再び会う二人
とりあえずここまで来たものの、未だ状況は不明なままだった。
「大丈夫か?」
声をかけられて、弓月は頷く。
自転車を捨てて、あるときは身を隠し、あるときは道を走り抜けてこの資材置き場にたどり着いたのだが、当然C1クラスの弓月はこれくらいでは疲れない。
物陰で息を潜め、弓月はすぐそばでコンテナに寄りかかる紅い髪をした女に今一度質問を繰り返した。
「何が起こってるの?」
「…抹殺だ。」
遠くを見据えて、ニケはようやく答えた。弓月はここに来るまでに何度も問いかけたのだが、何かから逃れようと弓月の手を引く彼女は敵を掻い潜るのに必死で、これまで一度も答えてくれなかったのだ。
走る間にも、弓月は自分の頭でできる限りのことは整理してみた。
今日は午後放課で、自分は課題を終わらせていたからすぐに学校を出て、そこからはいつも通り自転車を漕いでいた。道を半分くらい進んだところで赤信号に引っかかり、止まっていた。
そのときだった。後ろから突然ニケが現れたのは。
「抹殺…?」
「奴らが、来る。」
現れたときも同じ。ニケは自転車の弓月の腕を掴むなり「敵が来る!」と叫んだのだ。
その、彼女の言う「敵」から身を隠すためにこんな所まで足を運んだ。「敵」って、何?
「誰なの、その『奴ら』って。もしかして……」
「いや。」
言い終わらないうちに、ニケは首を横に振った。
「いや、それは分からない。」
「分からない? じゃあどうして?」
「あいつらは確実にお前を狙っている様子だった。奴らがヴィーナスかどうかははっきりしないけど……」
「理由は?」
「殺人の理由なんて、仲間内で口にするようなことでもないだろう。とにかく、あいつらの正体も、目的も分からない。ただ確かなのは、敵の目標は弓月の討伐だということ。それだけだ。」
「……。」
一体ニケはどこでそれを耳にしたのだろう。街中でそんな不穏な会話を堂々と交わす殺し屋がこの世に存在するのだろうか。
ニケは先ほどから不確定要素ばかりを並べているが、弓月からすれば彼女が自分をここまで連れてきたことだって十分に不可思議だ。そういえばニケだって雨宮や大川寺たちと一緒に課題に四苦八苦していたはずだ。
「ねえ。」
「何」
「本当に、何も手掛かりはないの?」
「さあ。奴らの会話からは特にそれ以上のことは……」
「もしかして、さ。」
「?」
「もしかして、そこにいたのって女の人じゃなかった?」
「女? ああ、そうだったかもな。」
「黒いコートを着た?」
「え」
「髪も真っ黒で、背は私と同じか少し低いくらいの……」
「…なんのことかな。」
「その人と一緒に男の人もいなかった? 三十歳くらいの、パーカーを着た人が。」
「いや、いなかった。敵に心当たりがあるのか?」
「……。」
自分は一体何を考えているのだろう。レイナも、あの男の人も、殺すつもりなら昨夜とっくに実行していたはず。
第一レイナは弓月千晴の姉だと訴えてきたのだ。そんな人が自分のことを殺しに来るはずなんて無い。
「ううん。ごめん。忘れて。」
「そうか。」
少しの間弓月の表情を窺って、ニケはコンテナから上半身を上げた。
彼女は帰る途中で敵の会話を聞き、弓月の元に急いだのだろうか。指には折り畳み傘を提げていた。紅い髪と、制服の白さと、指を支点にして振り子のように揺れる傘のカバーの青が雨上がりの雰囲気によく似合い、こちらの目を惹く。
ニケは敵の襲来を警戒するかのように、辺りの物資を見回した。
「敵の数は分からないけど、囲まれたら終わりだ。こちらから動いていかないと。」
「どうするの?」
「とりあえず周囲を索敵する。もし敵を見かけたらすぐにこの場を離れる。いいな?」
「わかった。」
頷いて、弓月は後ろに駆け出した。
いや、駆け出そうとしたがニケに二の腕を掴まれた。
「待った。」
「? 何?」
「索敵は私がやる。」
「どういうこと? 私は?」
「お前はここに残れ。」
弓月を落ち着かせるように、ニケは彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫。敵がいたらすぐに知らせるし、ここに現れたらすぐに駆けつける。」
「でも」
「狙われてるのは私じゃなくて弓月の方。ここから動くな。目立たないようにじっとしてろ。」
ニケに強く言われては、弓月は従うしかなかった。
そもそもニケなら心配は要らない。彼女は強い。絶対に、負けない。私なんかが下手に動いて足手まといになるよりは、大人しく彼女に従う方がよほど良い。
