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二日めの補習は初っ端に教師が「急用が入りました」と途中退室する。だが三十分足らずでもどってきた。昼休憩には白壁が同席し、銀髪の教師と雑談を行なう。白壁は他校の教師に憧憬を抱くようで「おれも才穎高校に行けばよかったな」とこぼした。
補習が終わると二人はすぐに小山田家へ向かった。玄関先の花はお辞儀をするように茎が曲がり、数枚の花弁が辺りに落ちている。散る寸前の容態だ。
「オダギリさんと再会するまで、持ちこたえてくれたのですね」
「こんなに丁寧に扱わなくてよかったんだ。ヤクザもどきがくれた花なんだから」
「誰が持っていた物であっても、美しい花には変わりないでしょう?」
「しおれた花が『美しい』のかよ」
「美しさを知るために必要な姿です。『散るゆえによりて咲くころあれば珍しきなり』」
突然放たれる古典めいた文言に、習一は眉をひそめた。
「室町の能役者、世阿弥の言葉です。『風姿花伝』をご存知ありませんか?」
「名前ぐらいは知ってる。内容は知らねえ」
「この言葉は、花が散るからこそ咲く花の美しさを感じられる、といった意味です。花の命は短いので咲く間は人々がもてはやします。花見がそうですね、期間限定のイベントに人がこぞって集まります。これが一年中咲く植物でしたら、いつでも見れると思って珍重しなくなるでしょう。花が咲くことと散ることは一セットで、美しいのだと思います」
習一は説明を理解できたが、やはり素直な感心は示せずにひねくれた言葉が出る。
「服のセンスがわからないと言ってるやつが、美しいのどうのがわかるのか?」
「美醜の観念は私になくとも、生命の息吹や尊さを感じる感性はあります。いいものをお見せしましょう」
教師は小山田家の断りなく居間のふすまを開ける。和室のすみに昨日はなかったダンボールの箱があった。その箱は小刻みに動く。「なんだ、あれ」と習一はずかずか歩み寄り、箱を見下ろす。敷き詰めたタオルの上に獣が複数いた。体の大きな猫が一匹、手のひらサイズの猫が三匹。全員がそれぞれ違う模様の毛皮だ。大人の猫は頭から尻尾までの上半分が焦げ茶色の縞模様で、口元から足先までの下半分が白い。習一は大きい猫を指さす。
「……この家の猫か?」
「いいえ、野良猫です。鳴き声がしたので縁側の下を見ると、この親子がいたそうです。母親は胸に傷を負い、弱っていたので保護しました。キュートな猫たちですが、今日は可愛がらないでおきましょう。彼女らの負担になりますから」
母猫の白い胸元は黒ずみ、毛が固まっている。包帯や絆創膏などの治療の痕跡はない。
「傷口はもうふさがってたのか?」
「ええ、まあ……オヤマダさんたちが病院に診せに行ったはずですし、手当てが必要なかったのでしょう。ただ、体力の消耗が激しいようで動きまわれないそうです」
ダンボールが独りでに動く原因は子どもの猫にあった。子らは寝そべる母の周りでせわしなく動いている。三匹とも毛皮の種類は違うのに目の色は同じ青。灰色がかったような、あるいは紫色が少し混じったような不思議な青色だ。
「子猫の目、みんな青色なんだな」
「キトンブルーと言います。生後間もない子猫はみな、青い目なのだそうです」
宝石にありそうな深みのある青色だ。これが教師の言う美しさだろうか。
「……で、いいものってのは猫のことか?」
「はい」
「花の美しい云々の話と関係あるか?」
「ありますよ。この子猫たちが母猫を助けたのですから」
なんのことだ、と習一が不審がった時に小山田が入室する。彼女はクッキーを山盛りにした皿と冷茶の入ったコップをちゃぶ台に置いた。同時におしぼりを二つ並べる。
「おまたせー。食べる前に手を拭いてね」
習一は菓子よりも猫に興味があったため食卓にもどらなかった。小山田がにんまり笑う。
「シュウちゃんも動物好きなの?」
「なんだ、シュウちゃんって。お前は昨日、オレを『オダさん』と言ってなかったか」
