翼
必ずここに来るだろうとは思っていた。フレアを倒したところで、レイナの妹の身が安全になったわけではない。このクラメルを消さない限り、本当の安泰は訪れない。
「レイナ……」
そして、レイナとクラメルが戦えば勝敗は見えている。ツバサがやっとのことでクラメルの居場所にたどり着いたとき、まさに、レイナの体が鉛色の真剣によって真っ二つに斬られようとしていた。
考えるより早く、磁界を練り上げる。
クラメルの周りを囲むように張られたその磁界は、瞬く間に収縮し、相手の全身に密着するような形で安定した。
一時凌ぎの、即席の檻だ。
クラメルの動きが、ピタリと止まる。大上段に振りかぶった刀の先は小刻みに震動しており、全力でツバサの磁界を振り解こうとしているのが、ここからでも分かった。
「………。」
クラメルの刃が振り下ろされないことを不審に思ったのか、そのとき、レイナが恐る恐る目を開けた。
「…ツバサ……」
恐怖から逃れようと、目を閉じ、顔を背け、両手を上げて体を庇おうとしていたレイナの姿は、惨めだった。
生来の因縁であるフレアを討って勢いを得て、こうしてクラメルと対峙するまで勝利を信じて疑わなかったであろうことを思うと、意識せずともツバサは前に突き出した拳を固く握り締めてしまうのだった。
「レイナ、起きれるか?」
茜色の瞳を見つめて、問うた。
レイナは小さく震えながら、何も言わず両手を地面について起き上がろうとした。
「起きられるなら、早く逃げろ。もう……」
そこでツバサは歯を食いしばった。はっとレイナは顔を上げ、すぐさまその場から跳び退いた。
全身をツバサに押さえられたクラメルが、声だけを、その場に響かせた。
「何の真似だ、ツバサ。」
ツバサはすぐには答えず、地面にへたり込む男をレイナが抱え上げるのを見届けて、それから口を開いた。
「クラメル。レイナを、見逃してやってほしい。」
「見逃す?」
クラメルは、理解できないとでも言いたげに聞き返した。
その声にはどこか、ツバサやレイナ達を取るに足らない下等な存在として見下す響きが込められていた。
「本気で言っているのか? ツバサ。」
「……。」
「…だとすれば、我々クラス・ノートは一挙に半分以上のメンツを失うことになるな……」
と、口では言うものの、クラメルがそれほど悲嘆しているようには感じられなかった。
フレア、レイナ、ツバサ、この三人を失い、残りのクラス・ノートがクラメルとマルクのみになったとしても、「ヴィーナスの再興」という大願は叶えることが可能だ。と、そう思っているのだろうか。
そうに違いない。仮にもし、これからマルクが倒されるようなことがあっても、クラメルさえ残っていれば計画は潰えないだろう。クラメルにとって他の人員は、せいぜい優秀な「駒」でしかないのだ。
「ツバサ!」
腰を抜かした人間を抱きかかえたレイナが、大きな声を出した。レイナの左腕に抱えられたその人間──おそらく“守衛”だろう──は全身から力が抜けてしまった様子で、レイナはその男の体重を支えるのに苦労していた。
「力を貸して! 私と一緒に、クラメルを倒して!」
今にも泣きそうな声で、哀願した。ツバサのこめかみを、一筋の汗が伝う。
「お願い……」
「…だ、そうだ。ツバサ、どうする?」
あちらを向いたままのクラメルの頭部から、冷たい声が聞こえた。
どうするか──クラメルに従うか、逆らうか。簡単なはずだ。取るべき行動は、既に決まっている。
