密閉空間
目を開けて、最初に見えたのは天井の電灯だった。
灯りは点いていた。真上にそれがあるものだからとても眩しく、微かに首を横に回して彼は光を避けた。
首を動かした先。そこには壁があった。一面真っ白の、平淡な壁だ。窓が無いため外の景色は分からない。まあ、室内の電灯が点いているのだから、外は今頃夜の暗闇に包まれているのだろう。
いや、何を言っている。外からの光が射し込まないから、こうして電灯を点けているんじゃないか…………
再び目を開けたとき、最初に目に映ったのは安城の心配顔だった。
「あ……」
安城の頭上では、二度目の眠りに落ちる前と同様に細長い電灯に光が灯されていた。ここはどこだろう?首を動かすと、自分の右に弓月が座っているのが判った。
「透くん。気分、どう?」
気分。まあ、悪くはない。体も別段、痛むということもない。
ただ、体中のどこを動かそうとしても全く力が入らなかった。「覚醒」は、この重鈍な肉体を持ち上げるだけのエネルギーすら取り置いてはくれなかったのだろうか。
「だいぶ、弱ってるみたいなの。」
目が覚めて、意識がはっきりとしてくるに連れて空腹までもが明確に感じられるようになった。
雨宮の胃袋の訴えに応えるかのようにして、安城は脇に置いてあった器を手に取った。
「おなか空いたでしょ。弓月さん。ごめん、持ち上げてもらってもいい?」
そう言うと、弓月は何も言わず雨宮の体の下に腕を差し込み、上体を起こさせた。
安城の手にした器には、どうやって用意したのか分からないが、温かいお粥が入っていたようだ。それを安城はスプーンで掬い、雨宮の口に運ぶ。
「さ、透くん。口開けて。」
同い年の女の子に体を起こしてもらって、またまた同い年の女の子にお粥を食べさせてもらう。
身体状況を鑑みれば仕方がないとは言えども、こうまでされてはこの雨宮、嬉しさを通り越してかなり恥ずかしい。この体力で心臓をドキドキさせたら死ぬと思うので必死に気を落ち着かせてはいるが。
こういう、一人の男が複数人の女に囲まれている様を世間では何というのだっけ? まあしかし、こうして実際に体験してみると案外味気ないものだ。そもそも相手が二人というのが少なすぎるのだろうけど。
羞恥心に抗って雨宮が口を開けたところに安城がお粥を流し込む。何だかなあ。安城とは長い付き合いだから、その昔ままごとか何かでこんなのをやっていたとしても不思議ではない。リトル安城がリトル雨宮に「はい、あーん。」とか言って玩具の匙を突き出す光景は微笑ましいが、いい歳した候補生同士でこんなことしていてもコソバユイだけだ。
刹那、雨宮の脳裏に「馬鹿」と「couple」から成る造語が浮上し、全身に寒気が走る。
「へ、変なこと考えないでよねっ。」
ごめん。
もしここで「あーん」しているのが弓月だったとしたら多少はココロ動いたのだろうか。相手が安城のときに比べれば、まあそうなのかも知れない。
だが悲しいかな、今の弓月は完全に眉間に皺を寄せてしまっている。こんな思い詰めた顔で飯を口吻に突き出されてしまっては、こちらとしては畏れ慄きながらそれを頂戴するしかないだろう。正直な話、こうして彼女の腕に抱き抱えられているだけで得体の知れない恐怖に駆られるほどだ。
「安城、もういい。ありがとう。」
「? 透くん、もうお腹いっぱいなの?」
「あんまり一度に食えないみたい……」
弓月が体を下ろそうとするので、「しばらく起き上がらせてくれ」と頼むと、やはり彼女は無言のまま雨宮の体を壁にもたれさせた。
上半身が鉛直上向きになったことで、ようやく雨宮は室内を広く観察することができた。今まで彼は病室にあるようなベッドの上に寝転がっていたようだ。何度見ても壁は一様に白く、雨宮の前方に出入り口のドアこそ見えるものの、やはり窓はなかった。
室内の設備と言えば壁の所々から突き出すように設置された深緑のベンチ、鏡や洗面台、そして壁際に置かれた二つのベッドのみであった。
そのベッドのうちの左の方に雨宮はいて、その雨宮にとっての右側、弓月の向こうに頭に包帯を巻かれた痛々しい姿の大川寺が
「おーい。ゆづきちゃーん。」
大川寺がなんかほざいた。
「ぼくも、おなかすいたナ?」
「うえっ。」
「キモッ。」
「……。」
割れた眼鏡を外し、まるで喧嘩でボコボコにされた優等生っぽい見た目の大川寺が、物欲しそうにこちらを見ていた。
その子犬のような瞳と人差し指を咥える仕草の前に安城と雨宮の二人は吐き気を禁じ得ない。
だがもう一人は違った。流石は仏の弓月だ。本来ならば「これでも喰らえ!」と粥の入った器を顔面に投げつけてやっても良いくらいなのだが、彼女は無言のまま安城から食器を受け取り、匙を片手に奴へと向き直ったのだった。なんと慈悲深い女性だろう。
「……。」
「いや、ごめん。冗談です。悪かった。」
「……。」
しかし悲しいかな、今の弓月は完全に眉間に皺を寄せてしまっている。
こんな思い詰めた顔で飯を口吻に突き出されてしまっては、大川寺としては畏れ慄きながらそれを頂戴するしかないだろう。彼もそれは御免だったようで、左手を挙げて弓月を制した。
