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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第一章 初顔の訪問客
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1

 わずかにオレンジ色の入った白い壁。それが天井だとわかるのに幾らか時間がかかった。無心になじみのない景色を眺めるうちに、男の声が聞こえた。

「目が覚めてくれたね。これで一安心できる」

 声には他者を気遣うやわらかさがあった。視界にない声の主をさがすと長い鉄の棒が見えた。天井に向かった先には透明なパックが吊るしてある。液体の入ったパックには管が通り、その管は自身の腕に繋がる。点滴だ。そう認識するとこの場は病院なのだと察した。

「習一くん、気分はどうかな?」

 耳触りのよい声はなおも語りかけてくる。点滴側に人の姿は見えず、反対方向へ顔をむきなおす。そこに二十代の男が椅子に座っていた。彼は半袖のワイシャツを着ている。さして特徴のある風貌ではないが、人当たりの良さそうな印象を受けた。

「調子の悪いところがあったら言ってくれ」

 習一は男の質問には答えず、上体を起こした。両腕にこめた力が異様に弱く、想像以上に体力を消耗する。大病をわずらったか事故に遭ったかして、体が弱ったのだろうか。

「あんた、誰だ?」

 習一がぶっきらぼうに尋ねた。男は膝にのせた鞄から手帳を出す。手帳の表紙をめくると、そこに男の顔写真と名前が載っていた。普通の免許証ではない。警察手帳だ。

「おれはこういう者だ。姓は露木、名は訳あってシズカというあだ名で呼ばれている」

「警察がオレになんの用だ?」

「きみはとある事件に巻きこまれた被害者だ。その事件の担当者がおれ。この病院へは……きみの見舞いに来たってところだ」

 露木の言い分はもっともらしい。だが習一はなにかの事件に遭遇した心当たりがない。警官を名乗る男を怪しまずにいられず、それが顔に出たのか露木は「無理もない」とつぶやく。

「きみが被害にあった時の記憶は消させてもらった。身に覚えのないことを言われて、釈然としないのはわかるよ」

「記憶を消す? そんなの、どうやるんだよ」

「それは企業秘密だ。教えてもいいんだけど、今のきみには信じられないだろうね」

 習一はむっとした。理解力に劣る凡愚と言われた気がしたせいだ。だが文脈からして頭の出来不出来は関係のない次元の話だと思えた。

「自分の消えた記憶、気になるかい?」

 露木は微笑を浮かべながら問う。習一は当然だとばかりにうなずく。どんな内容であれ、他人が強制的に記憶を消去したというのは気味が悪い。その行為が習一のためでなく、この警官や他の人間の利益目的であればなおさらだ。

「なあ、オレの記憶を消したってのが本当だとして、そうした理由はなんだ?」

「それが最良の手段だと思った」

「最良? なにが?」

「きみの他にも同じ、高校生の被害者がいたんだ。彼らが襲われた時の記憶を持ったまま目覚めると……可哀そうなほど脅えていたよ。今後の生活に支障が出るくらいにね。だから被害者全員の記憶を部分的に消したんだ。そういう芸当のできる友人がいるんでね」

 露木は親指を立てた握りこぶしを上げ、後方を指す。そこに白衣のようなコートを羽織る男が立っていた。男は身じろぎもせず彫像のごとくたたずむ。その男は片方の手が無いように見えた。

「そいつは……医者か?」

「どちらかと言うと本業は薬剤師かな。さらに正しく言うと魔法使いなんだけど」

「まほう、だと?」

 習一が怪訝な視線をつきつけると、露木は腕を下ろす。

「おれのお節介だったね。どうだろう、記憶を取りもどす気はあるかい?」

 露木は柔和な表情で奇抜な提案をする。習一が他の被害者と同じ目に遭ったのであれば、その記憶は恐怖体験に違いない。わざわざ恐ろしい記憶を復活させる利点がないように習一は思えた。しかし、この警官はそう考えていない。

 習一は他人の思い通りに動くことを良しとしない性分だ。失った記憶への興味と、他者の期待に外れることで得る自尊心のどちらを優先すべきか迷う。一度、可否の決定を保留しておくことにした。

「……どうやってもどすんだ?」

「ある人と一緒にいたらそのうち思い出すよ。これから夏休みだ。時間は取れるだろ?」

 習一の記憶では、現在の日時が夏休みのはじまる七月だという認識はない。違和感を抱いたものの、本題にずれる問いはひかえた。

「ある人って、オレの知ってるやつか?」

「きみは覚えていないと思う。なにせ、消えた記憶に深く関わる人だからね」

 言い換えると高校生が襲われる事件に関わった人間だ。それがこの警官の味方か、犯人か。習一は種類を二分した上で、そもそも事件は終結したのか気がかりになる。

「ところで、事件は解決してるのか?」

「ああ、バッチリと。おれの友達が頑張ってくれたおかげで、大事には至らなかった」

「『ともだち』? 警察仲間のことをそう呼ぶのか?」

「警官、とはちがうんだな。その話はヒマができたらしようか。とにかく、犯人は二度ときみを襲わないから安心してくれ」

 犯人は捕まったのだ。ならば自分に同行する者は彼の仲間か、と習一は言外の情報を推測した。露木がずいと身を乗り出す。

「それで、習一くんはどうしたい? 記憶をもどす方針でいいのかな」

「一緒にいるやつ次第だな。オレ、人の好き嫌いが激しいんだ」

「わかった。彼にきみの見舞いに来るよう頼んでおくよ。実際に会ったあとで決めたらいい」

 露木は席を立ち、無言を通す男に「帰ろうか」と声をかける。習一は警官の説明の足らなさに焦る。

「帰るまえに、そいつの名前とか格好を言ってくれねえか?」

「親子の会話がてら、お母さんから伝えてもらおうかと思ったんだが、まあいいや」

 露木はくるりと振りかえり、肩掛け鞄のベルトに頭を通した。

「……彼はシドと呼ばれている、才穎高校の教師だ。色黒で背が高い銀髪の男性で、あとは黒シャツと黄色いサングラスが目印になるかな」

 才穎高校は習一の所属する学校ではない。才穎は一応の進学校ではあるが、程度や格式の高くない高校だ。噂では入学試験において内面重視の建前のもと、変わり者ばかり集めるらしい。進学校の常軌を逸した学校の教師という者もまた、特徴を聞くかぎり普通の教師ではなさそうだ。任侠やならず者と言われたらしっくりくる風貌である。そんな男が教師を勤めているのも、変人の多い才穎高校ならではだろう。

 露木は習一の質問に答え、そそくさと退室する。仲間の男も連れにならった。その際、片方の袖がはためく。彼は本当に片腕がないのだと習一は確信した。

 奇妙な二人組がいなくなる。習一はベッドに倒れた。病院に来る前のことを思い出そうとするも、どれがいつの出来事だかはっきりしない。過去にひたるにつれ、みぞおちの奥に重石が積まれるように息苦しくなる。警官と話す間は忘れていた、自身の解決しようがない身のまわりの現実がある。その一端が病室へ入ってきた。

 入室者は中年の身綺麗な女だ。習一とよく似た顔をしている。それが習一の母親だった。

「よかった、起きたのね」

 表向きは良い母親らしくいたわるが、その目は息子に対する恐れがあった。



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