だが、いざクラメルを前にすると、固い意志が呆気なく萎縮しそうになるのも事実だった。
「ツバサ、悪いが今回ばかりは貴様の我が儘も、聞けん。レイナは殺す。これは決定している。」
「………。」
「心配するな。貴様の意見も尊重してやる。どうしてもと言うなら、レイナを“嬲り殺す”のは、よしてやろう。」
ツバサが来なければ、今頃レイナはどうなっていたのか───想像するだに恐ろしい。
「最後の警告だ。無駄な抵抗はよせ。」
クラメルは、言った。相手の能力に縛られ、身動きの取れない状態で。
しかし、それがはったりなどではないことは言うに及ばない。
ここでツバサが従わなければどうなるのかは明らかだ。
だが──
「それは、できない。」
ツバサは首を横に振った。そして、廊下を歩み、搬入庫の中に降り立って、慎重にレイナの方へと進んでいった。
「クラス・ノートを進んで抜けたいわけじゃない。だけど、レイナを殺すと言うのなら、俺は、あなたに逆らわなければならない。」
「……フン。」
レイナの場所まであと十歩の所まで来たとき、クラメルが鼻で笑った。
この冷静かつ冷血なクラメルの嘲りは、そのまま“虐殺”を意味することになる。奴のこの嘲笑を、ツバサは何度横で聞いてきたことか。
「妹想いが過ぎるのも、考え物だな……。」
そこからさらに二、三歩進んだとき、丁度クラメルの横顔が見えた。
そして彼は見た。奴の眼を。
クラメルは、完全に本気を出していた。その眼は、瞳が黒いまま、周囲が真っ赤に染まっていた。この夕闇の中でも、その鮮やかな血の色は、はっとするほど印象的だった。
ツバサはこの上なく戦慄した。クラメルのこの眼を見て、生きながらえた者など一人もいない。奴の味方でもない限り──そして今、ツバサ達はクラメルの味方ではない。
「貴様。」
死神の眼が、こちらを向いた。
「こんな隙だらけの磁力で、俺を止められると思うなよ……」
その言葉を最後に、クラメルの姿が消えた。
“形が消えた”と言うべきだろうか。身を包むツバサの磁界の中で、クラメルの体が、水のように滑らかな流体に変身を遂げたのだった。
「…!」
パシャァン! と、水風船が割れたかのような音が生じた。
人型の物体が一瞬にして液体になったその光景はまるで、“クラメル”を覆う“人の皮”が弾け、その中身が外に流れ出たかのようでもあった。
形のない蛇──そんな表現が相応しい、気味の悪い動きで、それはツバサ達へと近づいてきた。
もう、こうなってはツバサに奴を止めることは出来なかった。ツバサの磁界は、言わば剛力を持つ巨大な腕。如何に力強く、大きな手であろうとも、流れる水を押し留めるのはほぼ不可能だ。
「レイナ、下がれ!」
掴み所のなく、それでいて推進力を持つその流体は、着実に、ツバサ達の方へと向かってきていた。
あれに呑まれまいと一歩ずつ退いてゆくと、背中に何かがぶつかった───レイナだ。
「ツバサ、どうすれば!?」
「レイナ?」
「こいつを倒す方法は、無いの?」
ツバサが後退するに従ってレイナも僅かずつ下がってはいるが、ツバサの背中には確かに、前向きの抵抗が感じられた。前に出ようとするレイナを、ツバサが背中で押しているかのようである───事実、そうだった。レイナはまだ、「戦う」という選択肢を捨て去れずにいた。
「ねえ…ツバサ! 何してるの!?」
後ろで焦れたように叫んだ。
「一緒に、一緒に戦ってくれるんじゃ、ないの?」
縋るように、囁いて、レイナはツバサの肩を掴んだ。
