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入店した直後、ちりんちりんと鈴の音が鳴った。習一が木製の戸を見ると、戸の上部に付いた戸当りの部分に鈴が複数垂れている。鈴を吊るす紐には装飾をなすリボンが結んであり、女性的な店構えだと感じた。入口付近には店内の壁と、格子状の高い木製の衝立が左右にそびえる。入店者はまっすぐにレジへと進む構造だ。レジにいる小柄な男性──に思えたが、それは少年のような風貌の女性だ。深緑色のエプロンを掛けた女性店員が笑顔で客を接待する。店員は現在の料金形態は前払いだと言い、その言葉通りに教師が支払いをする。店員が横を向いた先に彼女と同じエプロンを着用する長身の女性がいた。
「二名様、こちらの席へどうぞ~」
女性にしては低い声で給仕が言う。彼女の緑のエプロンの下には黒と白でデザインしたスカート丈の短いエプロンドレスを着ており、レジの店員とは雰囲気が著しく異なる。そもそもエプロンを二重にする意図がわからない。奇怪なファッションを堂々と客に見せる女性は場違いなほど妖艶な体つきでいる。エプロンを大きく前へ突き出す胸部とさらけ出た太ももが、喫茶店全体をいかがわしい店だと思わせた。
色気を強調する女性は教師を店内のテーブルへ案内した。どういうつもりでこの店を選んだのか、と習一は先導者の男の横顔をのぞく。彼は微妙にしかめ面をしている。教師も風俗嬢もどきの店員を不快に感じたようだ。
給仕に言われるまま、習一たちは壁側のテーブルを挟んで座った。給仕がテーブルに二人分のフォークと箸の入った細い籠を置き、座席の壁側にあるメニュースタンドへ手を伸ばす。ぶ厚い曲線を描く胸が卓上に浮いた。あまり凝視するのもなんだ、と習一は自身の視線を給仕の動く手に固定する。彼女はメニューを取り、机上に置く。
「お好きな飲み物を一つ選んでね。ワンドリンク制なの。この中の飲み物一つと、ソーセージとお惣菜パン二個をお一人に届けます。ほかはご自分で好きなだけとってね」
「ほか?」
「ええ、食パンやサラダが食べ放題よ。フリードリンクもあるの。お得でしょう?」
給仕は愛想のいい笑顔をして習一と教師に同意を求めた。教師は「そうですね」と気のない返事をする。給仕は無愛想な客にはめげず、ドリンクの注文を要求する。教師は無難にコーヒーを頼み、習一はフルーツソーダという変わった名称のジュースに決めた。オーダーをとった給仕はしゃなりしゃなりと歩き、カウンターの奥へと消えた。
習一が店内を見ればカウンター沿いに取り放題の食品が並んでいた。大量の食パンが入った籠や、野菜を千切りにしたサラダとそれにかけるドレッシング、炒り卵が入った器、ティーポッドなどを置いた机がある。習一はそれらの前を通ったのだが、給仕の異様さに全意識を注いだせいで気付かなかった。
「あちらにあるものは自分で取って飲み食いするようですね。行ってきてはどうです?」
「あんたはいいのか?」
「はい。これから運ばれてくるもの次第で考えます」
「量が多かったらやめとこう、てか。オレもそうするか。バカスカ食える調子じゃない」
「オダギリさんは健康面を考えて、サラダと卵を召しあがったらよいかと思いますが」
その意見は習一も同感だが、教師に言われるのは不思議な心地がした。
「親みてえなことを言うんだな」
「親? それは世間一般的な親のことですか。それともご自身の親のことでしょうか」
生真面目な顔をして教師が問う。習一は面食らった。深く考えずに発した言葉の真意を尋ねられるとは思ってもみなかったのだ。自分はどういう思考のもとにそう告げたのだろう。少なくとも習一の父親は除外できる。父のことを思うと芋づる式に昨晩の出来事が脳裏によみがえった。苦々しいものが口内にこみあげる。習一は噴き出る記憶をかき消すために席を立ち、荒々しく歩く。バイキング形式の食事を皿にかき集めた。山盛りになった皿の上に栄養によいというゴマを含んだドレッシングを野菜と卵の別なくかけ、席にもどった。その頃には艶めかしい給仕がトレイを運び、習一たちの飲食物をテーブルに並べていた。食事を配り終えた給仕は勤務中の定位置につかず、銀髪の教師に笑いかける。
