madder red
倒れ込むヤナとニケの二人の前で、弓月は足の歩みを止めた。
「…………」
ニケはうっすらと目を開けた状態で、弓月に紅色の瞳を向けてきている。
こちらを射抜くような普段の三白眼とは違って、その目に力は籠もっていなかった。
指先が、微かに痙攣を起こしている。麻痺しているのだろうか。
そんなニケの体に重なるようにしてヤナが横たわっていた。彼女は完全に気を失ってしまっているのか、その表情は眠ったように静かだった。
「…………ッ」
ヤナの胸はほんの僅かに上下しており、彼女の小さく開いた口から息が出入りしているのが分かる。
二人とも、まだ死んではいないのだ。そのことに一先ず安堵するが、すぐに弓月は剣の柄を握り直した。
確かに二人はまだ生きているのかも知れない。だけど弱り切った怪我人にこんな仕打ちをしてしまっては、いずれ命が危うくなる。
自分がもっと早く駆けつけていれば、二人にこんな思いをさせずに済んだのだ。
弓月は顔を左に向け、書棚の側で血を流している男を見た。
そこにいるのは木倉平児だった。
俯せになったその胴体の下から、真っ赤な血の池の縁がじわじわと広がりつつあった。
斬られたのだろうか。
彼の元に向かおうと一歩踏み出しかけた弓月だが、レイナがゆらりと立ち上がったのに気付いて、足を止めた。
弓月がここに到着した時から、レイナはずっとそこにいた。
最初見たときは、どういうことだか、頭を押さえて蹲っていた。しかし弓月が歩き出すとすぐ、その足音に気付いてか体を起こしてこちらを見ていた。
そのレイナが、魂の抜けたような瞳を向けてゆっくりと近寄ってきたのだ。
────ヤナと、ニケと、木倉を手に掛けたレイナが……
弓月の奥歯が万力のように締め付けられる。
ギリリッ、と、彼女の歯軋りの音が店舗の中に響き渡った。
その店舗の様子も、実に燦々たるものだった。本は黒焦げ、柱は罅割れ、床や書棚の至る所から煙が立ち上っている。弓月が来る前は火が放たれていたのだろうか。天井から滴るスプリンクラーの水は役目を終えて、次第に勢いを失いつつあった。
建物の七階のその光景は、レイナの操る力が如何に強大であったかを物語っていた。
そこまでして、レイナは手負いのニケ達を殺そうとしていたのか───
弓月は重心を低く構えた。
左足を半歩擦り出し、力を蓄えるように膝を屈める。
「許さない……」
緋色の瞳は、レイナを捉えて離さなかった。
上半身を右に捻り、体の後ろ側で剣を構える。
弓月が攻撃の姿勢をとっても全く恐れていないのか、レイナは進むのを止めなかった。
それどころか、一体何の真似だろうか。弓月が睨むその前で、レイナは自身の両腕を緩やかに広げ始めたではないか。
「…………っ!」
あまりにも無防備なその体勢。
どこからでも掛かってこい──と、挑発しているようにも見える。
見たところレイナは丸腰だ。それはそうだろう。先の異常な磁力がレイナの放ったものなのだとしたら、今のレイナは武器など使わずとも誰にでも勝てるに違いない。
自分は嘗められているのだ。
弓月の表情に悔しさが顕わにされたとき、レイナの口角が微かに上がった。
彼女は、微笑んでいた。
弓月にとってそれは、こちらを見下す余裕の態度でしかなかった。
怒りに任せて刀を振り回す妹を窘める、絶対的強者の微笑みだ。
「……絶対に許さない……」
レイナの体に漲っている磁力は、前回の比ではなかった。ともすれば弓月など軽く押さえ込まれてしまいそうなほど、重厚で威圧的だった。
何らかの手段でその力を得たレイナは、妹など簡単に黙らせることが出来ると思っているのだろうか。
力ずくで従わせることが出来るとでも、思っているのだろうか。
「やれるものなら………!」
弓月の姿が、消えた。
彼女の立っていた床に亀裂が生じ、その伝播速度を凌ぐ勢いで弓月はレイナとの間合いを詰めた。
「止めれるものなら止めてみなさい!!」
如何にレイナの磁力が強かろうとも、速さでそれを上回ればどうということはない。
弓月は相手の腹部に向けて切っ先を突き出した。
風が、音が、弓月の速さについてこれていない。弓月の残像が彼女自身を追跡しているときにはもう、白金の切っ先はレイナの体に触れていた。
風圧で、レイナの髪が掻き上げられる。
髪に含まれていた水分が飛沫となって後ろに飛ぶ。
予め弓月は覚悟していた。レイナが何らかの罠を仕掛けていることを。こちらを軽く扱う態度で挑発して、血気盛んに刀を突き立ててきた瞬間に突然の反撃を浴びせかけるものだと思っていた。
それを予想した上で、弓月は敢えて挑発に乗った。
何が来ようともこの刃で打ち破ってやる。
