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生身の刃  作者: δ
第二章前編:Class Nought
23/65

雨上がり

 この辺りの空気は澄んでいて、向こうの山の稜線もくっきりと映っている。

 雨上がりなど関係なく普段から塵の少ない空気であったから、時々大きく息を吸って吐き出してみれば、体の中の毒が全てきれいに洗い流されたような、そんな気分になれる。

 ことに今のような雨の日の翌日は、ガラス張りのビルに青い空と驚くほど真っ白な雲が映し出され、町を歩いているだけで大抵の人はすがすがしい気持ちになるだろう。


 絵心のない奴でも一つ調子に乗って絵筆を手に取りそうなこんな風景の中にも、四人五人は眉根に皺をよせた人が必ずいるものだ。

 ちょうど今も、バス停に向かってひたすらに歩き続ける者が一人、いた。


 眉の上で切りそろえた前髪は右に左にと遊んでいるが、彼女はそんなことを全く気にも留めていないようだ。


(なによなによ! わたしが悪いの!?)


 イライラという擬態語がよく似合う態度で、スタスタという擬音語が聞こえてきそうなほど一目散にヤナは歩道の上を歩いていた。


(約束やぶったニケちゃんが悪いんだから!!)


 前日の午後五時、クラスの役員であるヤナはようやくのことで役員会を終えた。


 会議の内容は今日の教員会合に候補生代表として同席するメンバーを首席の他に一人、クラス役員の中から選出するというもので、そんな会合になど興味のないヤナとしては全くに無味乾燥に感じられた。

 彼女はニケが教室で待っていてくれると信じたからこそ役員会を最後まで乗り切ることが出来たのだ。


 それなのに、教室に入るとニケの姿はどこにもなかった。

 始めのうちこそ「すぐに戻ってくるだろう」と余裕に構えていたのだが、二十分経った頃から嫌な予感がして、それから六時過ぎまで必死に学校中を探し回ったのだった。

 予想通りというか何というか、ニケは既に帰った後であった。


 いくら相手がニケでも、こうあっさりと約束を破られては──“約束”と言ってもヤナが一方的に押し付けただけで、ニケの方はうんともすんとも言っていないのだが──ヤナとしても怒りを感じざるを得なかった。


(みんなしてヤナをいじめて! ほんっっっとヒドい!!)


 ニケが“約束を破る”ことはままあったので、それだけなら彼女も何とか我慢できただろう。

 ただ、今回はそれだけではなかった。

 課題だかなんだか知らないが雨宮の隣にいた男は文句を言い始めるし、教室の人達は白い目で睨んでくるし、果てはあの弓月までもが彼女のことを無視した。ここまでされては誰だって多少は落ち込むだろう。

 「自戒」を知らないヤナならば尚更のことだ。


 苛々悶々としているうちに目的のバス停が見えてきた。この時間帯に帰りのバスに乗ったことはなかったためいつ到着するのか分からないが、長くても三十分程度時間を潰せば次のバスが来るだろう。


 肩に掛けた鞄をかつぎ直すと、少し後ろを歩いていた人に軽くぶつかってしまった。


「あ、ごめんなさい…」

「…チッ。」


 振り向くと、気の強そうな顔をした女がしかめっ面で立っていた。ぶつかったのは悪かったとは思うが、それにしたって一体何なのだこの態度は。


「…すみません……」

「ジャマ。」


 言うなりその勝ち気な女は再び歩きだし、肘でヤナを押し退けて前へと進んで行った。


(なによこいつ…!)


 朝方のことで思い詰めていたところにこんなふてぶてしい態度をとられて、ヤナは心底腹が立った。公の場で騒ぎを起こすことに躊躇いはあったものの、どうしても我慢できなかった。