そう判断して、弓月は肩の力を抜いた。ここはニケに任せる。弓月がその意志を明示すると、ニケはしっかりと頷いた。
そのとき、二人の間を何かが過ぎった。
「え」
一瞬で、全てが起こった。
積み上げられた鉄骨の陰から現れた紅い残像が弓月とニケの間を切り裂いた。それとほぼ同時に耳障りな金属音がして、ニケの体が弓月から後ずさった。
腕を弓月の肩に残して。
「あぁっ!!」
肩に置かれた腕は自らの重みで、落ちた。ニケは失われた二の腕の根元を押さえ、砂利の敷かれた地面に後ろから崩れ落ちた。
やられた──腕の、滑らかな切り口は、弓月の視界に映り込んだ途端彼女の意識を覚醒させた。慄いている隙なんて、無い。反撃を──
「くっ!!」
拳を握り、意志を腕全体に注ぎ込む。「それ」の扱い方は自然と身に付いていた。
あのときと同様に腕から突き出した鉤爪型の刀身を構え、弓月は右を向いた。ニケの肩を切り落とした相手は、まだ刀を振り切った姿勢のまま、目だけをこちらに向けてきている。
たった今、弓月は敵の動きを見た。稲妻より速いその斬撃を。
敵の武器を見た。アダマンタイト特有の、黒金色の短刀を。
敵の顔を見た。一分の油断もないその表情を。
その髪よりも紅く燃え上がる瞳を。
「なっ……」
思わず弓月は左に顔を向けた。そこではやはり、ニケが地に片膝を衝いて痛みに耐えていた。
再び前を向く。そこにいるのもやはり、何度見ても弓月の知っているニケだった──
「ニ、ニケさん!?」
「怪我無いだろうな? 弓月。」
ニケは──後から現れた方のニケは立ち上がり、近づいてきた。弓月はどうすればよいのか分からず、刃を構えたまま一歩退いた。
「おい。」
「あなた、本当にニケさんなの?」
「当たり前だろ。そっちは偽物。」
「で、でも…!」
二人のニケを前にして、弓月の混乱は増してゆくばかりだ。
腕を切られた方のニケは敵意の籠もった、鋭い目つきでもう一人のニケを睨んでいる。一体どちらが本物なのか、全く見分けがつかなかった。
「証拠は!? 本物だっていう証拠はあるの?」
「バカ。本物の私ならそんな簡単にやられたりしない。」
怒るでもなく、いつも通りの冷静な態度で言い切った。
弓月は返す言葉も見つからず、恐ろしい思いで顔を横に向け、地面に屈する人物を見下ろした。
「その通りだな、LEVEL 7よ……」
その人は、言った。
違う。これはニケの声などではない。
もっと無情な、残酷な男の声だった。
「貴様のように抜きん出ている奴は、たとえC1級であっても真似るのに苦労する。」
「ふん。外見だけは巧く装ったな。褒めてやるよ。」
本物のニケが偽物に近づき、アタッチメントを短刀から銃身へと変型させた。
彼女の偽物、ニケの皮を被った謎の男は肩から手を離し、手を挙げて降参の姿勢をとった。切り離された左腕はまだ弓月の足下に転がっているままだから、その様子だとまるで意見を述べるために挙手をしているかのようだ。
などと弓月が眺めていると、足下で変化が起こった。
「! きゃあ!!」
取り残された相手の腕が、もぞもぞとのたうち回り、這い、持ち主の元へと独りでに帰っていったのだ。
腕は飛び、その切り口が元々あるべき場所にぴったりと収まり、あっという間に五体満足なニケの姿が再現された。
それだけではない。肢の一つが戻ってきたのを皮切りに、奴の体そのものにも変化が起きた。
座ったまま肩幅が一回り大きくなり、足は長く、顔の輪郭は上に伸びた。
その目も、みるみるうちにニケの三白眼から切れ長の黒い瞳へと変わっていった。着ていた制服は一度完全に体と同化し、その銀色の体表は緩やかにジャケットの様相を形成した。
「降伏のつもりか?」
奴は正体を現しても手を挙げたまま、抵抗する様子を見せない。しかしニケは油断なく銃を構えた。
「降伏も何も、元から戦うつもりはない。」
「どういう意味だ。」
「こちらの目的は、そこの彼女を味方にすることだ。自分から仕掛ける気は毛頭ない。」
「味方?」
いきなり味方にするなどと言われれば、普通は訝しく思い、追及するだろう。
だが弓月は違った。ついさっきレイナのことを考えていたからだろうか、「もしかして」という感覚が再び湧き上がってきていた。
もしかして、この人はレイナの仲間? レイナは昨夜、今の家から離れたくはないよね、と言ってきた。あれは、このことだったのか?
