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生身の刃  作者: δ
第二章後編:生身の諸刃
41/65

恐慌との邂逅

「な、なに、やってる……」


 飛び込んできたのは正門の守衛だった。

 窓ガラスが荒々しく割られたのを心配に思って駆けつけた彼は、部屋の光景を目の当たりにして絶句した。


「守衛さん……!」

「佐野!? これは……」


 部屋の中に、六人の死体。

 体をくの字に折り曲げているのは藤堂千香、反対に極限まで体が反り返っているのは伊勢竜也で、喉から血を流した相原祐二と折り重なるようにして倒れている。

 三舟駿の死に顔はこの世のものとは思えないほど恐ろしい。顔面の筋肉が一斉に緊張したようで、見るに堪えない。左のソファーの前で倒れている女は───美里か?

 足下に目をやると、社内随一の女好き、緑川隼人が、あり得ない方向に首を曲げられて倒れていた。


 部屋の中で、無傷なのは西嶋才斗とフードの男のみ。佐野賢介は生きてはいるものの顔中血だらけで、どの死体よりも痛々しい姿だった。


「才斗……これ、何だ?」

「……。」

「てめえが、やったんか?」


 佐野の頭を壁に押しつけているオールバックの男は何も言わず、突然部屋に押し入ってきた守衛をただ観察するのみであった。 

 有り得ない──だが、この状況。なぜこうなったのかは分からないが、何が起こったのは明らかだ。奴のことは人として最低だとは思っていたが、まさかこんな……


「守衛さん! 逃げて!」


 突然、佐野が喚いた。精一杯の気力を振り絞って、必死に叫んだ。

 その声で、守衛の注意は佐野に向いた。そのとき初めて、彼は佐野の喉元を見た。才斗によって露わにされた喉に、歪な、鉛色の刃が突き立てられている。

 その刀は、才斗の袖口から突き出ている──佐野は才斗に殺される。


「才斗ォ!!」


 瞬時の判断で腰に手を回し、拳銃を握った。若気の至りで、扱いには慣れている。

 交渉の余地無し。銃口を才斗に向けると、すぐに発砲した。


 タァンッ────!


 肩を撃ち抜いた。

 引き金を引くのとほぼ同時に、才斗の右肩に大穴が空くのが見えた。

 銃を持ったまますぐに駆け出す。

 発砲によって相手が怯んだ隙に、間髪入れず取り押さえる。危険人物を拿捕する際の鉄則だ。今回のように敵に仲間がいる場合は、殊更に発砲と捕獲とのタイムラグを短くしなければならない。


「…!」


 だが、

 止まってしまった。

 撃てば、敵は怯む。増してや着弾すれば、敵は痛みのあまり応戦するどころではない──これがセオリーのはずなのに。

 才斗は全く動じていなかった。


「痛いな。」


 心にもないことを、奴はのたまう。

 確かに肩に命中した。大穴が空いた。

 だが、傷口からは一切血が流れていなかったし、奴は痛みに顔をしかめることもなかった。

 出てはいけない───感覚が訴えた。このまま行けば、奴に殺される。だから彼はその場に立ち止まってしまったのだ。


 彼が見ている前で、才斗の傷はじわじわと塞がっていった。拳銃のダメージなど、取るに足らない。そう、嘲笑するかのように。


「俺達が殺すのは、技術員だ。」

「あ、あんた、何なんだ……?」

「出しゃばらなければ見逃してやったものを……」


 守衛を嘲る肩の傷とは裏腹に、奴の顔は至って無表情だった。

 感情のない顔、冷酷な目。奴は、才斗などではない。いや、人間ですらない───

 と、奴が守衛から視線を外した。

 恐怖に震え上がる佐野の喉元へと。


 ────ザシュッ………


 滑らかな手つきで、喉を裂いた。

 本当に、人を殺し慣れている者の動きだった。

 佐野の手足が激しく痙攣する。

 ビクン、ビクン、と激しくのたうち回る四肢は次第に弱々しく、生気を失っていった。


「さの………」


 最後にピクリと小指が跳ね、そして止まった。

 死んだのだ。


「ひ、な、なんで……」

「さて。」


 才斗の皮を被った「何か」が、すっと立ち上がった。

 奴は返り血すら浴びていなかった。人の血液の流れを熟知しているのか、真正面から至近距離で喉を刺したのに、佐野の血は奴の横に噴き飛んで、奴の手元以外を赤く汚すことはなかった。

