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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第二章 前支度
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4

 掛布団の上に寝た習一は薄く目を開けた。日はもう上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚の上の置き時計を見る。針は七時半を指す。次に窓の外を眺めた。青い空に浮かぶ白い雲同士が折り重なる。その下部に太い灰色の筋ができた。

(銀色……)

 灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させた。彼らは今日も習一の監視を続ける。本日は男の方が終日同伴するとも聞いた。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、まぶたを落とした。二度寝は数分を経たずして阻害される。例の銀髪の少女が窓を叩く。彼女の登頂ルートはもはや気にならなくなっていた。習一が窓を開けると少女は靴を履いたまま部屋へ入った。今日の彼女は荷物を担いでいない。

「シューイチ、おはよう。今日はシドがくるよ」

「それを伝えに、土足で他人の部屋に押し入るのか?」

「えーと、ほかに伝えたいことがあって。今日こなすプリント以外に、昨日といたプリントを持ってきてね。シドが採点するの。あと、プリントの解答は教科書を見てやっていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいと思うから、教科書ももっていこう」

「教科書も? かさばるな、そりゃ……」

「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」

「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」

「んじゃ、したくしてね。わすれものがないように気をつけて」

 習一は勉強机の本棚を眺める。ぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けして並ぶ。使用頻度の少ない芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してある。

(昔からのクセは抜けねえな……)

 悪辣な学生になりきれぬ証拠は一時放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日やると決めた科目と時間が余った時用の予備を鞄に詰め、必要になりそうな教科書も同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探り、着替える。部屋を出ると二階の階段側の壁にあった絵画は外れたままだと気付いた。階段にもなく、どこかへ運ばれたらしい。

(ま、どうでもいいか)

 昨晩習一につかみかかった男が現れないうちに玄関へ向かう。昨日脱いだ靴はきれいに揃えられていた。靴を履いて戸を開けると、鉄格子の奥に長身の男の後ろ姿が見えた。

(あいつは……)

 黒いシャツの袖を腕まくりした男だ。習一が初めて会った時と同じ姿でいる。習一が鉄格子に手をかけると、銀髪の男が習一に黄色のサングラスを向けた。

「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」

「あんたみたいな目立つ人間、忘れねえよ」

「そうですか。忘れていないと聞けて安心しました。では行きましょう」

「どこに行くんだ?」

「まずは朝食を食べに行きます。希望はありますか? なければ私が店を選びますが」

「あんたの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」

「よい返事です。さて、歩きますよ」

 銀髪の教師はビジネス鞄を手に提げて移動する。習一は自分を起こした少女が彼のそばにいないことを不審に思った。

「オレの部屋に来てた女の子はどこへ行ったんだ?」

「この町のどこかにいると思います。私が呼べば来てくれますよ。会いたいのですか?」

「いや、別に会いたくはないが……オレと話して、すぐにいなくなっちまったのか?」

「はい、この場に残る必要がなかったもので」

「良いように使いぱしりにしてるんだな。あんたとどういう関係だ?」

「血縁関係は不確かですが、表向きは妹ということにしています」

「あれだけ似てんのに血の繋がりがないかもだって? どういう家庭で育ったんだ」

「家庭と呼べるものは私たちにありません。あるのは主従関係。エリーは従者仲間です」

「エリー? それがあの子の名前か」

 昨日は半日近く一緒にいたというのに、彼女の名前を知らなかった。そのことに習一は今になって気付く。教師はふりむきざま、口元をやんわり横に引いた。

「不便な思いをさせたようですね。彼女は自己紹介することに慣れていません。あとで教えておきます。初対面の人には自分の名を伝えるように、と」

 習一が少女の名を知らないことで発生した不都合はない。彼女とは最低限の会話のみで過ごした。名を呼びあう場面はなかったのだ。

「あ、いや……どうせ名前を知ってても呼ぶかわかんねえし、なんともない。それよか、家庭がない従者ってなんだよ?」

「言葉通りです。物心がついた時から私たちはあるじに従い、主を親として慕いました。けれど、主は幼子をあやして育てるといった行為をしなかったと思います」

 教師の説明は習一の既存の知識では理解が及ばない。身寄りのない子どもを集めて育てる孤児院出身というバックボーンではなさそうだ。習一は首をかしげた。

「ご主人の命令に従って生きてるんだろ? 高校の教師をやってんのもその命令か」

「初めはそうでした。今は違います。主の命令に逸脱した日々を……これから送ろうとしています」

「オレの復帰の手伝いが命令違反なのか?」

「それもそうですが、貴方個人のために主に背こうとしたのではありません。なにがきっかけか、と聞きたいかもしれませんが、まだ答えられません」

「へいへい、お得意の『記憶がもどったら話す』か。だがな、オレが忘れちまったことを知り合い連中が教えてきたぞ。あんたの思い通りにならなくて残念だったな」

 習一は教師の意に反する出来事を意地悪に言った。教師は「それは結構なことです」と答え、進行方向へ向きなおる。

「私が説明を渋るのは貴方に納得してもらえないと考えたからです。親しい御仁の言葉なら、すんなりと胸に落ちるでしょう。貴方と親交のない私にはできないことです」

 教師のもったいぶりは、習一に知られてはまずいと考えての行動ではない。理解できる基盤のない者になにを言っても無駄だ、という観点で口を閉ざしている。他意はないのだろうが、自身を飲みこみの悪い魯鈍な者として扱うさまに習一は口をへの字にした。

「無理にわからせようとして、貴方を惑わせたくはありません。まず先に家庭と学習環境を整えて、しかるのちにきちんとお教えします。もちろん、記憶が復活すれば順序は入れ替わるでしょう。その予定でよろしいですか?」

 教師は合理的な判断のもと、習一に接している。無駄を嫌う習一には異議を突きつける箇所が思いあたらなかった。一学期の成績を決定づける期限は今月中。遅くとも来月の頭までだろう。それまでに及第にこぎつく努力を果たせなければ三度目の高校二年生を迎えてしまう。この状況下において、自分と教師との確執を知る私事は後回しでよい。

「わかった。とにかく今は学校のことを片付けておくんだろ」

「はい。それが先決です。そのために栄養を補給しておきましょう」

 二人は会話を一区切りつけた。習一が案内された場所は主要道路から少し外れた喫茶店だ。外装はどのチェーン店とも一致しない、個人経営の店らしい。一般的な店の始業時刻前だというのに、窓越しに見える店内にはテーブルでくつろぐ客が数人点在した。



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