直後、肩から手が離され、背後からレイナの呻き声がした。
「…レイナ!?」
肩越しに見ると、レイナは右手を腹に抱え、顔をしかめていた。その手の平には、クラメルにやられたのであろう、痛々しい切り傷が走っていた。
「お前……」
「こんなの、いいから…! 一緒に戦ってくれるんでしょ?」
殆ど泣いているような目で懇願した。頼りになるのはツバサしかいない。もし彼が首を縦に振らなければ、自分は負ける。クラメルに殺され、千晴までもが、弄ばれる。
レイナの瞳の茜色が、溜まった涙で揺らめいて、ぽとりと、落ちた。そして、退くのを止めた。それ以上ツバサが後退しようとしても、レイナは一歩も動かなかった。
いつだって、ツバサがいれば無敵だった。フレアを怒らせてしまったときも、その場にツバサがいればあまり酷い目には遭わされなかった。磁力の扱い方を教えてくれたのはツバサだ。戦い方に限らず、ヴィーナスという非道な組織での生き方を教えてくれたのも、ツバサだった。兄がいたから、レイナはこの十四年間、妹と生き別れた寂しさに耐え続けることが出来たのだ。
だから、今回も心のどこかでは大丈夫だと思っていた。
もちろんクラメル相手に二人で掛かったところで、勝てる保証は全く無い。
だけど、違う。勝算とか、可能性の話じゃなくて、理屈なんてない心の奥で、勝つ確信があった。ツバサさえいれば。
作戦なんて、いらない。
相手が誰であっても、関係ない。ツバサがいれば、無敵。どんなにクラメルが恐くても、私達を敵に回せばもっと恐い。どんなにクラメルが強くても、私達二人はもっと、もっと強い。
だから、ツバサ───!
「……。」
ツバサは目を逸らし、前を向いた。波打ち、アメーバのように体を伸び縮みさせながら、クラメルが彼の磁界を掻い潜りつつ近づいてくる。
レイナの目を見れば、彼女が何を考えているのか、ツバサには解った。妹は自分を頼りにしている。力を合わせれば、万が一にでもクラメルに勝てると、信じている。
昔から、レイナは兄を頼っていた。血の繋がりも何もない、ただただ人工脊髄に「マグナの式」を共有するだけの存在だというのに、つらいことがあるとすぐ──レイナにとってはこの十四年そのものが辛苦ではあったが──ツバサに助けを求めてきていた。
助けを求める、と言ってもあらかさまに寄り縋ってきたわけではない。声には出さず、ある時は感情を殺しきった表情で、またある時は涙で顔を濡らしてこちらに視線を投げ掛けるだけだった。だが、たとえ「助けてくれ」とは言われなくても、その目を見れば助けてほしがっているのは明らかだった。
その視線が、嫌だった。
助けてほしいなら、声に出せ。自分一人で何一つ状況を変えられないだなんて、それではまるで、お前がいつもお人形みたいに抱いている赤ん坊と一緒ではないか───“ハル”とは違ってレイナは昔から成人の姿だった。いい年して赤ん坊以外とは話そうとせず、責められれば俯いたまま黙り込み、殴られればまるで四歳児のように泣きじゃくる。殴ってきた者を片端から消し去るだけの力を持っていながらただ怯えるだけで、必死になって赤ん坊を庇っていた。
子供想いの無力な母親。そういう言葉を当てはめてみれば多少は感涙ものだが、それでもツバサは、レイナが子犬のような目でこちらを見る度にどこかからか苛々した感情が湧き上がってくるのを感じていた。
所詮自分には関係ない。そう、思っていたのだろう。
変わったのは、あの日からだ。