 立ち上がった殺人鬼は左腕を振り、刃に付いた鮮血を払い落とした。死の間際、佐野が奴の体に付けた唯一の返り血までもが、佐野の最期の怨念までもが、いとも簡単に振り払われた。それも、佐野の屍の上に───奴に死者への敬意など微塵もない。


「悪いが俺は、撃ってきた奴を見逃してやるほどお人好しじゃない。」


 奴が一歩踏み出す。

 同時に守衛が一歩退く。

 守衛は奴の凶器を見た。たった今佐野を殺した左手の刃は、柄がなかった。その刀身は、奴の左腕から直接生えていたのだ。

 守衛が入り口にたどり着いたとき、丁度奴は緑川の死体の位置まで進んでいた。

 緑川はいつも、仕事帰りに女性と外を遊んで廻るような男だった。

 守衛はよく、彼のことをからかったものだ。

 そんなことだからいつまで経っても独身なんだ、と。

 そんなとき緑川は決まって「独身万歳」「結婚なんてめんどくさい」などと、守衛からすれば信じられないことを喚き散らしていたが、

 しかし、そんな男も今は死体だ。

 真後ろに首を折られた、奇妙な死体だ。

 才斗の姿をした殺人鬼は、緑川を避けようともせず、そのまま彼の胸の上に足を乗せた。


 ────ベキッ!!


 骨の折れる音。

 奴は全く意に介さず、目は守衛を観察している。

 このままだと、自分も、あんな……

 簡単に………



「うわああああああああああ!!!」


 開いたままのドアを抜けて、一目散に駆け出した。

 が、足がもつれてその場に倒れる。


「ひ、いっ……!」


 腰が、抜けて……


「貴様、往生際が…」

「よ、よるなあああぁぁっ!!」


 起きあがることもできず、尻餅をついたまま後ずさる。

 床に右手を突いたとき、守衛はその手に拳銃を所持していることを思い出した。

 何も考えずに、慌てて構える。

 殺人の恐怖に衝き動かされて、めったやたらに撃ち放った。

 四発撃って、四発全てが顔面に命中した。

 普通ならこれで終わりだが、


「…滑稽な生き物だ……」


 目は陥没し、右の耳は吹き飛び、鼻から後頭部にかけて一筋の穴が貫通していてもなお、奴は死ななかった。

 無事に残った唇だけが、気味悪く蠢いていた。


「ぎひいぃっ!!」


 想像しうる限りのいかなる怪物にも、これほどまでに恐ろしいものはいないだろう。

 守衛は敵の顔から目を背け、奴の心臓に銃を向けた。

 最期の一発。

 引き金を引く───ことは叶わなかった。

 突然彼の手から銃が離れ、宙に浮いたのだ。


「へ……」


 何が起こったのか。

 考えている暇はなかった。

 彼の手元に浮かぶその銃はくるりとこちらを向いて、銃口が独りでに彼の胸に狙いを定めた。


「ひゃあぁっ!!」




 ───ダァン!!




 咄嗟の動きだった。

 発砲の直前、守衛は無意識に左に転んだ。そのおかげで心臓を貫かれることはなかったものの、少しでも遅れていたら、命はなかった。


「大人しくしろっての。」


 心底不愉快そうに、灰色のフードを被った男が唸った。その男が前に上げた右手を下ろすと、緑川の側に転がっていたスタンガンが勢いよく飛び出してきた。


「うわっ!」


 思わず左手で払う──運良くスタンガンの持ち手に当てることができた。守衛に叩き落とされたその凶器は、ガシャン! と音を立てて床に転がった。


 殺される。


 左手の甲の痛み、そして奴らの殺気が、守衛の体を立ち直らせた。立て! 走れ! ようやく体が言うことを聞くようになった。


「た、助けてええぇぇぇ!!」


 叫び、走った。誰もいない廊下を、ひたすらに。

 この時間帯ならば残業中の従業員が何人か残っているはずなのだが、今日に限ってなぜか、社内は閑散としていた。




 よしんば人が残っていたとしても、助けにはならない。

 逃げなければ。この足で。走らなければ───体は勝手に走っていた。彼の脳の指示通り、あの恐ろしい化け物から必死になって逃げ去ってはいたが、腰から下の感覚が、彼にはなかった。彼の本能が、両足を衝き動かしていた。