本当に、今の弓月は様子が変だ。今朝から彼女の表情は険しかったが、今や顔の翳りはいよいよ深く、まるで修行僧だ。何に憤慨しているのか釈然としないが、何も語らずとも周囲を圧するほどの気迫を漂わせている。いやそもそも無言なのが一番怖い。
そのとき、この息苦しい空気を打ち破る者が現れた。
東だ。彼は雨宮の右斜め前、部屋の隅に背を凭れかけながら喚きだした。
「き、貴様ら! 先ほどから何をしている!? 緊張感に欠けるぞ!」
喚いたかと思うと突然身を起こし、演説を始めた。
顔から火を噴きながら「自分の置かれた状況が」とか「虚偽の安寧に現をぬかし」だとか言ってる最中に心底申し訳ないとは思うが、雨宮は横槍を入れさせてもらう。
「東、おまえ何でいるの?」
「はっ、正気か? 友の危機に僕が参上しない理由が無かろう?」
悪いが参上する理由も思いつかない。
「この東秀介が折角駆けつけてやったというのに、貴様らという奴は呑気にハ、ハ、ハーレムなど形成しおって……!!」
「はあ!? おい、東!」
「ななな何言ってるんですか! 東さん!」
「…………」
「それ程破廉恥な遊戯に興じていたいと言うのなら、良いだろう。外に出て自らの命を狙う輩を滅ぼしてから、ごゆるりと楽しむが良い!!」
「はっはー。東くん、言うねえー。」
「東お前、自分で何言ってんのか分かってる…?」
「…………」
「言っておくが、此処だって安全なわけではないのだぞ!? 寧ろ…」
「同感だね。」
突然降って出たその声に驚いて、雨宮は左を向く。
何故今まで気が付かなかったのか。その男は、壁に取り付けられたベンチに腰掛けていた。
頬に赤みが差す安城の陰になる位置、そこにタクトは座っていた。赤面する東や安城などとは打って変わって、その表情は真剣そのものだ。
「いい加減、気を引き締めなよ。」
腕を組み、本心から呆れたように吐き捨てた。
だが。雨宮は彼に対して申し訳なさや後ろめたさなどは抱かなかった。代わりに湧き上がってくるのは、憤怒。
「テメエ……」
「?」
「俺たちを裏切っておいて、よくも……」
この男は、自分たちを売ったのだ。いくら勝ち目がなかったとは言え、タクトがそこまで軽薄な奴だとはその時が来るまで思ってもいなかった。
「裏切った、ね……」
「言い訳はいらない。お前の存在は、東とは違った意味で不愉快だ。」
ツバサとの何らかの交渉の後、タクトは地面に叩き落とされた。タクトが上空で何を言ったのか、どうして失敗したのかは分からない。ただ、もしも話し合いが成功していたなら自分は今頃どうなっていたのか、それだけは分かる。
都合良くうるさい東が目を点にして黙り込んだので、雨宮は身を乗り出して一際強く怒声を浴びせた。
「透く…っ!」
「何でここにいる!? 目障りだ! とっとと…」
体勢を崩しかけ、安城に支えられる。それでもなお口を利こうとした、そのとき、
「違うだろ、雨宮。」
突然投げ掛けられた、厳しい口調。
それは大川寺の発したものだった。
「タクトが敵に引っ張り上げられたとき、敵の動きが一瞬だけ止まった。」
数秒前までのふざけた態度はどうしたのか、大川寺は珍しく真面目な顔をしていた。
あまりにも唐突な出来事に、雨宮はつい言い淀む。
「…何か、したんだろ? タクトさんよ。」
「…ああ。」
大儀そうに、タクトは頷いた。
「ツバサに、ある女の記憶を見せてやった。ともすれば形勢を逆転しかねないほどの、女の思惑を、ね。」
「さっすが。」
「ま、結局はだめだったけど。」
ため息混じりにそう呟いた。
女の記憶──そうだったのか。タクトは敵に至近距離まで近づくために、あんなことを──タクトの降伏の意図と大川寺の観察眼を目の当たりにして雨宮は二の句を継げなくなった。
そこへタクトは追撃をかける。
「雨宮。今は遊んでる場合じゃない。」
「そーだぞ、雨宮。」
「君もだ。大川寺。……俺たちはようやく着いたんだ。“ディファレンシス”に。」
元に戻った大川寺を睨みつけ、タクトはその名を口にした。
「いいな、雨宮。それに他の皆も。ガイアは決して、俺たちの味方なんかじゃない。」
それくらい、誰にだって分かる。仮に味方なのだとしたら、一もニもなく雨宮と弓月のことを何らかの手段で助けてくれるはずだ。
だが現実はどうだ? 弓月に味方したのは安城と東、そしてニケの三人で、一方雨宮はタクトや大川寺とともに死にかけていた。そこにガイアなる女性は一切関与していない。
「奴が力を貸してくれる見込みはないが……それでも俺は、ガイアから出来うる限りの情報を引き出すつもりだ。」
「…で、出来るのか?」
「出来るさ。君たちが横でへらへらしてさえいなければ、ね。」
雨宮を射竦めるその目には、彼に文句を吐かせる余裕を与えないだけの迫力があった。
その目が不意に、横に流れる。
「…来たよ……」
しんとした室内に、ノックの音が響き渡った。その場の全員の視線が、タクトの睨む先、部屋に唯一の扉へと向かう。
最早力は残っていないはずなのに、自然と体中の筋肉が緊張するのを、雨宮は感じた。
自分がここに来たのは、隠れ場が欲しかったからだ。自分のことを匿ってくれるのなら、ガイアの思惑なんてどうでも良い───そんな理屈では割り切れない何かが、頭の中を支配していた。
遂に、ガイアと出会う。それは一体、自分たちにとって何を意味するのだろうか──?