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「カステラだって! 一度食べてみたかったんだ」
「わ、美味しそうですね」
初めは些細なものだった。一服亭に戻る道中でイクスさんが何やら甘そうな匂いのするお菓子を一箱購入した、というだけのこと。
「ふわぁ……ラビットのハーブ焼き……すっごい脂がのってる」
「道中で食べたのよりも美味しそうですね」
「こっちはピタパ!? 凄いや、この魚って滅多にお目にかかれないんだよね!」
「……あの、イクスさん?」
雲行きが怪しくなってきた。これはもしかして非常によろしくない状況なのではと思って制止を試みるも、珍しい食材に目を惹かれっぱなしのイクスさんが止まる筈もなく、荷物はどんどん増えていく。
「おじさん、このふわふわしたのって何? へぇ、ワタガシって言うんだ……?」
「ちょっ」
「リンカ飴だ……おばさん、これちょうだい!」
とまぁ、容姿の美麗さの割に無邪気というか子供っぽいイクスさんに食べ物を押し付ける人たちが増えたり、気になったものを購入したりであっという間に私たちの両手は塞がってしまったのである。
それにしても、私一つも買うなんて言ってないのになんで持たされてるんだろう……?
荷物の重さと、この先私たちを待ち受けているであろう未来に何となくため息をつきたくなるも、既に一服亭の扉の前へとたどり着いてしまっていた。ため息は静かに飲み込んで、一足先に私が足を踏み入れる。
と同時に空気が重苦しいそれへと変貌を遂げた。……出迎えてくれたサイカさんが、私たちが抱えている大量の食べ物に気付いたからだろう。
「サイカさーん! お土産買ってきたよ!」
この街に住んでいる人にこの街で売られているものをお土産として渡すものは如何なものか、と口を挟もうとして――思わず閉口。
(カウンターの前に修羅がいる……)
丁度私の真後ろにいるイクスさんからは見えないだろうが、私からはしっかりと見える。風が吹いていないのに揺れる黒髪と、琥珀色をした瞳が静かに此方を見つめているのがそれはもう、しっかりと。悲しいまでにバッチリと見えたのである。
「ほう……?」
声音は至って平坦。いや、平坦だからこそ恐ろしいというもの。だって、明らかに目線はこちらを獲物として認識しているのだ。私ではなくイクスさんを見据えているというのがまだ救いである。
「そいつぁ良いことだねぇ。この街を気に入ってくれたんなら僥倖僥倖」
(僥倖って空気じゃないんですけど!?)
そう思いながら横に退いて、憐れな子羊……じゃないやイクスさんを中へと通す。荷物で視界が塞がっている彼女は軽快な足取りで入り口付近の階段を昇ると、カウンターにいる彩華さんの前に立ち――そうして、気付いた。
それを見て、私も入り口を塞ぐような位置へと移動する。これは致し方ない犠牲なのだ……先日私がマルガさんに胃を痛めたように、イクスさんだってちょっとは苦労すべきなのだ。いや、涙目のイクスさんが可愛いとかそんなことは思っていませんとも。
「あ、あの、えっと、私ね、用事を……そう、用事を思い出したからちょっと」
「戻らせはしませんよ」
ゆっくりと荷物を脇に置きながら彼女を見れば、生まれたての小鹿のように震えていた。
「そんな、フェン……! なんで!?」
「……」
彼女からすれば、前門の虎に後門の……何だろうね私は。とにかく前後を塞がれてしまった彼女は差し迫った危機を何とかしようと、一番の脅威である彩華さんへと目を向けた。
「そんだけ大量の食い物を買ったんだ、アタシの作るメシなんて食えやしないって意思表示なんだろう?」
「ち、違……ッ」
「……問答無用!」
その日、夕陽に染まったベルトゼの街の何処かから、とても恐ろしいものに遭遇したかのような悲鳴が聞こえたのだという。
……私は何も知らないですよ。いや、本当に。