6
習一たちは大きな図書館へついた。開館時間にはまだ早く、閉館の立札が透明な自動扉の奥に置かれる。扉の付近には開錠を待つ人がいた。
群青の前掛けを着た司書が館内から登場し、ロックを解除すると扉が左右に開いた。司書が立札を引っ込めるのを待たずして利用客が入館する。教師もまた「それでは行きましょう」と習一に入館をすすめた。
二人は本棚と机が並ぶ広間へ入った。独特の匂いが満ちる。年数を経た書物が発する匂いだと習一は思った。教師が木製の長机に鞄を置いたので習一も反対側の席に陣取る。
「オレが解いた課題、あんたが答え合わせするんだって?」
私語を慎むべき図書館内にいるのを考慮して、習一は声を小さくした。
「自己採点するのでもかまいませんが、いかがします?」
「あんたにやってもらったらその分早く終わる」
「おっしゃる通りです。では私が正誤の確認をしましょう。終わったら解答とともに返します。間違った箇所は解答欄の付近に正しい答えを記入してください」
習一は教師にクリアファイルを渡した。彼の鞄から似たクリアファイルが出る。それが解答の一覧のようだ。習一も椅子に座ってプリントと教科書を机上に並べる。以後、両者は黙々と作業に没頭した。教師は赤ペンをキュッと鳴らして紙上に丸をつける。一枚めが終わると紙をめくり、またペンを鳴らす。その行為は一束十分前後で済んだ。丸点けの終わったプリントの上に解答の紙を乗せ、習一との間の机上に置く。その行為は三回行われた。習一が何時間もかけたものを教師は三十分程度で見納める。
「丸点けは終わりました。確認のタイミングは貴方に任せます」
習一は手を止めて顔を上げた。採点者の顔には黄色いレンズの眼鏡がかかったままだ。
「学校でもそのサングラスをかけたまんま、採点をやってんのか?」
「いえ、普段は外します。他の色ペンと混同するおそれがありますからね。今日は赤ペンのみ持ってきたので、間違えません」
「じゃあ学校ではサングラスをかけたり外したりすんのか」
「はい」
「めんどくさいことやってんな。んなモン、なくたっていいだろ」
「私はわずらわしいと思いません。ですが、貴方と同じようにサングラスを不要だと指摘した教え子はいます。それが普通の感覚なのでしょうね」
そう言って教師は静かに椅子を後ろに引き、立った。
「なにするんだ?」
「せっかく図書館に来たのですから本を読みます。オダギリさんもお好きなものを読んでいいですよ。切羽つまる状況ではありませんので、適度に息抜きしてください」
悠長な助言をした教師は書架の群れへ身を投じた。本が好きなやつなのか、と習一は喫茶店での彼と昨日の少女の様子をふりかえりながら思った。少女は習一がプリントに向かう時は本を読んでいたものの、習一が昼食を食べる時は周囲を眺めていた。彼女自身は待ち時間に率先して本を読みたい、と欲する読書家ではなさそうだ。おそらくは、習一の勉学を見守る間は本を読めと教師に言われ、素直に実行していたのだろう。
習一は己に課された問題を解く。教師は図書館の本を読んでもいいと言ったが、そんな余裕はない。鞄の重さを増やす教材は本日限りの運送にすべく、教科書を持ってきた教科のプリントを始末する。教科書を自室に置いてきたプリントは後日に回しても負担はない。そのような優先順位を設けて取り組んだ。
十五分ほどして習一の監督者がもどる。三冊の本を机に置き、うち一冊を開く。それらは心理学にまつわる内容の表題だった。大人が子どもの行動原理を知るための本、子の目線で親の実態を見つめる本。年代を問わず普遍的な人の心情を解き明したという題名の本。
(オレの目の前でオレ対策すんのか?)
三冊すべてが習一への対応手段を学ぶ選出のように思えた。しかし教師は子どもとその親に密に接する職務だ。習一を御するだけに万全を尽くすつもりはないだろう。その気があるなら習一と関わる日までに学習しただろうし、対象の目の前で大っぴらに学ばない。習一は自分が教師の立場に置かれた場合を考え、自身の初めの仮説を棄てた。
習一が問題数が少なめだった束を一つ仕上げ、美術の教科書を閉じる。芸術科目は音楽との二択で授業を選ぶ。音感のない習一は消去法で美術を選択していた。教師が丸点けを完了して置いた三束の横へ、束をひょいと運ぶ。教師が読書を中断して赤ペンを手にする。ペンが走る音を聞きつつ、習一は休む間なく体育の教科書を開いた。五教科以外の実技科目は総じて問題数が少なく、前日こなした課題未満の分量。正午を過ぎるころに解答は終了できた。教師が目を通した課題の束の横に家庭科のプリントを置き、教師は本を閉じた。
「もう昼食の時間ですね。腹の具合はどうです?」
「減ってない。あんたはどうなんだ? パンとコーヒーだけで足りるのか」
「私も空腹ではありません。貴方が食事をとりにいく間、私が荷物の番をしますが」
「いい。きっちり三食食わなくても平気だ。とっとと課題をやっつけてやる」
「わかりました。早めに切り上げて夕食をしっかり食べる心積もりでいましょう」
「夕飯も食いに行くのか?」
「はい。私は料理ができませんから」
教師の告白はつまり、前日のサンドイッチの制作者が彼ではないことを明かしている。では誰が作ったのか、という質問が習一の喉に出掛かり、飲みこんだ。現状関係のない雑談は避けるべきだと、この場の雰囲気と手持ちの課題の残量を考慮した。
