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幻姿の庭  作者: 三利さねみ
第二章 前支度
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3

 習一は日没を過ぎても喫茶店に居座った。時間を経るごとに通路を行き交う人が替わる様子を尻目に、手持ちの課題をすべて解いた。この場でできる役目を果たすと、きゅるきゅる鳴る腹を鎮める目的で料理を頼んだ。同席者の銀髪の少女にもメニューを見せて夕飯をすすめたが、彼女は遠慮した。習一を出迎えたあとの少女は水すら口にしていない。

(飯を食えねえのか? 宗教でそんなのあったな……)

 どこぞの宗教では昼以降、食事を禁じることがあるという。そんな戒律を遵守する敬虔な宗教家でなかったとしても相手は女。減量目的で食事を控えることも予想して、習一は自分一人だけの夕食をとった。昨日今日と穀物類の食事が多かったので、栄養の均衡を考慮してメインの肉料理以外にサラダも食う。肉体が十全な状態にならないうちは別段好きでもない野菜を摂取するのが身の為だ、と自己判断した。

 同じ系列ならどの店も同じ味の料理をたいらげ、習一は氷が飲料に変じた水を飲んだ。クッションのきいた背もたれに寄りかかって天井を見た。喫茶店に長居し、腹がすけば料理を注文をする。そんな過ごし方は以前によくあった。それはこの地域一の難関校と呼び声高い、現在所属する高校への受験勉強に励んでいた時だ。

 当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめたが「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴された。習一には自習が自分にできる学力向上の手段だった。家の中では能天気な妹が騒がしく、彼女が寝入る夜以外は自室での勉強がはかどらない。喫茶店以外に近隣の図書館に行くこともあったが、食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になるのを嫌い、喫茶店に足しげく通った。優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。

「そろそろおうちにかえる?」

 習一は我に返った。その提案を受理するには気が重いのだが、そうするべきだとも理解できる。現在こなせる課題は無くなった。腹を満たした時点で喫茶店に留まる理由はない。

「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」

「ああ……お前は明日、来ないのか?」

「うん。でも、シドによばれたらくるよ」

 少女は本をリュックサックの中へしまった。習一も荷物を片付け、忘れ物がないことを机上とその下、ソファを一瞥して確かめる。少女が「ごはんのお金わたそうか」と言うので首を横に振った。

 会計を終えると少女は店内におらず、軒先で彼女を見つける。習一は正門での邂逅と同じく、少女に声をかけずに歩いた。アスファルトは日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出する。多少蒸し暑いが昼間とは段違いに涼しい。習一はゆるい歩調で家を目指した。

 家の居間には電灯が点いていた。家主はもう帰宅した頃か。妹は学習塾に行って不在だろう。そう考えながら鉄格子に触れた。

「そうそう、サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」

 習一は借り物があることを思い出し、鞄に手を入れた。畳んだの布と軽くなった水筒を少女に返す。水筒はちゃぽん、と茶が揺らぐ音を立てた。

 リュックサックのファスナーを閉めた少女は背に荷物を担ぎ、じっと習一を見た。

「なんだよ、早いとこお前も帰れ」

「おうちに入るところをみとどけて、って言われてる」

「蚊が飛びまわる時期に野宿なんかしねえよ」

 そう吐き捨てた習一は家の敷地内に入り、玄関へと足を踏みこむ。手に汗がにじむのがわかった。暑さの影響ではない。緊張しているのだ。靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っていた。

 脱衣場の戸に鍵を閉め、服を脱ぐ。汗を吸った制服のポケットを空にしたのちに室内の洗濯機へ放りこんだ。洗濯物は乾燥後、脱衣場の棚にしまわれる。体を洗ったら棚にある衣類を着て自室にもどる。それがいつものやり方だった。

 習一は簡単にシャワーを浴びる。液体石けんを泡立てて体を洗い、ふと風呂場の鏡に注目した。昨日や院内の浴場では意識する余裕がなかった映写だ。そこに映る顔はやつれていた。おもな原因は一ヶ月の絶食だろう。習一は貧相な顔だと思った。以前は獣じみた勢いがにじみ出ていたはずだが、すっかり毒気を抜かれたようだ。攻撃性を失った面構えの次に頭髪が目についた。髪の根元が黒く、それ以外は脱色した色でいるアンバランスさに苦笑する。いっそ田淵のように髪を刈って黒髪にするか、と思案した。

 伸びた髪を洗い、泡を流して風呂場を出る。タオルで全身をわしわしと拭いた。濡れたタオルを洗濯機に投げ入れ、新しい服に着替える。生乾きの髪をそのままにして鞄をつかみ、居間の横を素通りする。テレビの音は聞こえなかった。

「おい、待て」

 階段に足を着けた時に男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主に一応従う。

「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」

 怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだった。習一は首だけを動かして男を見る。居間の入り口に中年が立っていた。ネクタイは首に巻いていないが、まだスーツ姿でいる。

「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ。入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」

 習一は男の問いを無視した。とんとん、と上階へのぼると足音が二重になる。突然習一の片足は動かなくなった。男が足首をつかんでいる。

「いつまで醜態をさらし続ける気だ? 親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」

 男の憤怒が表出する。足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右に振ってみるが、男の手は離れない。

「なんとか言ったらどうなんだ、この──」

「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか?」

 男は目をかっと見開き、口ごもる。開口一番で聞けた言葉が図星を突いたらしい。

「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」

 男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。

「きっとあんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」

「親を馬鹿にする皮肉ばっかりこきやがって!」

 習一を捕縛する手が乱暴に動く。習一は階段のへりをつかむ。転倒を防げたが状況は悪い。平時なら体力面で勝る相手といえど今は病み上がり。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いことをどこかで耳にした。衝撃から身を守る肉が薄い者では殊更痛いだろう。どう打開すべきか──男の怒りを鎮める手段は思いつくものの、実行の意欲は微塵も湧かなかった。

 がたん、と重い物がぶつかる音がした。なぜか足の呪縛が解かれる。習一がふりむくと男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。その足元には油絵の絵画がある。それは習一の物心ついた時から階段の壁に飾られていた絵だ。丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、経年劣化で落下する代物ではない。地震が起きていないのに、と習一は不思議がる一方で好機だと思った。悶絶する男を放置して二階の自室へ入る。鍵をかけ、深い息を吐いた。

(運が、よかったな……)

 鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。



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