これから自分を仲間に引き入れようとすることを、暗示していたのではないだろうか。
だとしたら、この人は自分やレイナと同じヴィーナスの犠牲者。もしかするとサイボーグなのかもしれない。最早敵か味方かも判断が付かないまま、「あの」と、弓月は男に声をかけた。
「あなたも私と同じ、ヴィーナスの……」
「ああ、そうだ。」
「違う。」
男の答えを遮ったのは、ニケだった。弓月が驚いて彼女を見ると、ニケの方もこちらを睨み返していた。
「違う。そいつは犠牲者なんかじゃない。」
「余計なことを……」
「その“クラメル”は、ヴィーナスそのものだ。これまでヴィーナスの支配下で動いてきた、アンチロイドだ。」
「ヴィーナス? なんで…」
あの組織が、再び現れた。奴らは一週間前に壊滅したはず。なのになぜ……
いや、そんなことよりも。この男がヴィーナスそのものなら、レイナはどうなるのだ? 今日自分の身に起こることを彼女は知っていた。だとしたら、まさか、レイナも……
「嘘だ……」
「こいつらは一週間前の事件でお前と雨宮の存在を危険視して、今日、手を下しにやって来たんだ。」
「私と、…雨宮君?」
「そう。お前らに二人して牙を剥かれては適わないから、こうして別々に…」
「一つ弁明させてくれ。」
ニケを遮って、手を挙げたまま男が話しだした。
「さっきも言ったが、こちらの目的はそのお嬢さんを説得して味方にすることだ。殺すつもりなんてない。」
「ああ。そうらしいな。それは本当なのか?」
「本当だとも。殺すつもりなら、貴様が来る前に刃を交えていたさ。」
「全くもって謎だな……いずれにせよ」
ちらりと弓月に目をやって、続けた。
「いずれにせよ、雨宮を殺すのには変わりないんだろ。」
「…!」
「…否定はしない。」
「ニケさん! 雨宮君は!?」
「あいつなら大丈夫だろ。多分。」
「多分って……」
「一応、タクトがついているみたいだけど。まあ、あいつらなら巧く逃げきれるよ。」
「逃げ切るって、どこに!?」
午前中の様子だと、さすがにもう彼は課題を終わらせてとっくに神通高校から離れてしまっているだろう。学校の支部長室以外に、安全な隠れ場があるのだろうか。そこには、敵の見張りはいないのだろうか?
「クラメル、フレア、ツバサ、レイナ、マルク……」
「?」
「私たちが把握している限りでは、こいつらは全部で五人。……どこに、じゃない。この五人を駆逐するまで、逃げ続けるんだ。」
「え……」
「大きく出たな。駆逐とは。」
男はせせら笑い、弓月とニケの顔を順に見た。
「“ハル”の方は、なるべく壊したくない。しかし、それ以外のアンドロイドは別だ。」
「なんのつもりだ。」
「LEVEL 7、貴様がこのクラメルと戦おうというのなら、こちらも容赦なく相手をしてやる……」
「妙なマネはよせ。お前は狙撃手に狙われている。」
「フッ。」
「狙撃手?」
ニケは現れたときには既にアタッチメントを装着していた。服装こそ制服のままだが、ある程度の情報を仕入れていることからも分かる通りここに来る前に戦闘準備は整っていたのだろう。狙撃手の配置も、予め計画されていたのか。
いつから? いつの時点から、弓月と雨宮を取り巻くヴィーナスの魔の手にニケたちは気付いていたのだろうか?