 一目散に、階段を目指す。エレベーターなどには乗っていられない。

 段を飛ばして階段を転げ降りる。

 途中足を踏み外し、踊り場に転んだが、すぐさま立ち上がった。

 今にも敵は、真後ろに迫っているかも知れないのだ。止まってなどいられない。

 再び走り出す。


 そして、振り向いている暇などないというのに、

 彼は後ろを見てしまった。

 そこには……




「───────逃げるな。」



 顎を開いた、鉛色の大蛇が───

 

「ギヤァァァァァァァァァッ!!!」


 両手を床に突き、転がる。

 バツン! と、大蛇の咬撃が頭上を掠めた。

 立ち止ったら───喰われる。この大蛇の眼は、間違いない。“奴”の眼だ。

 体の痛みも忘れて跳び起きる。

 階段を四つん這い同然の情け無い格好で転がり落ちると、背後から蛇の這う音が追ってきた。

 踊り場に飛び込み、間髪入れずに横に跳ぶ。

 咬みつきの勢い余って蛇が壁に衝突している間に距離を稼ぐ。


(は、早く……早く!)


 早く外に出なければ……!

 長い、長い逃走の末、ようやく彼は一階にたどり着いた。一階の廊下に全身で飛び込み、手を衝いて起き上がる。

 直後、彼の背後に蛇が滑り込んだ。


「わああああっ!!」


 無我夢中で、近くの部屋に駆け込んだ。

 扉を閉め、窓をめがけて走る。

 側に置いてあった高価な分析機を思いっ切り投げつけ、ガラスを打ち破った。

 ガラスの弾ける音。


(早く…!)


 が、

 背後の扉がバアン! と開いた。


「ひっ…!!」


 身を屈めながら後ろを向くと、瞬間、体の上を大型の獣が飛び越していった。


 虎だった。


 鉛色の虎はそのまま窓の外に着地した。

 なりふり構わず、守衛は反射的に扉へと駆け戻った。

 後ろから迫る恐怖から逃げたくて、彼は元の通路を走り抜けた。

 右に廊下。


(あそこだ……!)


 駆け込んだ先、二つ目の部屋の扉を開ける。

 製図室だ。その奥の扉が、隣の測定室へと繋がっている。

 彼は手近な椅子を窓に投げ、ガラスを割った。

 と、割られたガラスになど目もくれず、間髪入れず奥の扉に駆け込んだ。

 扉を閉め、測定室を静かに走り抜ける。

 廊下へと続くドアの前で止まり、取っ手に手をかけた姿勢のまま身構えた。


(うまくいってくれ……)


 そのとき、外から獣の爪音が聞こえてきた。


 ───チャッ………


 バアン! と、二つ隣の部屋の扉が開かれた。

 その部屋に獲物はいない。

 続いて測定室の隣、守衛が先ほど駆け込んだ製図室の扉が破られた。


 ………


 数瞬の静寂。守衛の心臓は早鐘を打つ。

 あの殺人鬼は、あの、才斗から蛇へ、蛇から虎へと姿を変えて守衛を狙う化け物は、製図室の中にも人がいないことにすぐに気が付くはず。

 扉の向こうの廊下に、守衛は意識を集中した。


 チッ………


 舌打ち。そして獣の爪音が隣の部屋の中に走り込んだ。

 一秒待って、守衛は慎重にドアノブを回す。隣の扉を破ったあの虎は、守衛が割った窓ガラスを見て、すぐさまその窓を潜り抜けたに違いない。獲物がそこを通って逃げたのだと思うはずだ。

