別れの時
強く、激しく、胸の内から止めどなく溢れ出すこの怒りが、右腕を伝ってカタチになった。
「私を…」
弓月の決意を目の当たりにして、レイナの心は打ちのめされた。妹の目は明らかに自分を憎んでいる。
「はっ!!」
弓月は足を踏み込んだ。力を込めるたび足下の礫が粉々に打ち砕かれ、欠片が彼女の残像に遅れて続いた。
「!」
ぎりぎりでレイナは斬撃をかわす。僅か1センチで切り込みを避け、彼女はそのまま勢い余って左に倒れた。
「ううっ…」
砂利道で弓月の脚力が殺されていなければ、レイナは素早さについてこれず真っ二つになっていただろう。
剣を上に振り切ったまま、弓月は足を踏ん張ってニケの真横で止まった。ニケは腹を押さえながらも、何とかして立ち上がろうとしている。
「ニケさん! 無茶はよして!」
「大丈夫だ。二人で掛かるぞ。」
制服の内ポケットからサバイバルナイフを取り出して、ニケはレイナに向き直った。レイナはコンテナを支えにしてよろめきながら立ち上がっていた。
「…私が先に行くから、ニケさんは背後を取って。」
「やめて……千晴……」
「ああ、分かった。」
「刀を下ろして……」
「なるべく早く決着をつけるから。心配しないで。……行きます!」
ニケが体勢を整えたのを確認して、弓月は再びレイナへと向かっていった。今度は敵との間合いを一蹴りで詰め、刺すようにして剣を突いた。
「きゃっ!!」
レイナは屈んで、辛うじてこれを避けた。頭上を飛ぶ弓月と目が合ったが、攻撃はしてこない。
そして、弓月が着地するより早く二つ目の刃が襲いかかってきた。
「こっちだ!」
弓月を目で追っていたレイナは、ニケに完全に背中を取られる格好となった。
彼女の手に握られた分厚いナイフが正確にこちらの首筋を狙っている。
レイナは苦し紛れに磁力を放った。相手に標準を合わせたわけではない。ただがむしゃらに撃っただけだ。そんな攻撃が、ニケに通用するはずがない。数々の闘いを勝ち抜いてきた“勝利の女神”は、進撃を緩めることなくそれを見切り、回避する。
彼女が手負いでさえなければ。
「うっ!?」
直撃は免れたものの、今度は右の二の腕が貫かれた。腹から背中を貫通する最初の傷のダメージは相当に大きく、ニケの動きが鈍っていたのだ。
この機会を、レイナは逃さなかった。ニケの突き出した腕を引っ張り、片手を彼女の頭に添えた。
「ニケさ…!」
ニケの元に向かおうとしても、着地の勢いが止まらない。
足に力を込め、後ろに滑る自分の体を止めようとしても敷かれた砂利が散らばるだけだった。
「やめてえええぇっ!!」
「うあああっ!!」
絞り出すように、叫んで。そしてレイナは磁力を束ねた。
ニケの瞳が、色を失った。
紅い光が明滅し、暗く、生気のない瞳が、ゆっくりと閉じられた。
「あ……あぁ……」
どさり、と目の前でニケの体が崩れ落ちた。地面に倒れたその体をレイナは抱え上げた。
「……レイナァッ!!」
「こ、殺してない! まだ殺してないから…!」
弓月が叫ぶと、レイナは震え上がった。怖れるように首を振って、言い訳をした。
「『まだ』……!?」
「眠らせただけ! 殺してなんかないよ!」
「うるさい!! どうせ殺すつもりなんでしょ!?」
そう叫ぶと、彼女はブルブルと再び首を振った。仕草こそニケの破壊を否定してはいるが、ニケの体を抱えたまま、未だ片手を彼女の頭に添えている。
弓月が剣を構えるとレイナはすぐさまニケを持ち上げた。その身を盾にするかのように。彼女の茜色の目とニケの後頭部にかけた手を見て、弓月の心はむかつきはじめた。
「やっぱり…そのつもりなんじゃないの!」
「千晴っ…」
「彼女を放して!」
「やめて…」
「さもないと……」
「言うこと聞いて!!」
内側から押し出すように、目を閉じ、叫んだ。ニケを前に掲げ、泣きながら続けた。
「姉さんは、千晴にだけは死んでほしくない! 千晴が死んだら、生きていけない!」
「…何言ってるのよ!? それとこれとは関係ないでしょ!」
「千晴のためなら何でもする! あいつらから千晴を守るには味方にするしかないの!」
「あいつら…あなたの仲間ね。」
「邪魔するやつは、たとえ千晴の友達でも……」
「あなたの仲間がどんな奴なのかも、私をどうしたいのかも分からないわ。でもね、そんなのどうだっていい。」
「ちは…」
「返して。」
「ダメ……」
「私の友達を、返して!!」
睨みつけ、力の限り一喝した。レイナは首を竦めたが、その手をニケから離すことはなかった。
「千晴! ほら、見えないの!?」
「…くっ……」
「この人は、シャットダウンされてる。外から電源を切られたアンドロイドは、自力で起きられないんだよ?」
「……。」
「千晴、いい子だから……姉さんの言うことを聞いて?」
「レイナ……」
「私と、一緒に来て。」
この位置からどう飛びかかっても、レイナはニケを盾にして身を守るだろう。いやそれ以前に、もしこれ以上攻撃の意志を見せたら彼女はニケの頭を撃つかも知れない。
レイナの要求を呑めば、今すぐとはいかなくてもそのうちニケは解放されるだろう。弓月の身柄を完全に確保し、反抗できない立場に追いやった上で。
レイナの頼みは、そう難しいことではない。友達の安全と引き替えに、彼女たちについて行く。それだけだ。
レイナは弓月の唯一の肉親。そしてそれはレイナにとっても同じこと。彼女は、生き別れた妹の幸せを願って、どこかで暮らしているはずの妹の存在を心の支えにして今までつらい日々を過ごしてきたのだ。自分の代わりに。
報いてあげるべきではないのか? 頼みをきいてあげるべきでは? 彼女は自分の居場所を知ってから、妹と一緒に過ごす日常を心待ちにしていたはずだ。今こそ、願いを叶えてあげるべきでは?