レイナの卑劣な罠なんて、単純な“力”で圧倒してやる───と。逆上せた心に身を委ねて、敵の懐中に飛び込んでいった。
そうして繰り出された剛堅な鋒は、相手の皮膚に触れるや否や速度を増す。
そして─────
───気付いた時には、右腕はレイナの腹を貫通していた。
「あ……ぁぁ…………」
弓月の頭上で、レイナが掠れた声を漏らす。
「……ち、は…………」
妹の名前を呼ぼうとするも、出てくるのは辛楚の吐気のみ。
レイナの髪から一粒の滴が落ち、弓月の肩に当たって弾けた。
「………っ……」
「……なん、で……」
肘の辺りまで突き刺さった腕を見て、弓月は呆然と呟いた。
その途端、レイナの体がぐらりと手前に傾いた。
「ゲ、ホッ……ぐっ………」
レイナより先に弓月が床に膝を突く。
座り込んだ妹の上に、支えを失った姉の体が覆い被さった。
「なに、これ……どうして……」
レイナの体に近付けば、必ず「何か」が起こるはずだった。
体表を磁力で覆っている、とか、刀を突いた瞬間に全身の動きが封じられる、とか───そういった応酬を想定して、弓月は手加減無しの全力で今の一撃を放ったのだ。
だが。
彼女の剣は何の抵抗も無く刺さっていった。
両手を広げたレイナの、真ん中に。
「何してるの……何企んでるのよ!」
こうもあっさりと勝てるとは思ってもみなかった。
何か策があるのでは。
そう疑ってはみたが、依然としてレイナが攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。
弓月の体に不自由はない。それどころかレイナは磁力を紡ぎ出してすらいない。
一体、何故─────?
「さいご、に……ひとつだけ……」
レイナの両腕が持ち上げられ、宙を彷徨う。
ひどく震えるその腕は、しばらくして弓月の背中を包み込んだ。
それはとても優しい感触だった。
「おね……がい……ワガママ、きいて……?」
数秒前まで弓月の力を嘲るかのように広げられていたその腕。
今では妹の温もりを確かめるように、彼女の体をぎゅっと抱きしめている。
レイナの腹部を貫く腕の剣が、次第に鋭さを失っていった。段々と刀身の光沢が消え、刃渡りが縮んでゆき、終いにそれは鉤爪状の片刃となって、弓月の腕から突き出ていた。
それもすぐに前腕に収まる。
「レイナ……?」
認められない。
そんな思いで、弓月は姉の腕に包まれていた。
ニケさんを、そしてヤナさんをあんな風にしたのは、他でもないこの人だ。
木倉さんを血だらけにしたのは、この人以外にあり得ない。
そんなヒドいことをした人が、どうして。
どうして、私にはこんなに………
弓月はもう気付いていた。
相対したときの、レイナのあの腕。
あれは彼女を侮る仕草なんかではなかった。
レイナはあの時、最愛の妹をかき抱かんとしてあんな無防備な姿を見せてしまったのだ。
愛おしげに微笑みながら。
認めたくなくても、認めざるを得なかった。
弓月が敵愾心を剥き出しにしても、レイナは態度を改めなかった。そのまま進めば斬り殺されることが分かっていながら、彼女は歩みを止めはしなかったのだ。
レイナは弓月に殺されることを望んでいたのだ。
「なんで……なんでよ!? あなたはニケさん達にあんな……酷いことしておいて、どうして私には優しくできるのよ!」
レイナの腹から腕を引き抜き、肩を揺さぶって問い詰めた。水に濡れたレイナのコートはとても冷たい。弓月が手に力を込めると、コートに染み込んでいた水が滲み出てレイナの腕を伝っていった。
「何のつもりよッ! いくら私に甘い顔したって、そんなことじゃ……」
「千晴……いたい! 揺らさないで……」
はっと我に返り、弓月は手を止めた。無理矢理レイナを引き離した両手から、力が抜ける。
レイナはもう弓月に抱きつこうとはせず、代わりに右手で床に転がっている物体を指し示して、言った。
「千晴、ほら……あれ、何かわかる……?」
その指の先には、真っ黒に焦げた塊が落ちていた。よく見ると、その周りにも同じ物が────弓月の周囲一帯に、おびただしい数の奇妙な物体が転がっていた。
どうやらそれは鼠のようだった。どれも同じ大きさの鼠が、様々な姿勢で打ち捨てられている。あれは一体……?
「あれね……クラメル、なんだよ」
レイナの瞳は真っ黒だった。
そんな彼女の得意げな口調の中に、信じられない単語が入っているのを弓月は聞き逃さなかった。
「ク……クラメル!?」
「そう……姉さん、ね、頑張ったんだよ。頑張って、あいつ、倒したんだよ」
あの真っ黒な死鼠達は、とてもクラメルには見えなかった。悶え苦しむ溝鼠が、そのまま石にされたかのようである。
あれは、クラメル“だった”のか?