「ばーちゃんが『シュウくん』と呼んだから、それにならってる。周りが名前を呼んでないと、ばーちゃんは覚えられないの」
習一がカエデという老婆に「マサさん」と呼ばれないようにする彼女なりの配慮らしい。習一は犬猫の愛称のような彼女の呼び方に引っ掛かりを感じつつ、抗議はやめた。
教師も焼き菓子は放置して猫たちを眺める。視線を感じた母猫は目を開けた。しかしすぐにまぶたを閉じ、浅眠の姿勢にもどる。小山田は「性格変わったのかな」と一人ごちた。
「たまーに外で見かけたときは警戒心が強かったんだけど、いまはのんびり屋だね」
猫らは外敵が不在かつ空調の効いた屋内に居を得ている。この家の者たちが敵でないとわかったなら、母猫の態度はいたく合理的だ。子猫が独り立ちできる月齢になるまではその愛嬌を武器にして、人間に養ってもらうのが賢いやり方だろう。
習一は母猫にいらぬ心労を与えないように、長方形の座卓の周りに座った。教師たちも同様に囲む。小山田が猫を主題にして話しはじめた。
「縁側の下に籠城するキジシロママ、わたしらには威嚇するのに先生には全然しなかったよね。なにが違うんだろ?」
「ん? この教師が猫どもを捕まえたのか?」
「そう。エリーから連絡してもらってシド先生を呼んだんだよ。補習中なのにごめんね」
「もともと、こいつは補習に出なくていいんだ。好きなだけ呼び出せ」
習一は補習授業中のことを思い返した。教師に連絡を受け取る素振りがあっただろうか。電話での会話はしておらず、連絡を通知する電子機器を操作した様子もなかったような気がした。なにより「急用ができた」と離席した教師は二十分から三十分の間で帰還した。雒英高校から小山田家までの往復だけで、それぐらいの時間は潰れるのではないか。人間を警戒する猫の捕獲時間はない。猫が威嚇する相手を選ぶこと以上に、教師には不可解な点が多い。習一はそれらの謎を解消したかったが、また返答を先延ばしにされそうだったのでやめた。
「そういや、子猫が母猫を救ったってのはどういう意味だ?」
クッキーが運ばれたことで中断した会話を習一は再開させた。これには小山田が答える。
「猫たちが家の下にいるってこと、教えてくれたのは子猫の鳴き声だった。母猫は鳴く元気がなかったみたい。威嚇も牙を見せるだけでね」
子猫が居所を知らせていなかったら、母猫は衰弱死していた可能性があった。教師はほほえんで猫のいるダンボールを見つめる。
「母猫は、命が尽きかけていたようです。それでも生きたいと願う一心で回復しました。幼い子を守りたかったのでしょうね」
教師の主張は、母猫が子のために気力をふり絞って生き永らえたことを意味するようだ。習一はいい話に流れを持っていく雰囲気に水を差した。
「本当にこの母猫の子なのか? 一匹は父方の遺伝だろうが、残り二匹は全然違うぞ」
子猫の柄は全身が薄いオレンジ色の縞模様と、黒色と茶色が混じるまだらと、全身が真っ黒の三匹。いずれも母猫の毛皮とは異なる。教師は「たしかに奇妙ですね」と同調する。
「猫の遺伝形態はよく知りませんが……ヘテロ同士の交配により、両親には発現しなかった遺伝が現れる劣性ホモが複数いるのでしょうか」
「先生が言ってることは、たとえば親が白猫同士なのに黒猫が生まれるって話?」
小山田は急な生物学講座をむりなく受け入れている。彼女も劣等生ではないようだ。
「人間だとA型とB型の親からO型の子が生まれるのも同じ理屈なんでしょう」
「そうです。ただし、生物の基礎知識では劣性ホモの発現の在り方は一種類しか学びません。これだけでは理解が追いつきませんね」
「あんまり難しく考えなくていいんだよ。メス猫は複数のオス猫の子を宿せるんだもの」
習一は胸をえぐられる。親に似ない者は外部の種によって生まれた者。全くその通りだ。
「キジシロママは美人だね。きっといっぱい男が言い寄ってきたんだよ」
のほほんと言い放つ仮説が習一に影を落とした。小山田は習一の顔をのぞきこみ、「クッキーが冷める前に食べよう」と勧める。三人はやっとおやつに手を付け始めた。