否。弓月の心は揺らがなかった。そんな生易しい選択肢など、彼女には無い。
これが、こいつらのやり方……
人質を取って、弱みにつけ込み、自分の要求だけを通す。一週間前だってそうだ。奴らの目的は安城泰明の娘を人質にとって、強請り、復讐を果たすことだった。レイナのしていることは、それとどう違う?
昔は勇敢だったかも知れない。恐怖に震えるその体を叱りつけて、命懸けで自分のことを逃がしてくれたかも知れない。
でも、だからってこんなこと、許していいはずがない。自分の代わりにヴィーナスの闇に染まって、たくさんの罪を背負ってきたかけがえのない姉。彼女の「頼み」をきいてあげるのは、その身に報いたことにならない。
終わりに、する
覚悟を決め、剣を構えた。レイナはまた怯えたようにニケで自分の体を庇う。
ニケさん、起きて
しっかりと柄を握りしめ、彼女は一歩進んだ。
早く起きないと、大変だよ
念じてみても、ニケは何の反応も示さなかった。それでも弓月は進むのを止めない。
アナタは強い
そう信じてる
歩調を早め、大きく剣を振りかぶった。
このまま刃を突き出せばニケの体ごとレイナを貫ける。大丈夫。レイナは私を攻撃してこない──!
「いっけえぇぇっ!!」
スピードを上げて進んでくる弓月から身を隠そうと、レイナは膝を屈めて、ニケの身体を身代わりにした。
友を手にかけられて力を発動したはずの弓月は、それを見ても一向に怯まなかった。その切っ先はニケを介して、迷いなくレイナの額へと向けられている。
友達を盾にすれば止められる──そう思っていたレイナは狼狽えた。現に、このままいけばニケの胸を貫通する。そして、自分に──身の危険を感じ、なりふり構わず逃げ出した。
「っ!?」
いや、逃げ出そうとした。
「フンッ!!」
誰かに、腕を掴まれた。そのまま恐るべき力で引き上げられ、足を払われ、身体を固定されて──
──────ザンッ!!
肩に猛烈な痛みが走り、声にならない叫びを上げてレイナは後ろによろめいた。背中が鉄骨にぶつかり、うずくまる。
痛みで潤む目を開け、何が起こったのかを見極めようとした。視界が涙で揺らいではいるが、目の前に金色の長い髪をした人と、それとは別に肩にかかる長さの紅い髪の女が立っているのが、判った。
「…私を殺す気か? 弓月。」
「ニケさん!」
「なんで……」
確かにあのとき機能を停止させたはずだ。なのになぜ、ニケが……
「本能。……なんて言いたいところだけど、私にも分からない。」
「ニケさん、良かった……」
「良かったじゃないだろ。この借りは必ず返させてもらう。」
「うん……」
ニケは電源を切られても、危険を感じればすぐに目覚めることが出来た。無双の戦士が、寝込みを襲う暴漢を返り討ちにするように。弓月はその可能性に賭けたのだ。その昔、午前の講義の後でヤナが教室を訪れたときに見せた、その可能性に。
「…ぐっ……」
「!」
なんとか気を振り絞って立っていたニケが、とうとう痛みに顔を顰めて崩れ落ちた。
弓月が慌てて肩を庇うと、ニケは苦しそうに呻いた。
「分が悪い……逃げるぞ。」
「え?」
「誰か来る。…おそらくフレアだろうな。」
「フレア?」
「安城たちと、合流して、…態勢を……」
ニケの息は既に途切れ途切れだった。このままでは戦おうにも戦えない。
弓月はレイナを睨んだ。彼女は積み上げられた鉄骨にもたれ掛かったまま、切り裂かれた肩を押さえて佇んでいる。
その目は既に戦意を失い、頬には一筋の涙が伝っていたが、弓月は追い討ちをかけるように言い放った。
「あなただけは、許さないから。」
「……。」
「本当なら今ここで……」
何も言えないレイナから一旦視線を外し、ニケの肩を担いだ。
再び立ち上がったとき、弓月のその目には、激しい緋色の怒りが湛えられていた。
「次に会ったときは、絶対に殺す!!」
そして、彼女は背中を向けた。肩に傷ついた仲間を背負いながら、力強く去っていった。弓月ハルの強靱な四肢はニケの体をしっかりと支えて離さず、しばらくして彼女はレイナの視界から消えた。
この決して広くはない戦場に取り残されたレイナは、妹が斬りつけたその傷の痛みに、一人、無言で泣き続けるばかりだった。