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夕飯後は小山田手製のクッキーを食べ、習一は満腹になった。この菓子は教師も「おいしいです」と言ってよく手をつけた。彼の夕飯の握り飯と糠漬けは二つとも小山田の手作りであり、そのことを習一が指摘すると小山田が笑う。
「先生はね、わたしの手で作ったものがおいしいんだって。味付けが失敗してても『おいしい』って言うんだから、味オンチなのかな」
聞きようによるとのろけ話だ。習一は教師に疑いの眼差しをそそぐ。教師は苦笑いした。
「オヤマダさんの手料理は私の舌に合っています。他意はありませんよ」
「べっつに、教師と教え子が好き合ったってオレはなんとも思わねえよ」
「そうでは、ありません」
教師は否定する。それきり二人の関係への言及はなくなった。
夜九時まで長居をし、習一と教師は小山田家を離れた。別れ際、小山田が余ったクッキーを小袋につめて手土産にした。明日は三時のおやつ用に焼いて用意しておく、と彼女は告げる。そのころは補習中だと教えると「焼き上げの時間を調整するよ」と了解した。
習一が帰路につく間も教師はついてくる。晩餐に加わった家庭について、当人を目前にしての質問がはばかられた疑問を習一はぶつけてみた。
「あそこの婆さん、あんたの名前を間違えてたな。なんで間違いを受け入れたんだ?」
「カエデさんは固有名詞が覚えづらいのだそうです。ですが、ちゃんと人の区別はついておいでです。私を『ノブさん』と呼ぶのは壮年以上の男性を指していました」
「オレのことを『マサ』と呼んだのは?」
「ハタチ前後の若い男性の呼び名、だと思います」
「めんどくさい呼び方だな……普通に『おっさん』や『兄ちゃん』じゃダメなのか」
「呼び名の元になる人物がいるのですよ」
「ノブってのは婆さんの息子なんだろう。マサは誰だ?」
「ノブさんが勤めるお店に、細身の男性店員がいたでしょう。あの方です」
習一の注文品を届けた店員だ。上背はあるが体格が良いとは言えない男だった。
「あのヒョロイ男か。そいつと小山田家はどういう関係なんだ?」
「ノブさんが店じまいをする時に……マサさんが残飯を探す現場を発見したそうです」
「へ? 残飯?」
習一が端的に想像したマサという男は元浮浪者だ。教師は説明を続ける。
「ノブさんはマサさんを保護しました。しばらくオヤマダさんの家に住み、お店で働いて、ある程度の貯金ができてからはアパート暮らしをしていると聞きました」
「その人、住む場所がなくて放浪してたのか?」
「はい、マサさんは帰る家がなかったそうです。原因は親との不仲です。子の意思を無視して自分勝手な人生設計を歩ませようとする父親に反抗し、勘当同然で家を離れたと」
習一は冷水を被ったかのように、はっとした。ひ弱そうな男性が果断な行動に出、自由を得た。その自由は周囲の助けによって得たものだ。一人ですべてやろうと考え、無理だと諦め続けた者とは違う。取るに足らなかった青年像が燦々たる輝きを持ち始めた。
「マサさんと今度、話してみますか?」
「藪から棒に、なにを言い出すんだ」
「興味をお持ちになったのでしょう。親の呪縛から逃れた人物の生き様を」
「アホ抜かせ。そんな行き当たりばったりな野郎の話が参考になるもんか。ノブと会わなかったらとっくに野垂れ死んでただろ」
習一は自分が思う率直な意見をぶつけた。この主張も本心の一つだ。
「オダギリさんの考えはもっともです。ですが貴方も、ノブさんと会っているのですよ」
つまり、ノブに助けを求めたなら習一も一人立ちができると暗示している。その言葉は習一に希望を掲げる反面、半身を失くすような虚無感も与えた。
「最初から赤の他人頼りで、うまくいくってのか? そんな甘い見通しで……」
この批判は自己の虚無を突くものではないと、習一は発したあとで自覚した。
「うまくいかないとも、今より良い未来を迎えるとも決まっていません。可能性は未知数です。オダギリさんが思い描く理想には、どういった行動を選ぶと近づくでしょうか?」
習一は答えない。答えの候補は自分の中にあるが、口に出そうとすると二の足を踏んだ。




