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私たちが紹介された宿屋、一服亭。そこはギルドと図書館の間にあるらしいので、ギルドを出てそのまま向かうことにした。
「へぇ、ここが……」
ベルトゼの街には宿屋が多い。それこそ、中央通りに面している店の殆どが宿屋というくらいに。辺りを軽く見渡せば間違いなく五軒はあるだろう。石を投げれば宿屋に当たる、ふとそんな言葉が頭に浮かぶ。
本来の街なら道具屋、鍛冶屋等が軒を連ねるのではと思っていたのだが、街に隣接している丘を見に訪れる客が多いために自然と宿屋が多くなったのだという。
「なんていうか、見た目は質素ですね」
今回の目的地である一服亭はどうやらレンガ造りの建物のようだった。やや茶色がかった色合いで造られているからか落ち着いた印象を抱く。看板には煙管らしきものが描かれていた。
「ね。でも雰囲気あって私は好きかも。……あの変な棒が描かれてる看板のセンスはちょっとよくわからないけど」
「あはは……」
磨りガラスが嵌め込まれた木の扉を開ければ、リンと鈴が鳴る。客の来訪を知って玄関よりやや高いところにあるカウンター、その奥にある扉から宿屋の主人が顔を――。
「……スゥ」
出さない。宿屋内は静寂に包まれたままで、奥には人の気配すらない。が、誰もいないのかというとそういうわけでもないらしく。高さの関係で覗けないカウンター。そこには誰かが突っ伏して寝ているようだった。
「寝てるね」
数段の木の階段を登ってカウンターの前に立つと、先程よりも寝息がよく聞こえる。微かに動く艶やかな黒髪が少しだけ懐かしく思えて、一瞬起こそうかどうしようか悩んでしまった。
「すみませーん」
悩んだけれどこのカウンターの人を起こさないことには何も進まない。声をかけて起こそうとした瞬間、イクスさんが先んじて声をかけていた。
「んあ? あー、……お客さんか」
幸いにも声をかけただけで目覚めてくれたらしく、突っ伏したままの黒髪の人はくぐもった声で状況を把握してくれたらしい。ふぁ、と欠伸をして顔を上げたことでその人が女性であることを知る。
「……よく来たね、ここは一服亭。宿って言えるほどサービスは良くないかもしれないが、泊まるってんなら相応のもてなしはさせてもらうよ」
真冬の夜空のような黒色の髪、猫らしさを感じるアーモンド形の琥珀色の瞳。にやりと笑うのがよく似合う独特な雰囲気の持ち主。てっきり店番だと思っていたのだけれど、この人が主人のようだ。
「是非お願いしたいな。ね、フェン。いいでしょ?」
「ええ、勿論」
「了解。何日泊まるか知らないが、とりあえず金は先払いってのは覚えといてくれ……ああ、自己紹介が遅くなったね。アタシはサイカ、ただのしがない宿屋の主人さ」
ちなみに字はこう書くんだよ、と紙に書かれた文字は『彩華』。成る程、漢字か。アヤカとも読めるんですね、と呟くと同時に苦虫を噛み潰したような表情をしてみせた彩華さんがカウンターの内部にあるらしき棚から鍵を一つ取り出して。
こちらをジッと見つめながらその鍵を唐突に放り投げてきた。 下手したら顔面で受けていたかも、と思いながらも左手で危なげなく受け止めれば、彩華さんの笑みは深くなる。
イクスさんと相談して、とりあえず三日泊まることに。気に入らないなんてことはないと思うけれど、様子見ということで。
「毎度。……夕食は六時の鐘が鳴ってから、八時の鐘が鳴るまでだ。今日はアンタらしかいないから多少は融通効かせてやるけどね。ま、楽しみにしときなよ。それからベッドは部屋に二つある、水が飲みたきゃ店の裏手に地下水の汲めるポンプがあるから適当に飲むといい」
「ありがとね」
「ありがとうございます」
ヒラヒラと手を振るイクスさんに頷き、笑むのを止めて私の方へと向き直った彩華さん。表情はほんの少しだけ困っているように見えた、が。
「後、夜は変なやつらが多いから外出はしない方がいい。尤も、アンタならその程度は屁じゃないかもしれないけどねぇ」
そう言い残すなりカウンターの奥へと消えてしまったから、確認できる術はない。
「……ね、別に偏屈じゃないでしょ?」
「ええ……」
何故かイクスさんが自慢気だし、言い方からして顔馴染みみたいだけれど向こうは完全に初対面という顔をしていたように思う。
いや、単純にイクスさんは以前泊まったことがあって、けれども彩華さんは覚えてないだけなのかも。色々なお客さんがいるだろうし客商売とはいえそこまで覚えていられないだろう。
「荷物を取って戻ってきたら丁度夕飯時だろうし、その時にあの依頼について聞いてみようか」
そう言うイクスさんに首肯して、私たちは一服亭の扉を開ける。辺りはまだ夕日に染まっていないものの、夕方特有の気配がちらほらと見え始めていた。
『わ、ちょっ、待って! 駄目!』
簡単につまめるものを売っている屋台では、早くも仕込みを始めているし、噴水の近くでは子犬と少年がおいかけっこをしている。
いや、していた。追いかけられていた少年は子犬にのし掛かられてしまった。君の心境はよくわかる。私もよく『――』にやられたよ、頑張れ。
ズキッ。
「……これ、一時間後には凄い胃とお金に厳しい道になってそうだね」
軽食だけでなく、食べ歩きに向いている物や子供が好きそうな甘いお菓子の屋台まで仕込みを始めているのを見て、イクスさんは少し口元をひくつかせていた。
「でも、彩華さんが夕飯楽しみにしとけって言ってましたよ」
両手が塞がるくらい買っちゃいそうだな、イクスさんって案外食いしん坊だから。豚の丸焼きをペロッと平らげた時もあったくらいだし。
……そんなに買っていったら、彩華さん怒りそうだなぁ。
そんなことを考えながら、私たちは以前の宿へと向かうのだった。
6/12にサブタイトルの形式を変更いたしました。よろしくお願い致します。