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小山田家に到着したなり、成猫が玄関へ突進してきた。教師がすねで猫の行く手をさえぎり、ひるんだ隙にその首根っこを押さえる。脱走をはかった猫は尻が濡れていた。
廊下の奥からゴム手袋を両手にはめた小山田があらわれる。
「キジシロママったらお風呂を嫌がっちゃって。びっくりさせてごめん」
「私がやりましょう。オダギリさん、このケーキの箱を台所へ運んでおいてください」
習一は紙箱の底を両手で持った。教師が猫のうなじをつかみ上げ、濡れた尻をもう片方の手で支える。抱かれた猫は逃走の威勢がどこへ行ったのか、彼の胸にすっぽり収まった。
二人が猫の体を洗う間、習一は台所へ入る。そこにミスミがいた。彼女は野菜を細切れに刻む手を止め、習一に笑顔で出迎えた。習一はどきまぎしつつも箱を見せて「ケーキを買ってきた」と最低限の報告をする。
「まあ、ケーキ? いいわねえ、最近食べてなかったわ。それは今、おやつで食べる? それとも晩ごはんのデザート?」
「みんな忙しいから、あとがいいと思う」
「じゃあ冷蔵庫に入れておきましょうか」
ミスミは手をさっと蛇口の水で洗い、タオルで拭いたのちに冷蔵庫を開けた。中の整理をして広い空きスペースをつくり、ケーキの入った紙箱を収納する。戸を閉める際に茶のポットを取り、コップに注いで習一に渡した。
「お茶がいいのよね?」
昨日までの注文を覚えていることに習一は驚いた。同時に彼女の手際の良さに感心する。習一の母親は素早い行動が苦手である。おっとりした雰囲気のミスミも同類だろうと推し測っていたが、失礼な思いこみだと認識を改めた。習一はうなずいただけでコップをもらい、台所の隣室へ入る。台所と居間を隔てるダンボールの柵をまたいだ先に、動く毛玉があった。昨日保護された子猫だ。習一は幼い獣たちを踏まないようにして、空いた座布団に座る。固まってひしめく猫らを観察した。彼らも座布団を軸にして、その周りにいる。近くの座布団にはひざ掛け用の毛布がくちゃくちゃな状態で置いてあった。
(親猫が風呂に行ってるってことは……こいつらも体を洗ったのか?)
入浴を拒否する力のない子どもなら、動物に不慣れな者でもやり遂げられるだろう。習一は興味本位で一匹手にのせ、その体を嗅いでみる。微かに石けんの良い匂いがした。洗浄済みだとわかると子猫が群がる座布団の上に返却した。すると手放した猫は鳴きはじめる。つられて他二匹もわめき出した。合唱する毛玉は続々と習一の足をよじ登ってくる。あぐらをかいたくるぶしに乗り、ふくらはぎをつたって太ももに到達する。三匹は温もりを恋しがり、熱源のある物体に近寄ってきたらしい。空調は適温を保っていて肌寒くはないのだが。
「親がくるまで、だからな」
習一は猫の座布団になるのを了承した。まだら模様の猫に目を惹かれ、その毛色をためつすがめつする。よく見ると茶色の部分は縞模様。全身明るい茶色の兄弟猫に黒色を所々足したような柄だ。この二匹は色が違えど母から縞模様の毛皮を受け継いでいる。一方、全く似ていないのは黒猫だ。ヒゲも爪も黒い猫は習一のももの上で丸くなった。
(白猫同士から黒猫が生まれる、とか言ったか)
昨日の小山田が述べた雑学を思い出し、これらの子猫たちは共通した父親を持つ可能性がありそうだと思えてきた。黒猫の行方不明になった目を探していると、ごお、という風の音が聞こえた。外で突風が吹いたにしては音量が一定している。人工的に発生する音だ。台所の換気扇が回ったのか、と思ったが音が不鮮明。発生元は戸を開けっ放しにした隣室ではない。他に風が起きることといえば。現在の状況に関連した風についてひらめき、習一自身が体験した風呂屋の出来事も連動して思い出した。
風が鳴り止み、廊下からトタトタと軽い足音が響く。続いて人間の足音も発生し、ふすまが開いた。尻尾が乾ききらない母猫がまっしぐらに子猫に駆け寄る。母猫は習一のひざに前足をつき、子どもらの体をなめる。母猫の胸元にあった汚れはきれいに落ちて、ふさふさとした純白の被毛になった。猫の美しい毛並みを復活させた人々が座布団に座る。
「匂いが変わっても自分の子だってわかってるね、よかった」