 安心はできない。

 その窓の向こうの中庭に降り立った虎は、そこに守衛の姿がないことに気が付くはず。そして、そのまま中庭を彷徨いていてくれればありがたいが、そうはいかないだろう。

 もたもたしていては、引き返してきた虎に見つかる。

 静かにドアを開け、守衛は頭だけを廊下に出した。

 左には──虎の姿はない。

 右は──そこにもいない。

 後ろ──

 窓の向こうに、奴がいた。

 幸い奴はこちらを向いていない。守衛は細心の注意を払って、音を立てずに廊下に出た。

 ゆっくりと、扉を閉める。

 閉じる間際、奴がこちらを見たような気がした──が、怯んではいられない。距離は稼げたのだ。守衛はもはや後を振り向かず、続く廊下を右に左に折れ曲がりながら敵から遠ざかった。












「ヒイッ、ヒイッ……」


 これほど明刻に死を感じたことはなかった。

 一階の、関係者出入口へと一直線に続く通路。その端にある曲がり角から、守衛は廊下の様子を窺っていた。

 迂回に迂回を重ね、鉛色の虎や灰色のフードの男の姿に怯えながらも、彼はやっとここまでたどり着いた。あと五、六十メートルで、外に出られる。

 だが、そのたった六十メートルが、今の彼にとっては鬼門でしかなかった。


(あいつらは…どこだ……)


 通路は暗く、非常灯の弱々しい緑色だけが頼みの綱だった。どことなく病院の廊下を思わせる。

 この心許ない暗闇の中で、たとえばそこの、半開きのままのロッカールームの扉から飛びかかられたとしたら、その時点で一巻の終わりだ。逃げ切ることなどできはしない。


(………。)


 ゴクリ、と唾を呑み込む。

 仮にこの廊下を抜けて、関係者出入口のドアにたどり着けたとしても、あの真っ白なドアの先に、奴が待ち構えていない保証はない。それでも、外に出るためにはあそこを抜けなければならない。

 先ずはあそこまで静かに進む。

 そして、一旦あのドアの前で止まり、耳を澄ませてみる。

 気配がなければ、外に出る。もし何者かの音がすれば──引き返すよりない。だが死ぬよりはよっぽど良い。

 段取りを決めてしまえば、あとは実行に移すのみ。彼はその廊下を抜き足で歩き始めた。

 と、そのとき。


 パッ、と、廊下が明るくなった。


「…!」


 突然のことに守衛は竦み上がる。

 センサーだ──定刻になると作動しはじめる、人の動きを関知して自動で点灯、消灯するセンサーが、このタイミングで働きだしたのだ。


(やば…!)


 辺りを見回せば敵の気配はしないが、もしも敵がこの明かりを目にすれば、すぐさまここへ駆けつけるだろう。

 奴らが来る前に、あのドアへ──!

 後をかえりみず、彼は走った。

 外へ! 外へ出てしまえば逃げきれる! 会社の前の道路に出て、そこを通る車に乗せてもらえば、助かる──そうだ、生身の刃──携帯は守衛室に置いてきた。取りに行ってはいられない。逃げる車内で、携帯電話を貸してもらえばいいだろう。とにかく走れ───


 半開きのロッカールームからも、扉が無く、大口を開けるトイレの入り口からも、敵が飛び出してくることはなかった。

 いける。あと二十メートル……!

 もうここまで来れば死角はない。

 背後からの追っ手の気配もない。

 十メートル───!








 扉が、外から開かれた。


「あ」


 咄嗟には許容しがたい出来事に、守衛は思わず頓狂な声を上げてしまった。

 鼓動が止まり、頭が真っ白になる。

 見つかった───逃げられなかった………


「……え」


 後ろに尻をついて倒れ込んだまま、

 出口に立つ者を見て、守衛の頭は混乱した。

 鉛の虎か? パーカーの男か?

 否、そのどちらでもなかった。そこにいるのは一人の女。黒いコートに身を纏い、茜色の瞳をした女が、そこに立っていた。


「あ、あ、あんた、誰……」

「……。」


 激しく震え上がる守衛を、その女は無言で見下ろしている。

 数秒経って、ようやく守衛に必要最低限の落ち着きが戻ってきた──彼はこうして縮み上がっているべきではないことに気が付いたのだ。


「あ、あんた、逃げろ! あいつらが来る…!」

「…あいつら……」

「こっ、殺される! 早く!」


 慌てて彼女に這い寄り、コートの裾を掴んで哀願した。

 女は何も語らない。

 そのとき、守衛の動きが止まった。


(こいつ、まさか…!)