あの日、ツバサはマルクと共に「粛清」を行っていた。ヴィーナスから抜けようとする者、外部組織と内通している者、果ては収拾不能の失態を演じた者などを戒める、もしくは消す作業だ。
あの日は普段より「被疑者」が多かった。本部に他の組織のスパイが潜入し、周囲の山中を索敵する見張役の中にそれを手助けした者がいるとの情報が入ったのだ。被疑者たちは揃って無実を主張したが、ヴィーナスは徹底的だ。当時の動向を証明することができない者は、例外なく処分していた。
そのときだった。血相を変えたフレアがその場に飛び込んできたのは。
彼女の話によると、レイナとハルの姿がどこにも見当たらないらしかった。昨晩レイナで鬱憤を晴らしたのを最後に見かけていないと言うから、逃走開始から数時間経過している可能性もある。すぐさま彼らは探索に向かった。
レイナはなかなか見つからなかった。
「冥王ハデス」の片割れの逃走なぞ、ヴィーナスの危機以外の何物でもない。そのときはヴィーナス本陣のみならずクラス・ノートまでもが総出で逃走者を捜していた。
粛清によって失った見張役はすぐさま補填される手筈だったのだが、人員の入れ替えの際にはどうしても警戒に隙が生じるものだ。レイナはそれを利用して、闇夜の中誰にも気づかれずに脱出することができたのだろう。
もしかすると、スパイ侵入の手助けをした者がいる、という情報はデマで、見張りを攪乱するためにレイナが故意に流したものではないか───という憶測も囁かれはじめていた。そんな噂を、ツバサは一笑に付したものだ。あれに、そんな大層なことができるわけがない、と。
それから少しして、レイナは見つかった。直線距離にして40キロメートル離れた、寂れた東屋の中だった。
裸足で歩き続けたために足はぼろぼろであり、ヴィーナスに見つかったときには既に逃げ切るのに十分な体力も残してはいなかった。そして、その時にはもう“ハル”の姿はなかったらしい。
連絡を聞いてその場に到着したとき、東屋の周囲は、ヴィーナスの主力によって取り囲まれていた。レイナの反発を恐れているのか、誰も中に入ろうとはしない。
かと思うと、中から鈍い衝撃音が聞こえてきた。
何事かと入り口に立つと、ようやくレイナの姿が見えた。
最近まで人の生活していた様子が一切無い小屋の中、レイナは白緑色の糸で後ろ手に縛られ、壁に寄りかかって座っていた。中は広くはないが、家具などが全くないのである程度動き回れる空間はあった。レイナの隣に一人の男が立っている。
アイラだった。奴は戸口に立つツバサには気がつかず、左足を振り上げた。
レイナの顔面が蹴り上げられる。
慌ててツバサはアイラを磁力で押し退け、小屋の中に入った。
レイナは蹴られた勢いで地面に倒れ伏していたが、ツバサが近づくのを見ると、激しい表情で下から睨み上げてきた。
そのときツバサは初めてレイナの瞳を見た。その、茜色の瞳を。昼から夜へと移り変わる憂愁の色はそのままレイナの今後を、暗闇が待ち受けている彼女の人生を象徴しているかのようだった。彼女の憂いの色は、瞳の中で、怒りのように燃え上がっていた。
こいつは、殴られれば怯えるだけの存在だと、ツバサは思っていた。
しかし、この目は違う。襲い来る者を一人残らず返り討ちにしかねない執念が、鋭い眼光となって放たれていた。何故だ。何故、そこまでして──
……は…さない……
そのとき、レイナが唸った。これもまた、ツバサが想像もしなかったような、低い威しの利いた声だった。
──ちはるは、わたさない!!