「彼女の腕前は優秀だ。目標は、確実に仕留める。」
「虚勢を張るな。俺のこの体質を知った以上、貴様も仕留められるとは思っていないはずだ。」
「……。」
「…大方、ここに来るはずの他のメンツを撃つつもりなのだろう?」
ゆらり、と、男は立ち上がった。ニケは警戒を続けたが、その銃弾を発することはなかった。
「貴様らにとっては残念なことだが、レイナは止められなかったようだな。」
「何!?」
そのとき、少し離れたところの柵が鈍い音を立てて、壊された。
鎖を弾き飛ばされた柵を開けて入ってきた女を見て、弓月の心臓は跳ね上がった。
「レイナ!」
黒いコート、弓月とは似ても似つかない漆黒の髪。間違いなく、昨日雨の中弓月の元から去っていったレイナだった。
昨夜その目は弓月と会えた喜びできれいに潤んでいたが、今はなぜか怖れや悔いが見え隠れしている。レイナはその足でこちらに向かってきた。
「レイナ!聞きたいことが……」
「マルクはどうした。」
クラメルの声は弓月の詰問を押し退けて、レイナに顔を上げさせた。彼女はクラメルの首の辺りを見て、誰とも視線を合わせようとしない。
「分からない。ここには来てない。」
「そうか……どこかで油でも売っているのか? レイナ、狙撃手とやらがいたはずだ。そいつはどうした。」
「そっちの方は、フレアが相手してる。」
「フレア?」
クラメルは眉を顰めた。
「フレアは雨宮透へと向かったのではないのか?」
「ううん。私のところに来た。何だか操られていたみたい。」
「……あいつがか。それは傑作だな。」
クラメルはさも愉快そうに肩を揺らし、弓月へと向き直った。
「待たせたな。姉と妹の感動のご対面だ。LEVEL 7、ここは姉妹水入らず。我々は場を改めよう。」
「ほざくな。二人まとめて斬ってやる。」
「分かるだろう? 俺は斬れない……まあいい。残りたいなら残ればいい。俺は雨宮透の元へと向かう。」
レイナがクラメルの隣にたどり着き、それと入れ替わるようにしてクラメルは弓月たちに背中を向けた。
「“ハル”。貴様が素直に従ってくれるというのなら、雨宮透は見逃してやらんでもない。」
「なにを……」
「その気になったら、知らせてもらいたい。ただし、早めにな……」
去り際にほくそ笑んで、彼は一歩進んだ。
その足が地につくのと同時に、彼の体は正体を現した時とは比べものにならないほど劇的に変化して、一秒後、そこには軽量のバイクが出現していた。
「しっかりやるんだぞ、レイナ。」
バイクの方からクラメルの声が響いてきた。その言葉を最後にクラメルはバイクの姿で走り去っていった。弓月は後を追おうとしたが、ニケに片手で遮られた。
「あいつは後だ。」
「どうして!? ここで止めないと……」
「見ただろ? あいつの体は固相と液相に自由に変化できる。……悔しいが、物理攻撃じゃ意味がない。」
「千晴。」
静かに、レイナは語りかけた。弓月は鋭い視線をレイナに向け、大きな声を上げた。
「レイナ!! 一体これは何なの!?」
「え…」
「あなた、私をどうするの! 雨宮君を殺しにきたの!?」
「違……聞いて、千晴。」
「ヴィーナスが壊滅して、あなたは自由になったから私に会いに来たと思ったのに……はじめっからこれが目的だったの!?」
「千晴っ…!」
「気が済んだか、弓月。」
瞳の紅を一段と深く輝かせ、ニケは弓月を制した。
こんなことで気が済むはずがない。弓月はニケに抗おうとしたが、彼女の横顔を見た途端、言葉が出なくなった。
「レイナ、だな。お前の元には、ヤナが向かったはずだ。あいつをどうした。」
「……。」
「…愚問だったな。……弓月!」
何も答えないレイナから目を逸らし、ニケは弓月を鼓舞した。
「気ィ引き締めろ。ヤナの仇を、討つぞ。」