このレイナが、奴を殺したのか?
「ここに……着いたとき……あいつ、千晴の友達を殺そうとしてた……」
「……え?」
「危なかった……もうちょっとでも、遅れてたら……ヤナちゃん、殺されてた」
「ちょっと……ちょっと待ってよ!」
レイナが零すその言葉で、弓月の動揺は激しさを増した。弓月は再びレイナの肩を掴み、揺さぶりこそしなかったものの語気荒く問い質した。
「じゃああれは……ニケさんもヤナさんも、木倉さんも、皆クラメルがやったことなの!?」
「……うん……」
「それをレイナが止めた……皆を傷つけたんじゃなくて、皆を……そうなの、レイナ!?」
「………」
「何で!? 何でもっと早く言わないの!? そうすれば私に斬られることなんてなかったじゃない!」
「え……」
「もっと早く言ってくれれば……!」
「千晴……?」
相変わらず弓月の声は荒いまま。その手はレイナの肩を痛いほど強く握っている。
だがレイナは確かに聞いた。弓月が今、「斬られずに済んだ」と言っていたのを。
「千晴は、姉さんのこと……そんな簡単に許してくれるの?」
「……許すわけ、ないじゃない」
一転して小さな声で、レイナの言葉を否定した。
「でも……レイナがニケさん達を助けたって知ってたら、こんなことしなかった。クラメルを倒したのはレイナなんだって、最初に言ってくれれば、こんなこと……」
このレイナが、ヤナの喉を撃ち、目の前でニケを盾にした恨みを忘れたわけではない。
しかし、友の恩人に刃を突き刺す気など、弓月には全くなかった。
レイナがクラス・ノートの統括者を屠り、大切な友の命を守ってくれたのだと知っていたら、こんなこと、するはずがなかった。
「なんで……」
殺したくて殺したくて堪らない相手を、ついに倒した。
その“相手”が、自らの罪を滅ぼすために闘っていたのだとしたら、自分は一体どうすればいいのだろう。
「………私ね、千晴」
途方に暮れる弓月の肩に、レイナの額が重なった。
肩にもたれ掛かることで、レイナの表情が弓月には見えなくなる。だからレイナが何を思ってそんなことを言い出したのか、彼女には分からなかった。
「ほんとは、千晴にほめてほしかったんだ。今までいっぱい悪いこと、してきたけど……最期くらい、千晴にほめてほしかった……」
耳元で囁かれる姉の言葉を、弓月はただ聞いていることしかできなかった。レイナの顔から雫がこぼれ、その声は震えていたが、それは決して水に濡れたせいなんかではなかった。
「でも、千晴の目を見たときに……自分にそんな資格はないって、思った……。やっぱり、千晴に殺されなきゃいけないんだな、って。……でも…………でも……ッ!」
レイナが初めて、弓月の肩を強く掴んだ。肩の関節がぎゅっと締め付けられ、あまりの痛さに弓月は思わず目を閉じた。
「いっ……!」
ぐっと、嗚咽を堪えるレイナの掌は、命尽きる前に妹の体を苛んだ。
やり切れない想いに歯を食いしばって。
胸の中から溢れる黒い感情に堪えているようでもあった。
ふと、弓月を痛めるその手が緩んだ。
急に圧迫から解放され、二の腕に軽い痺れが残る。
弓月の肩に凭れていたレイナの額が、ふわり、と離れた。
レイナが顔を上げる。
弓月のすぐ側でこちらを向いたレイナは───笑っていた。
とても、朗らかな笑顔だった。
「姉さん、もうすぐ死んじゃうから……ほめてくれると、嬉しいな」
濡れた髪の下に覗く彼女の表情からは、死にゆく苦しみや、別れの未練などは感じられなかった。
弓月は口を開いた。が、気持ちが言葉になって出てこない。
それでも、後悔だとか、感謝だとか───レイナに対する申し訳なさだとか───そういった色んな感情がないまぜになったこの心を伝えようと、彼女は左手をレイナの頬に添えた。
親指で、すっと涙を拭う。
レイナの冷たい頬に、少しだけ赤みが差した。えへへ、と照れたように俯く彼女の仕草は、とても幸せそうだった。
最期に彼女は救われたようだった。
レイナの体が力を失ったとき、
弓月の手の平が僅かに揺れた。
彼女の手からレイナの頬が離れ、その表情から生気が消えた。
弓月の胸元に倒れ込み、とん、と軽く衝突する。
そのまま床に落ちてしまいそうになる彼女の体を片手で抱え、弓月は膝の上に姉の頭を乗せた。
まるで夢を見ているような、穏やかな姉の横顔。ついに叶わなかった妹との談笑を、その夢の中でいつまでも、いつまでも楽しみ続けているのだろう。