ドンッ───!! と重鈍な音を立てて、ツバサの肩を磁力線が掠めた。咄嗟に弾道を逸らしていなければ、それはツバサの眉間を直撃していたことだろう。
ちはる──“ハル”のことか? こいつはあんな、何の役にも立たない赤ん坊を逃がすために、これほどの深手を? ツバサは一時だけ言葉を失った。
これだからサイボーグというものは……
すると、アイラが唐突に口を開いた。レイナは奴に対しても渾身の一撃を放ったが、体力が少ないせいか相手を弾き飛ばすことができず、アイラはほんの少し重心を揺さぶられただけだった。
可哀想ですが、ここで抹殺しておきましょう
微塵も哀れに思っていない様子で、奴はレイナを見下ろしていた。長時間に渡る抵抗と、全身に負った傷のせいでレイナの意識は朦朧とし始め、最早アイラの出足を止めることすらままならなかった。
奴が再び足で蹴り上げると、今度は爪先がレイナの鳩尾に命中した。レイナは目を見開いて一瞬息を止め、苦しそうに呻きだした。
ツバサ、手を貸してください
アイラは人当たりの良い笑みを浮かべてツバサの方を向いた。自分は決定打を持たないから、ツバサの手で手っ取り早く済ましてほしい、ということらしい。
ツバサは足下で身悶えるレイナを見下ろした。
そして、アイラが怪訝な顔をするのにも構わず、彼女の側に膝を屈めた。
またレイナは睨んできたが、弱り切っているのか、もうその目に力は籠もっていなかった。儚い息遣いが今にも止んでしまいそうで、その身に触れるのも躊躇われる。
すると、突然レイナの息が激しくなった。背中が荒く上下し、こみ上げる感情を吐き出すまいと、苦しそうに顔が歪んだ。
そして、泣いた。
たすけてください────
必死に上体を起こし、手を縛られたままツバサに寄り縋った。
ちはるを、にがしてください……
しゃくり上げ、心から絞り出すような声で、ツバサに哀願した。長い時間追いかけ回され、傷を負い、挙げ句の果てにこうして捕まり、暴行を受けている。もう、戦えないと悟ったのだろう。これ以上抗ってもどうにもならない。
そう覚悟したレイナがとった行動は“命乞い”だった。自分はもう助からない。ならばせめて妹の命だけは、と、憎むべき相手に対して無様に頭を下げたのだった。
何故だ?
何故俺を頼る?
俺は今まで、お前を見殺しにしてきたんだぞ?
おねがいします、おねがいします………
ツバサの袖を掴もうとしたのか、レイナが腕を伸ばそうとしたのがわかった。
当然マルクの糸に縛られていてはそれも叶うはずがない。レイナが腕に力を込める度、手首を縛る糸がぎしぎしと耳障りな音を立てていた。
なりふり構わず、形だけの“兄”に対してレイナは縋り続けていた。いくら同種の能力を有しているからと言っても、ツバサの方はレイナとは違い積極的にヴィーナスへの貢献を行っているのだ。本来ならばそんな者など、死の間際まで呪い続けて然るべきだ。
だがこの女は、そうはしなかった。自らのプライドなどかなぐり捨ててでも、妹の安全を保障してほしかったのだ。
ツバサには分からない。血の繋がりなんて。
何をしているのですか、ツバサ
だけど、これははっきりしている。
この子は、全身を失った。今、ツバサの目の前にあるこの体は、人間よりも自分たちアンドロイドの方に近い。
そしてこの子は親も失った。物心ついて間もなく両親から見捨てられ、ここに来た。
それでも、この子は今まで一度も「親に会いたい」と嘆いたことがなかった。どんなに酷い目に遭った後でも、親元を懐かしんだりせず、いつも寝てばかりいる赤ん坊に愛おしげに語りかけているだけだった。
だが、今は、違った。泣きながら妹をどこかに手放し、こうして地面を這い蹲っている姿は、決して「嘆いている」なんて言葉で済まされるようなものではなかった。
あなたがやらないのなら、わたくしがやるまでです。さあ……
血の、繋がり。
体と、両親を失ったこの子にとってそんなもの、意味を成さない。
それなのに、“レイナ”と“ハル”の間には、何だか強い絆があるように思えた。
誰にも見えない、強い絆が───
どいてください、ツバサ……
「────失せろ!!」
アイラの体が後ろに飛び、壁に激突した。それは凄まじい衝撃で、小屋全体が壊れることこそなかったものの、代わりに壁面に大きな穴が開いた。打ち所が悪かったのか、アイラは外に体を半分放り出すような形で気絶していた。
振り上げた右手をレイナの肩に置いて宥め、ツバサはポケットから左手でサバイバルナイフを取り出した。吹き飛ばされたアイラを驚いて見ていたレイナは、ツバサが肩に手を触れた瞬間ビクッと震えたが、彼の行動に気がつくと、目を丸くして顔を見上げていた。
ツバサはレイナの手首を縛る白緑色の糸を切っている最中だった。手首を傷つけないように慎重に切っ先を操りながら。
お前……妹を見逃してやってほしいのか?