 “奴”なのか?

 あの殺人鬼が、今度はこの女に化けたのか?

 俺を油断させて、殺すのか?


「あ、あ……」


 目を見開いて、手を離した。体中から力が抜けて、もう、動けない。


 死ぬ───


「………。」


 だが、


「……?」


 何も起こらなかった。

 この女が、あいつの仮の姿ならば、最初に見つかった瞬間に殺されていただろう。だが守衛はまだ生きている。

 そもそも、彼の目の前にいる女からは、あの殺人鬼とは似ても似つかぬ雰囲気が漂っていた。奴の冷酷で残忍な表情ではない。全てを焼き尽くす怒りの炎が、女の目には浮かんでいた。

 奴らとは異なる熱い“殺気”だ。


「……クラメルね?」

「……え…?」

「ここに、クラメルがいるのね?」


 クラメル。

 その名前に聞き覚えはない。

 奴の名か?

 守衛が答えられないでいると、女は少し身を屈めて彼に手を差し伸べた。


「さあ、起きて。」

「は……」

「早く。」


 びくびくしながら手を出すと、女は突然その手を掴み、強引に彼を引っ張り上げた。

 守衛がよろめくのにも構わず、女は彼を扉の外に連れ出した。

 彼らは広い搬入庫の中に出た。理路整然と積み上げられたコンテナの向こう側に、閑散とした夜道が見える。車は一台も通ってはいなかった。

 それでも、外に奴らの姿が見えなかったのは幸いだ。


「やった……!」


 やっと、外に逃げられた。あの道路を走っていけば、いくら何でも自動車一台くらいは通るだろう。それに乗せてもらえば生き延びられる──!


「早く、逃げよう!」


 正体不明の女の腕を掴み、彼は一目散に駆けだした。

 だが、


「ダメ。」

「…は?」

「走っても、無駄。」


 女は動かなかった。守衛の手を振り払い、関係者出入口の扉をバタンと閉めて、ただ、その場に立ち尽くすのみだった。


「何言ってる! 早く逃げないと……!」


 焦り、力ずくで引き寄せようとする。

 だが不思議とその女を動かすことはできなかった。彼も多少は腕力に自身があるのだが、なぜか、彼が引っ張っても女はびくともしなかった。妙に重たい。この体型にしては不自然に大きな体重だ。


「逃げてもいいよ。命の保証はできないけど。」

「何……?」

「ほら……」


 すうっと、指を差した先。

 そこは、彼らが逃げ出したばかりの出入口だった。

 この女が何を言わんとしているのか、初めは分からなかった。

 だが、次第に、はっきりと聞こえてくる。


 ──ブロロロオオォォオオ………


 これは……バイク?

 一体どこから………


「まさか……」


 来る、のか? 奴が、今度はバイクに姿を変えて?

 間違いない──来る。奴が、近付いている。


 ──ブロロロォォオオオッ────



「ひいっ!!」


 今度こそ本当にパニックに陥った。隠れなければ──どこへ? コンテナへ──だめだ、遠い───間に合わない! でも、早く隠れないと───どうすれば………!


「来い。さあ………」


 はっとするほど、恐ろしい声。その声に、守衛の体の震えが止まった。

 この女、何をするつもりだ?

 出入口の前に佇んで、気が振れたかのように右手を前に掲げて。

 何をしている。逃げろ───



 ───…ォォォオオオオオッッ!!!



 バァンッ!!


 ついに、開いた。

 鉛色のバイクが飛び出した。

 女が腕に力を込める。

 前輪が女に襲いかかる。

 刹那───




 ───ダダダダダダダダダダッッ!!!




 突然の轟音。マシンガンに撃ち抜かれたかのように、バイクが空中で分解した。


 ダダダダダダダダダダダダ────!!


