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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第三章 交流
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 習一は外気の熱にうだりながら、黒灰色のシャツを見失わないように歩いた。銀髪の教師は進行方向を見つつも習一を置き去りにしない歩調を保つ。朝、ともに歩いた時の速度を正確に覚えたのか。あるいは他人の気配の遠近を察せるのだろう。どちらも常人離れした技能ではあるが、過去に習一を武力で凌駕したという男にはできそうな気がした。

 教師はめぼしい飲食店の前を通り、和風な店へと近づく。その店の分類を習一は知らない。教師は引戸をがらがらと開けた。屋内の喧騒が解き放たれ、入店客への挨拶が威勢よく飛び交う。二人を出迎えた者はねずみ色の頭巾を被った中年だ。身長は教師とほぼ同じだが恰幅はいい。黒の前掛けの横幅が微妙に足りず、紺色の作務衣が少しはみ出ていた。

「いらっしゃい! 先生、今日は一人か?」

「いえ、連れが一人います」

 図体の大きい店員は上体を横へずらし、教師の後ろにいる習一を発見した。彼の目尻は吊り上がっている。射るような視線を習一は感じた。ただし敵意は含まれていない。

「ん? 見たことない子だな。才穎高校の子か?」

「いえ、別の学校の生徒です。しばらく勉強のお手伝いを──」

「あ~、そういや娘が言ってたな。先生が他校の男子の世話するからその子のメシをつくるって」

 昨日のサンドイッチはこの店員の娘の手によるもの。そうと知った習一はむずがゆい思いをした。なんとなく自身の母親に近い、年長の人物が作った食事だと想定していた。

(同い年くらいのやつが、か……)

 なんの見返りもない善意を振りまく同輩がいる。習一は空手部の同級生の名を髣髴し、次いでその曇りのない眼を思い出した。

 教師とは仲の良さそうな店員が席を案内する。そこは一面に鉄板を乗せた四人掛けのテーブルだった。油と小麦粉が焼ける匂いが充満する店はお好み焼屋であり、酒を片手に粉物をほおばる客もいた。店員は注文が決まったら呼んでほしいと言い、厨房へ去る。教師がテーブルのメニュー立てにある冊子を取り、習一に手渡した。

「食べられるだけ頼んでください。代金は私が支払います」

「あんたはまた食わないのか?」

「はい。腹は減っていません」

「朝のパンだけじゃ足りないだろ。オレの飯代を肩代わりするために無理してるのか?」

「金銭には困っていません。ただの体質です」

 メニューを見ようとしない習一に代わって、教師がもう一つのメニュー表を開く。

「具の好物が特にないようでしたら、ミックス玉がよさそうですね。いろんな具が少量ずつ入っているそうです。たくさんの味を楽しめますよ」

 習一がメニューを見るとミックス玉とは同種の中で最も価格が高く、量は二人前だ。

「これ、二人分だって書いてあるぞ」

「昼を食べていませんから大丈夫でしょう。それとも、お好み焼きは苦手ですか」

「べつに嫌いじゃないが……量による」

「残してもかまいません。私が処理します」

「わかった。じゃあそれ一つ、頼む」

 教師は店員が他客への品運びを終えて厨房へ行くところを声掛けする。立ち止まった者はひょろ長い背格好の青年だった。年齢は二十代。彼も灰色の手ぬぐいを頭に巻き、黒いエプロンを掛けている。前掛けの下は若者らしい私服だ。頭巾と前掛けがこの店の制服のようだ。若い店員に教師が注文をつけ、店員は伝票を復唱したのちに厨房へ帰る。入れ替わりで中年の店員が現れた。習一たちに氷水を提供する。

「そいじゃ、鉄板を熱くするんで触らないようにしてくれよ」

 店員は身を屈め、テーブル横のつまみをひねった。鉄板の加熱が始まる。店内の冷房を打ち消す熱気が徐々に生まれた。鉄板には幾重にもヘラが当たった薄い線が走る。年季の入った店なのだろう。習一は今までこの店を素通りするばかりで入店したことがなく、お好み焼き屋であることは知らずにいた。それは仲間内のグルメ評にはあがらなかったせいだ。うまいともまずいとも評価されない料理に多大な期待を寄せることはやめた。

 ふたたび細長い体型の店員が現れる。彼は黒塗りの丼のような器と、ヘラを置いた二枚の取り皿を盆に乗せて運ぶ。習一たちに料理のもとを提供すると、すぐに他の客のもとへ馳せ参じた。

 教師が調味料と一緒にならんでいた油を手にし、鉄板に垂らす。油をヘラで薄く一面に引いた。音と細かい気泡を立てて油が熱される。熱した油の上に丼に入った薄黄色の液状を敷いた。小麦粉を溶いた液体にはとうもろこしの粒や丸まった海老、白いイカなど色々な具材が混じっている。教師は丼に残った具をヘラで掻きだし、円形に広がった溶液に落とした。その手際を見るかぎり、料理下手には思えない。

「あんた、お好み焼きを作るのは得意なのか?」

「いえ、初めは何度も失敗しました。練習したおかげで人並みに焼けます」

「へー、それでお好み焼きを食ったことは?」

「……あまり、ありません」

「あんたは何なら食えるんだよ?」

「好き嫌いはありません。私の滋養になる食べ物の種類が極端に少ないのです」

「食べ物のアレルギーが多くて、食えるもんが少ないってことか?」

「アレルギー症状は出ません。本当に、栄養をとれる食べ物が限られるのです」

「? じゃあ胃が受け付けないのか?」

「どう言ってよいものやら……この説明も貴方の記憶がもどったあとにさせてください」

 教師は習一の疑問を解消させない返答をしたまま、お好み焼きの制作に集中した。彼は正直に答えているようだが、習一の常識に当てはめた解釈では真相にたどりつけない。特定の食べ物のみを胃が吸収するのでも、アレルギーがあって飲食に制限がかかるわけでもない。それ以外に好悪の情なく偏食に走る理由は、習一には思いつけなかった。

 教師は小麦粉が固まってきた円状の板を二つのヘラで持ち上げてひっくり返す。表に返った側には茶色の焦げ目が出来上がっている。

「今日はこの店を含めて三か所、訪れましたね。疲れましたか?」

「ああ……やっぱり暑い時に歩きまわると疲れる」

「わかりました。明日は一か所に留めましょう。喫茶店に長時間いてもかまいませんか」

「昨日、それをやった。なんとも思わねえよ」

「それは結構。明日は貴方が昨日過ごした喫茶店で課題をこなしましょうか」

「これだけ頑張ってやっても、オレ一人でちゃんとやるとは思えねえか」

「貴方を信じないのではありません。オダギリさんの身を案じているのです」

「オレのことが心配? なにを気にしてんだ」

「貴方の父親のことです」

 習一は胸を衝かれた。習一が最も苦悩する物事を教師は臆することなく提示する。習一は教師をにらんだ。黄色のサングラスの向こうにある目は一途に料理を見つめていた。



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