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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第一章 初顔の訪問客
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 習一は病室へくる母や看護師に、自分が入院にいたる経緯をたずねた。成果はたった一つ、道端で気絶しているのを発見されたという情報のみ。なぜ倒れていたか、何者のせいで昏倒したのか誰も知らないのだ。判明したことは約一ヶ月の間、習一が眠り続けたことだけだった。

 習一は明くる日、警官が寄こす男の来訪を待った。待つ間は臥床を続ける。体を動かすには点滴が邪魔だ。病室から待合室の書棚まで本を取りにいく程度の運動が関の山だった。おまけに体力の衰えが著しいせいで思ったように動けない。覚醒したあとの生活スタイルは昏睡状態とあまり変わりばえしなかった。

 筋力と贅肉も見るからに落ちた。この一ヶ月、栄養の補給源は点滴のみだったという。医者は他の栄養補給手段として、咽喉から管を胃に通して食事を注ぐ医療措置を提案したそうだが母親は断った。理由は「見ていてつらくなるから」だそうだが、習一はそれが母の本心だとは考えなかった。

(そのまま消えてくれればいいと、思ったんだろ?)

 習一は一家の鼻つまみ者である。地域で一番の進学校に入学したものの、それからは早退遅刻不登校喧嘩など不良少年への道を落ちるように進んでいる。その行ないが元々習一に冷たくあたる父の不興を買い、その怒りが母へと向かうことがあった。習一は父が母に八つ当たりすることは気に食わないが、父が激昂する分にはいい気味だと思っている。

 両者の板挟みにあう母はたまったものではない。それゆえ習一は、家族が自身の死を望むのだと信じて疑わない。母が習一のそばについて着替えを用意したり、習一の暇つぶしに本を買い与えたりする姿を見ても、体面を重視して良い母親をふるまうのだと考えた。

(ずっと起きないでいられたら、オレも楽だったのに)

 いっそ襲撃者が生命を絶ってくれれば皆が幸福になった。母はまごうことなき悲劇の親を演じられ、豚児の死を起点に安穏とした日々を過ごせただろう。非行を死ぬまで続けるつもりの習一は、逃してしまった未来を夢想した。

 正午になり、習一は本日二度目のペースト状の粥をすすった。食べた感覚のしない食事は物足りないが、弱った体には適切だと看護師は説いた。いきなり固形物を胃に入れると体が拒否してしまうらしい。

 母はお膳を下げたあと、家のことをしなくてはいけないと告げて退室した。習一は一人きりが気楽だ。さっそく病院の待合室にあった文庫本を読んだ。母の選んだ本は袋に包まれたまま。母のセンスでは空虚な売れ筋のものを選ぶだろう、と最初から期待していない。

 読書の間も関心は未知なる来訪者にむかう。警官とは昨日会った。その翌日に彼の仲間が現れるとは限らないが、来るなら母親のいない時がよいと思った。警官の去り際の言葉によれば、母は教師の来訪者を知らされている。その教師次第では今後の動向に母が口をはさむ余地があり、それが習一にはわずらわしい。

 一時間ほど経つと眠気がせまり、習一はページの間に指をはさむ。目を閉じるとノックが鳴った。「失礼します」という低い男の声が聞こえる。病院の従業員か、警官の使いか。習一が体を起こすとすでに男は入室し、几帳面に戸を閉める最中だった。

 習一は注意深く入室者を観察した。男の背は一八〇センチを越えている。頭髪は光沢のある灰色の短髪。黒灰色の長袖のシャツを腕まくりし、ひじから下の素肌をさらす。その腕は日焼けしていて、スポーツ選手のように筋肉が盛り上がる。

(この男が警官の言ってた教師か)

 男の目もとは黄色のレンズの眼鏡で覆われている。年頃は三十歳前後。青年と呼ぶにはどうも落ちつきすぎている雰囲気があった。

「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」

 低いが明瞭な声だ。この男も警官同様、顔つきは穏やかである。だが習一は警戒体勢をとった。こいつとやり合えば負ける。戦う前から敗北感を味わうほどによく鍛えた体躯だ。

「ツユキさんから貴方に会って話をするよう言いつけられました。私は才穎高校の教師です。シドと呼んでください。……こちらの椅子、お借りします」

 教師はベッド付近の椅子に座る。サングラスに点滴を映して「今も体調が優れないのですか?」と聞いてきた。習一もちらっと液体の入った容器を見る。

「この点滴のことか? 病気を治す薬じゃねえ、ただの栄養剤だ」

「食事では十分な栄養が摂れませんか」

「空っぽだった胃にいきなり食べ物を入れると体に良くないんだとよ。粥を食べてなんともなかったら、外される」

「なるほど、段取りがあるのですね」

 教師は素直に感心した。存外悠長な男である。このやり取りによって、習一が第一印象で得た威圧感は失せていた。緊張をほぐした習一は自分から話を切りだす。

「あの警官はなにを話せと言ってきた?」

「ツユキさんが貴方に伝えた通り、私とともに行動してもらう件です」

「具体的にやることだな?」

「そうです。私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりですので、その補填となる追試か補習を受けてもらおうと思っています」

 習一は困惑した。この男は習一の通う高校とは異なる学校の教師。他校の教師が他校の生徒の成績に口出しすることはありえない。それがどう記憶を取りもどすことに関係があるのかも謎だ。

「待ってくれ、あんたはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」

「貴方が復帰を遂げるまで付き添います。その間に望んだ結果が訪れるかもしれません」

「よその教師がうちの学校にずかずか入りこむ気か?」

「はい。雒英らくえい高校の先生方に交渉します」

 教師は迷いなく答えた。その提案内容は本来、習一の担任が促すべきことだ。他校の教師が買ってでる道理はない。

「あの学校の教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校の教師、まともに相手にするかよ」

「ではこうしましょう。雒英高校の方々が私の申し出を拒めば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。了承されたら、貴方は私の指示に従って復学の準備をする。いかがです?」

 習一は度重なる不品行により、学校の教師から見放された問題児だ。そんな生徒のために学校側が前例のない働きかけに応えるだろうか。少なからず心ある教師は在席するので、運よくその教師が対応すれば受理されるだろう。だが、成功したとしても他の教師陣に白い目で見られるのは明白だ。習一は鼻で笑った。

「賭ける気か。いいぜ、やってみればいい。どの道、あんたは恥をかくぞ」

「わかりました。これから掛けあってみます」

 教師は習一の警告を日常会話のように流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。この銀髪の男は内面すらも習一の常識から外れる。

「私から伝えることは以上です。他に聞きたいことはあるでしょうか」

 習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。

「ないようでしたらこれで退室します」

 昨日の警官といい妙にせっかちな男たちだ。習一はとっさに思いついた質問をする。

「あんたはオレのことを知ってるのか? オレは全然覚えちゃいねえが」

「私は何度か貴方と会っています。ですがきちんとお会いしたのは今日を含めて二回です」

「それはいつだ?」

「詳細は後日、貴方の記憶が復活した時に話しましょう」

「つまり、言いたくねえんだな」

「察しがよくて結構。当面は知らなくてよいことです。貴方は快適に生活できる環境づくりに努めてください。話はそれからでも遅くありません」

 この教師は習一を取り巻く状況を理解していない。そう感じた習一はそっぽを向いて「とっとと帰れ」と突きはなす。銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一は臥床し、掛け布団を頭から足先まですっぽり被った。



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