「ひえっ!?」


 予想外の出来事に、思わず守衛は体を丸めてうずくまる。

 何が起こった──自分を殺しに来たバイクが扉を破り、猛スピードで飛び出した。その勢いのまま女が轢き倒される──はずだったが、違った。


 ──ダダダダダダダダダダッ………


 轟音が、ようやく止んだ。


「や、やったのか……?」


 女の右手の向こう、乱暴に開けられた出入り口には、バイクの姿はなかった。

 恐るべき迫力を伴って飛びかかってきたあのバイクは、女の手前で、粉々に打ち砕かれたのだ。女が何かした様子はないが、敵が独りでに粉砕したとも思えない。

 視線を下に向けると、女の足元に奴の残骸が転がっているのが判った。


「勝った……?」

「……まだ。」


 無意識に身を乗り出す守衛の体を、女が押し留めた。

 まだ? まだ、勝ってはいないと?

 どういうことだ? あの化け物も、流石にここまで木っ端微塵にされては再起不能だろう。


 次の瞬間、女の言葉の真意に彼は気づくことになる。


「手荒だな、レイナ。」


 聞き覚えのない声が、聞こえた。

 あまりにも唐突で、初めはどこから聞こえてきたのか分からなかった。


「反抗期、というやつか……?」


 ようやく、分かった。

 女の足元だ。

 女の足元から、冷酷かつ残忍な声が響いてくる。

 と、そのとき


「あっ!!」


 女が小さく叫んで後ろに跳んだ。

 そのまま守衛のすぐ側まで後ずさり、身構える。

 何事かと守衛は前を向き、

 そこで初めて、彼は途轍もなく恐ろしいものを見た。


「フレア殺しを詫びに来た、わけではなさそうだな。」


 数秒前まで鉛色の欠片だった物が、彼らの見ている前で幾つも幾つも幾つも寄せ集まり、グロテスクに蠢きだしたのだ。

 受け入れられないその光景に、守衛は言葉を失った。

 バイクを粉々に吹き飛ばして、それでもなお、この女は勝ってはいなかったのだ。あれほどの攻撃を喰らっても殺せないなんて、一体どうすれば……

 見る見るうちに、鉛色の塊は人の形に近づいていった。

 ドロドロに溶けた顔面、胴体と区別のつかない両腕、周囲の鉛の欠片が寄り集まって成長してゆく、折れ曲がった二本の足。

 そのどれもが、時間の経過と共にはっきりとした形状を成していった。

 頭部に相当する部分に突然ぽっかりと丸い穴が開き、かと思うとそれは醜く歪みだした。


「レイナ、何をしに来た……まさか……」

「その、まさか。」


 化け物の問いに、女は即答した。

 守衛が奴らに襲われていたところに、この女は不意に現れ、そして先ほどはこの怪物の化けるバイクを跡形もなく吹き飛ばした。この状況で彼が頼れるのは、この正体不明の女しかいない。

 だが、それでも、守衛は全く安心できなかった。女の凄まじい攻撃も、所詮この化け物には通用しなかったし、威勢良く即答した女の声も、実際のところ、微かに震えていたからだ。


「あなたを殺しに来たの。悪い?」

「……」


 蠢く金属塊は一瞬だけ言葉を止め、


「……フ。」


 かと思えば、声高に笑い出した。


「───フハハハハハハハハハッ!!!」


 おどろおどろしいその声に、守衛は縮み上がった。


「悪くねェ! 最期のセリフにしては上出来だ、レイナ!」


 言葉を吐く度に、奴の体から鉛色の飛沫が爆ぜた。

 ありとあらゆる方向に飛ぶその滴のうち、守衛の前に立つ女の方へと向かった物は、一つの例外もなく空中で弾き飛ばされた。


「……せいぜい笑ってれば。」

「クックックッ……」

「私は、あなたを殺す。あなたを殺して、千晴に報いる。」

「……フッ。小娘が。」


 今や化け物の体は、人間のそれにかなり近くなっていた。

 広い肩幅に、切れ長の目。その長身は相手に威圧を与えるのには十分で、地面にへたり込んでいる守衛にとっては、奴の姿は人を喰らう巨人のようにも見えた。

 レイナ、と呼ばれた女の決意を鼻で笑い、冷酷かつ冷血なはずの怪物は、限りない侮蔑を込めて言い放った。


「命乞いは許さん。その脳味噌引きずり出して、死ぬまで後悔させてやる……」




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