が習一の耳に絡みついた。習一は早歩きで居間の付近を離れようとする。

「暗くなるまで遊びほうけて、まだ懲りないか。そんなだから入院したんだろうが!」

 中年の怒声とフローリングを踏み鳴らす足音が接近する。乱暴な手が肩をつかんだ。

(殴る気か……今日は我慢してやる)

 この数日間を平穏に過ごした代償だ。習一は奥歯を噛みしめ、目を閉じた。しかし打撃は受けなかった。中年の戸惑う声が聞こえる。

「なんだ、お前は! 不法侵入だぞ!」

 習一がまぶたを開くと、銀色に光る頭髪が目についた。途端に体の硬直が解ける。教師が父の暴行を未然に防いだのだ。浅黒い手は中年が振り上げた右手首をかたく握る。中年は彼の束縛を逃れようとして右腕を動かすが、筋肉質な手腕は微動だにしない。

「どんな理由があるにせよ、親が子に暴力をふるって良しとするルールはありません。まずは言葉を交わしましょう」

 緊迫した状況にあっても教師は理性的だ。その態度が余計に中年を苛立たせた。

「若造が知ったふうな口をきくな! 父親に断りもなく、息子を連れまわしおって!」

「貴方の許可をとらなかった非礼は詫びます。ですがこの数日、彼が非行に走るような真似はいたしておりません。そこは誤解しないでいただきたい」

 中年は習一への関心が薄れ、若き教師をにらみつける。敵視する対象が変わったと知った教師は拘束を解いた。中年は自由になった腕を大仰に振り、身なりを整える。

「役所や警察の者じゃないくせに、なぜ息子にかまう?」

「お子さんが健やかに生活できるよう、とり計らっています」

「報酬なしでか? 信用ならんな」

「ツユキという警官が御夫人に事情を伝えたはずです。お聞きになっていませんか?」

「そんなこと、どう信じろというんだ! 他校の教師が見ず知らずの子どもを指導してなんの得がある。目的を言え!」

 習一は忌々しげに笑った。父は習一と同じ疑い方をしている。似なくていい部分を似てしまったのだ。鼻で笑う習一を中年がねめつける。

「お前もお前だ。こんな怪しい男と一緒にいて、また悪さをする気なんだろう。こんな髪を染めたチンピラまがいの──」

「その銀髪は地毛だ」

 訂正を受けた父は教師へ視線を移す。教師は眉を上げ、習一の弁護を意外そうに聞いた。父は非難のあてが外れた挽回に「髪はどうでもいい!」と叫び、握りこぶしをつくる。

「雒英の教師とは話がついている。息子の落第はもう免れたわけだな? きみの役目は終わった。早く帰るんだ! 二度とうちの敷居をまたぐな」

「いいえ、私の責務は残っています。貴方の暴力行為は見過ごせません。それこそ市役所か警察に相談して、貴方の指導監督なり息子さんの保護なりを依頼する必要があります」

「証拠もないのに役人が動くと思うのか。浅知恵だな」

「裁判所に勤める裁判官に家庭内暴力の疑いがある、と知れ渡ってもよろしいのですか」

 父は口をゆがめ、眉間にしわを寄せる。外聞を気にかける中年には耳に痛い指摘だ。しかし父は屈さない。

「司法に携わる者としがない高校教師、世間はどちらを信用すると思っている?」

「それはわかりません。ですが一つだけ、確証があります」

 父が「なんだ?」と吐き捨てる。侮蔑の情をぶつけられた教師は不敵な微笑を見せた。

「貴方も私も、間違いを犯さずに生きられる聖人ではないということです」

 笑みを嘲笑だと捉えた父はわなわなと震える。「出ていけ」とくぐもった声が命じた。

「聞こえなかったか。今すぐにこの家を出ていけ! 警察を呼ぶぞ!」

 罵声をあびた教師は逆上した中年ではなく、習一に目を合わせた。

「私はこれでお暇します。オダギリさんはどうしますか?」

 いつもの調子で習一に尋ねてくる。どこへ行く、なにをする、なにを食べる。それらの質問に習一が答えを出さない時、教師が代わりに決定した。それらは全て、習一には良い、または悪くないと考慮したすえに提示された選択だった。そう理解できたがゆえに習一は承諾した。

 だが今の問いは違う。習一の自己決断ができないなら、彼は父の命令に応じて一人で去るだろう。それが習一にとって最悪の行動だとわかっていても。

「……出ていくよ」

 ぽつんと習一は自分の意思を口にした。いずれそうしなければならないと考えていたことだ。ひとたび宣言してしまうと、ずいぶん体が軽くなった気がした。二度と足を付けないかもしれぬ廊下を踏みしめ、脇目もふらずに外を目指す。靴を履き直し、玄関の戸を開けて振り返った。父はあんぐりと口を開けている。

「これで邪魔者は消える。今晩はぞんぶんに祝杯をあげるこった」

 戸を強く押し、習一は玄関を出た。早歩きで光ある場所から離れる。いつもは時間経過で閉まる戸の音が鳴らなかった。教師の「失礼します」という律儀な挨拶が聞こえたので、彼が戸を静かに閉めたようだった。



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