と、幾重にも巻かれたマルクの糸に四苦八苦しながらツバサは囁いた。
レイナは一瞬きょとんとしていたが、その言葉の内容を理解すると、必死に首を縦に振った。
ち、ちはるは、ゆるしてあげて……!
大人しくしていればよいものを、急に身動きを取り始めたために、ナイフの切っ先が腕に刺さってしまった。だが長時間無理な姿勢をとらされていたせいか、痛覚が麻痺してしまっているのだろう。レイナは一向に怯む様子がなかった。
これ以上動いたら助けてやらない、と脅しつけた後で、ツバサは続けた。
頼みを聞いてほしければ、これから一生ヴィーナスとして働き続けろ
え……
そうすれば、お前の妹のことは諦めてやる
ほ、ほんとうに…!?
だから動くなって……もし本気で妹のことを助けたいのなら、これからは俺の、俺たち“クラス・ノート”の監視下に入れ
くらすのーと……?
いいか、お前が弱音を吐いたり、俺たちを裏切ったりしたら、ヴィーナスは全力を挙げてお前の大事な妹を見つけだす。そうなれば……
だ、だめ!
ちっ…ほら、糸、切れたぞ。マルクの奴、馬鹿みてえにぐるぐる巻きにしやがって
ちはるは、たすけてくれるの…?
ああ、お前が大人しくしてればな。言っとくが、俺はお前の命の保証はしない。いいな?
……うん……
……そんな心配すんなよ。お偉いさんには俺が何とか掛け合ってやるから。お前は俺の後ろでしおらしくしてればいいんだよ………
「ねえ…ツバサ!」
あの日以来レイナが頼ってくるたびに、ツバサは彼女のためを思って尽力してきた。だが、流石にこの状況では、レイナの願いを聞き入れて、一緒に戦ってやることはできない───ツバサはゆっくり首を横に振った。
「ツバサ…!」
「だめだ、レイナ。戦えない。」
「ど、どうして、なの……」
「勝ち目がない……逃げるぞ。」
今は、それ以外に手段がない。それくらい、レイナにも分かっているはずだ。
だが彼女は頑なに退こうとしなかった。
「ダメ! ここで逃げたら、千晴が…!」
「戦っても、勝てる訳じゃない。」
「そんなの、やってみなきゃわからない!」
「いいか、三つ数えたらこの磁界を外す。それと同時にお前は上に跳んでくれ。」
「何言ってるの……戦わないと……」
「クラメルが襲い掛かるより速く、全力で上昇するぞ。」
「ツバサッ!!」
渾身の磁力を注ぎ込んだ状態でもなお、クラメルは止められない。このままだと、奴に喉元を切り裂かれるのは時間の問題だった。そうなる前に早く、この戦線を一挙に離脱しなければならない。
今回ばかりは、我が儘も言っていられない。ツバサはほんの少しだけ後ろを向いた。
「レイナ───」
それがいけなかったのだ。クラメルはその一瞬の隙を見逃してくれるほど甘い相手ではなかった。
「余所見をするな。」
至近距離から冷たい声が聞こえてきた。
慌てて振り返ったときにはもう、遅かった。
「ああっ!」
ツバサの、胸が貫かれた。
レイナを叱責しようと気を逸らした、その罪は大きかったのだ。磁界に生じた僅かな揺らぎを寸分の狂いもなく突いた鉛色の槍は、容赦なく、ツバサの体を射抜いていた。