二人は昼食をとらず、午前中と同じことを午後にも繰り返した。習一は残りの五教科の理科と社会科のうち、教科書を持参した政治経済に苦戦する。教科書にない作文の解答を要求する問いでつまづいたのだ。機械的に教科書の説明を抜き出したり入れ替えたりして解ける出題ではない。出題の該当範囲にあたる教科書部分を読み返し、きっとこういう事だろうと自分なりに解釈して文章を組み立てた。快調な出だしだった午前の課題とは反対に、鈍重な進捗に突きあたる。習一は嫌気がさして、関心を周囲へ移した。
館内には試験勉強に励む若者や、余生をもて余すかのような老人が新聞を読むほか、長机の端に親子連れがいた。父らしき男性と小学校低学年に見える男の子が向かい合って机に座り、各々が鉛筆を片手にして何ごとか言う。男の子は不平不満を募らせた表情で、薄い問題集を開いている。柔らかい顔つきの男性が喋り終えて、子は休んでいた手を動かす。もう飽きた、帰りたいなどの不服は言いくるめられたのだろう。父親のほうも分厚い本を開いてノートに書きつける作業を再開した。なぜか習一は頬の筋肉が刺激されるのを感じた。笑ったのだ。あの親子を見て。それに気づいた時、どうして笑ったのだか自分でよくわからないでいた。だが不思議と悪い気はしない。以前はそういった仲の良い親子風景を見せつけられれば、なぜ自分はああでないのだと無性にやりきれなくなっていた。今もそのわだかまりが全く生まれないわけではない。だが快の心持ちがより前面に感じられ、不快はその陰へと追いやられる。その心境の変化の要因は特定できない。あえて言うなれば、入院生活で習一が失った体力と闘争心と一緒に、負を感じとる感情も弱まった。悪い憑き物が落ちたように、習一の感受性を一般的なものへ寄りもどしたのかもしれない。
長考がすぎたのか、習一が我を取りもどした時に教師と目が合った。彼は習一の異変を感じたようだ。習一が気まずそうに眉をしかめると彼はなにも見なかった風体で読書をする。それからの習一は顔を上げず、視線は机上の移動に限定した。
太陽が赤みをうっすら帯びる時間帯になり、習一は朝のうちに腹に貯めた食料が完全に尽きるのを感じた。参考資料が手元にあるプリントはすべて解き終え、教師による確認も終わった。教師がペンを走らせた紙の束は積み重なったままだ。誤答の確認は自室でも簡単にできる、と踏んだ習一が放置していた。習一は教科書なしで解くプリントを前にして、ふと考える。補習の開始日は明々後日。明日と明後日は習一の予定がない。もし教師が一日および二日間とも習一の近辺にはべるのなら、間違いを訂正するだけのプリントをまた持ち運ぶ必要がある。であれば今のうちに片付けておけば効率が良い。自分が先に済ませる事柄を決定するため、習一は図書を読みふける教師に質問を投げる。
「あんたの見張り、明日も明後日もやる気か?」
「はい。明日も今日と同じように課題に励んでもらうつもりです。明後日は課題の進み具合によって予定を変えます」
「プリントは明日には全部終わるな。それなら間違いの確認をやっとくか……」
「確認が終わったら知らせてください」
教師は男女の思考の違いについての本に目を落とす。彼は一度めに取ってきた三冊を読み終え、返却して新たに図書を複数持ってきた。タイトルは違えど人間の心理にまつわる解説本ばかり読みあさっている。職業柄、念頭に入れるべき知識なのだろうが、そこまで念入りに知る必要がこの男にあるのだろうか。
習一は銀髪の教師とは二日程度しか顔を合わせていないとはいえ、その二日で固まった人物像は温厚篤実な紳士。彼が世間一般的な失言や失態を引き起こす様子は想像しにくい。むろん初対面では習一の癇に障るワードを出していたのだが、それは習一に必須な事柄だった。あれで習一が怒り狂ったなら、常識においてこちらの感性や理解に問題がありそうな気がした。
得てして、他者から見てすでに一人前の域に到達しても「まだ不足がある」と学びを深める者がいる一方、本当に知識を備えるべき者は「意味のないこと」と捨て置き、自己の瑕疵をさらに拡張させていくものなのかもしれない。習一が頭に浮かべる後者は紛れもなく父親だった。
習一は四色ボールペンの青色で正答を書き続け、教師が手を下したプリントすべてを見終わった。教師の顔を見ると彼は無言で立ち、本を携えて長机を離れる。習一はクリアファイルに紙の束を入れ、筆箱とともに鞄の中へ収めた。鞄にしまった教科書の背を触り、持参した冊数に差がないことを確かめる。私物がなくなった机を見つめ、教師の帰還を待った。ほどなくして一時的な保護者が姿を見せる。教師が黒鞄の持ち手を握った。
「外へ行きましょう」
二人は半日過ごした公共施設を発った。館外へ出た教師は足を止める。
「夕飯の希望はありますか?」
「ない。あんたの好きにしてくれ」
「わかりました。私のあとについて来てください」
習一は行き先を尋ねずに、髪を暗い朱に染める教師を追いかけた。教師は習一の家とは反対の方向へ向かう。その方角にはパン屋やラーメン屋など食べ物関係の店が居並ぶ。そのどれかが夕食になるのだと習一はあらかじめ想定した。