「キリちゃんが言ってたとおりの男前ね。先生もモデルをやってみたらどう? 絶対、若いコからマダムまで気に入られるわよ」
「衆目にさらされる仕事は遠慮します。私はささやかに暮らしたいですから」
「まだ二十七なんでしょ? ご隠居みたいなこと言ってちゃもったいないわ。若いうちはいろんな可能性を試してみなくっちゃ」
「今のところ、教員生活に満足できています。ほかの職業を試す必要はありません」
「あら、でも一ヶ月ヒマなんでしょう。その間に挑戦してもいいんじゃないかしら」
「……御縁があれば、考えます」
「わたしから口利きしてもいいのよ」
教師は返答に困った。その反応を給仕は楽しげに見る。習一は卵入りサラダをもしゃもしゃ食いつつ両者のやり取りを見物した。給仕はモデル業をしているらしい。その職に見合う端正な顔と身体を有している。ただ一つの欠点は声。聞こえようによっては男性に思える低さだ。外見の美麗さのみを求められるモデル業にはピッタリの人材かもしれない。
カウンターに控える店員が給仕を呼んだ。呼び声に応じて給仕は立ち去る。モデルの誘いを断りきれずにいた教師は安堵し、湯気の立つコーヒーを口にふくんだ。習一も大きなグラスを手にする。習一が注文したサイダーは透明な炭酸飲料のはずだが、届いたものは濁っていた。フルーツ、という品名があったものの果物とわかる物体は見えず、グラスの中に赤や青の粒が浮かぶ。ストローを挿して飲んでみるとサイダーの味以外に、複数の果物の味と香りが広がった。果物を細かくしてサイダーで割った飲み物だ。習一は取ってきたサラダと交互に飲み食いして、腹は満ちないのに充足した気分になった。
教師は箸を握り、二本のソーセージと異なる惣菜パンが乗った皿をつつく。食べるのか、と習一は思ったが違った。彼は焼き目のついたソーセージを持ち上げ、片方の同じ食べ物を盛った皿へ移す。ソーセージの量が倍になった皿を習一の前へと出した。
「このくらいは食べられるでしょう。遠慮なくどうぞ」
「そんなデカい体をしてるくせに、食わねえのか?」
「はい。貴方には早く体力をもどしてほしいですから、私の分も食べてください」
教師は手持ちの本を読み始め、パンにも手をつけないでいる。彼自身はコーヒー一杯で朝食が済むようだ。常人以上に恵まれた体だというのに、その骨と筋肉は何からできたものかと習一は奇妙に感じた。そういえば彼の妹分も全く飲食行為を見せなかった。
「エリー……ってやつも全然飲まないし食わなかったな。二人とも、少食か?」
「はい、そうです。生活するのに不自由はしませんので安心してください」
教師は再び本に目を落とす。その状態で習一の食事が終わるのを待つつもりだ。習一は厚意を受け入れ、増えた焼きソーセージをかじった。焼いたことで香ばしさが増し、うまいと感じた。取り放題の食品とは段違いに旨みを感じる品だ。独り占めするのは少し気が引けて、自身の分け前を譲渡した相手の顔をちらっと見る。彼は習一の飲食に対して無関心だ。習一は彼が口に入れるはずだった朝食をとった。
習一が満腹になり、一服したところで教師とともに喫茶店を離れた。つまるところ店は普通の飲食店であり、給仕一人が異色な風貌と態度で勤務するだけだった。モデル云々というので彼女は有名人なのだろうが、習一は知らぬ人物だ。教師は給仕と共通の知人がいたようで、そのことを習一が尋ねると「教え子がこの店の手伝いをしています」と返答があった。会計をした店員かと聞くと違うと言われ、その他に教え子らしき若い店員は見なかった。非番の日だったか客に見えない裏方なのだと思い、習一は深追いしなかった。