子猫二匹はおぼつかない足取りで人体から離れ、母猫の腹に顔をあてる。母猫は四角い座卓の下で授乳を始めた。すぴすぴ眠る黒猫は依然として習一の太ももを下敷きにする。
「こいつ、起こしたほうがいいか?」
習一は食事にありつけない子猫を案じた。小山田は「今日はずっとママと一緒だから平気」と言って睡眠を優先させた。彼女は座卓の下をのぞき、親子の様子を見る。
「ママに赤毛の部分……ある? この微妙に赤っぽいところが、そうなのかな」
母猫の毛皮に着目している。小山田は急にママの語頭に「キジシロ」を付けなくなった。
「キジシロっていう種類じゃなかったのか?」
習一の問いに教師が「その可能性があります」と答える。
「キジシロとはキジ猫、またの名をキジトラ猫に白い体毛が混ざった子の総称です。キジ猫というのは、毛を黒くする遺伝子と縞模様をつくる遺伝子が優性に出た猫のことです。その体毛がメスの雉と似ているのでこの呼び名が定着したと言われています」
「それがどうしたんだ?」
「この母体から茶トラの子猫……オレンジ色の毛の子は、基本的に生まれないのです」
「こいつら、よその猫の子だって言うのか? でも母猫が乳あげてるぞ」
「この猫たちに血のつながりはあると思います。理論上、母猫が茶色の遺伝子Oを持っていると茶トラが生まれます。ところで、男女にXとYの染色体があるのはご存知ですね?」
またしても生物の授業が開講する。知識のある習一は「知ってる」と臆面なく答えた。
「そのXに茶色遺伝子が付属します。伴性遺伝というやつですね。オスはO一つで茶トラになりますが、メスはOが二つあって初めて茶トラになります。メスの場合、片方がOだと茶色に黒色が混じったり、白色を加えた三毛になったりするそうです」
「オスはかならず父親のYを貰うから、父側の茶色遺伝子は関係ねえわけだ」
「はい、そうです。ただし、猫は細胞分裂の過程で遺伝子の不活性が起きるそうで、理論通りにいかない時もあるらしいです」
「へー、じゃあこの真っ黒はどうなんだ?」
「黒猫は縞模様をつくるA遺伝子と部分的に毛を白くするS遺伝子が共に劣性、かつ黒色を発現するB遺伝子が優性だった時に生まれると言います。母猫は黒色遺伝子を持っているようですから、あとは父猫が劣性の遺伝子を持つ個体であればよいと」
「親父が黒猫じゃなくてもいいんだな」
「そういうことです。ちなみに全身を白色の体毛にするW遺伝子が最も優位です。遺伝子型によっては白いメス猫がいろんな体毛の子を産むそうですよ」
「だから白猫の両親から黒猫が生まれることがある、と」
「そうです。ですから……親に似ない子は存在するんです」
教師の結論部分が習一にはひどく優しい声色に聞こえた。それは動物好きな者が猫への愛情をこめた台詞だ。習一は妙な気分を払拭する目的で、あらたな疑問をとりあげる。
「そういや、いつそんな専門的なことを知ったんだ? 猫が食えるもんを調べた時か」
「ええ、まあ、そうです。猫の遺伝研究が載った本を見たのはエリーですけどね。私が行った最寄りの図書館には置いてありませんでした」
「あいつが調べて、あんたに教えた?」
「あの子は読解力が足りていません。それらしいページを……私に見せてくれました」
「本を借りたかコピーしたのか。子猫の親がどんなのでもいいだろうに御苦労なこった」
教師はさびしげな目を小山田に向けた。小山田は一瞬困ったような顔をしたが、ぱっと表情を明るくする。
「ママ用のおやつを買ってきたよ。シュウちゃん、あげてみない?」
小山田は収納棚から縦長の袋を出した。ジャーキーを一本、習一に持たせる。習一は不自然な話題変えだと思ったが、ひとまずおやつを母猫へ近づけた。本当は三毛だった猫が棒状のエサにおののいて顔を引き、鼻をぴくつかせる。匂いでそれが食料だとわかると先端を噛んだ。かじかじ噛んで味わったあと、両前足でジャーキーを奪い、大事そうに抱えて食べる。そのかぶり付き具合はおやつを気に入った証拠だろう。三者の顔がゆるんだ。
「なんだ、かわいいとこあるじゃねえか」
人間に媚びを売らず、他者の善意を拒みがちだった猫が手渡しのエサに食い付いた。少しずつ打ち解けている実感が湧いて、習一は久しぶりに嫌味のない笑みがもれた。