 文句の一つでも言ってやる、と威勢良く足を踏み出し、彼女は口を開いた。そのとき

 声を発する前に、何かが聞こえた。



 ──操りなさい。



 その声に思わずヤナは立ち止まった。

 今、誰かが囁いた。タクトの“コンダクター”とも違う。頭脳に直接響くような感じではなく、確かに耳元から聞こえてきたのだ。

 近くには、誰もいない。どうやら空耳だったようだ。

 すっかり興の醒めてしまったヤナは、首を傾げながらも再び歩き始めた。

 前を歩いている女が同じバスに乗ったら嫌だな。などと考えていると、またしても声がした。



 ──この子を、操りなさい。



 空耳なんかじゃ、ない。確かに、誰かが自分に語りかけている。

 そう確信し、今度は道を駆けだした。この言葉には従わなければならない。そんな気がしたのだ。

 前の女は既に10メートルほど離れている。ヤナは大きな声で呼び止めた。


「ちょっと!!」


 相手は怪訝な顔をして振り向いた。道行く通行人たちも、何事かとこちらを見ている。

 袖をまくって近づいてくるヤナを認めると、女は再び舌打ちをした。


「何。」

「こっちは謝ったでしょ。そんな態度はないんじゃないの?」


 公衆の面前であるのでヤナも極力調子を抑えたつもりなのだが、この高飛車は人を見下す姿勢を改めなかった。


「私急いでるから。あんたみたいなのに構ってる暇は無い。」

「さっきからエラそうに…」

「黙れ。」


 何の警告もなく、女は伸ばした手でヤナの頬を掴んだ。

 瞬間、ヤナはあまりの熱さに意識が飛びそうになった。


「ツッ…!」

「火傷くらいで許してやるよ。」


 女の手とヤナの肌が接触している部分から、焦げ臭い煙が立ち始めた。

 周りの人々はひどく驚いた様子で事態を眺めていたが、通報する者は誰もいない。ヤナは無我夢中で相手の手首を掴み、必死の思いで掌に力を集中させた。


(早く……!)


「熱いか…?」

「はな…しなさい……」


 今にも発火しそうなその高熱のせいで上手く思考が纏まらなかったが、頬が焼け尽くされる前に何とかヤナは相手の支配に成功した。

 この気に食わない女は最後に言葉にならない声を漏らして、力なく腕を下げた。


「やった……」


 ぎりぎりのところで、この不届きな輩を征することが出来た。先ほどまで威圧を放っていた女は、今や目の光を失って呆然と佇んでいる。

 危なかった。もう少しで、頬に大きな火傷の痕が残るところだった。そっと頬を拭って、彼女はもう一度辺りを見回した。


 あの声は、何だったのだろう。すぐそばで女性の声を感じたのだが、一体誰が? なぜ、この女を操れと?

 とにかく自分を守るために意志を掌握してはみたものの、ここからどうすればよいのか、彼女には判断がつかなかった。本来ならば今すぐ神通川に飛び込ませてもいいのだが、どうしても先の声が気になって仕方なかった。


「誰なの…?」


 とりあえず声に出してみた。

 案の定、何も聞こえてはこない。ヤナも返事が得られるとはあまり期待していなかった。


 ただ、予想外だったのはその相手が姿を現したことだ。


「……。」


 その人が声の主という確証はなかったが、突然停留所の死角から現れた女性を見て、おそらくそうに違いないと直感した。

 彼女はあたかもずっと前からそこにいたかの様子で、警戒して立ちすくむヤナと自失して呆けた女の方に真っ直ぐ歩いてくる。


「あなたは……?」


 その女性には、どこか現実離れした雰囲気があった。

 今だって、足を動かしていながらも身体はまるで水平に滑るように移動している。


「お話は、あれの中でしましょう。ほら、出発しますよ。」


 指さす先に、ついさっき到着したばかりのバスが停まっていた。

 あれの中、ということはつまり人の大勢いるバスの車内で説明するつもりなのだろうか。

 こんな急な展開で困惑しつつも、ヤナは問いかけたくなる。あなたがこれからする話は、他人に聞かれてもいい話なのですか? 

 今も、見ず知らずの人々がじろじろとこちらの様子を窺っている。満員とまでは行かないにしろ、バスの中はここよりも人口密度が高いことくらいは分かるだろう。


「急がないと、日が暮れますよ。さあ、早く。」


 随分とせっかちな女性に手招きされて、ヤナも不安顔で乗り込んだ。

 一体この人は誰なのか、なぜこの女を操れと言ったのか、そもそも今ヤナの後から無表情に従ってくるこの女は、一体何者なのか。

 それらも当然気にはなるが、未だ事の重大さを分かっていないヤナにとって、目下の不安はそんなことよりこの奴隷のバス代を誰が払うことになるのか、という下らないことであった。







「間に合った…!」


 神通高校力学棟三階、L字型の廊下の中央部には、ちょっとした人だかりができていた。そこにいるものは皆、解放感に満ちあふれた表情をしている。

 例えば大川寺和麻。彼と雨宮は先刻、やっとのことで鬼の演習問題課題を終わらせることができたのだ。

 この人だかりは、その課題を根性でクリアした者達である。彼らは人体機構の課題を提出しに教員室の前に集まっていたのだ。


「間に合った、つっても期限は五時までだけどな。」

「フン。せっかくの午後放課だってのにンな時間まで残ってられるかよ。」


 レポート用紙が破れないように恭しく課題の山を積んだ後で、大川寺は恨みを込めて教員室の扉を蹴った。

 彼がこのような非行に走るからには当然教官は留守であり、今も部屋の電気は消えている。

 それもそのはずで、この神通高校の教員達は皆一週間前の事件を受けて今日の正午から会合を行うことになっていた。場所は確か港町だ。おそらくそこでは今後あのような事が起こらないための予防策が主に議論されるのだろう。


 まあ、講義が半日で終わるのならば理由など候補生達にとってはどうでも良いことだ。事件の当事者である雨宮ですらこんな感じなのだから、他の候補生ならなおのことだろう。


「間に合った、って言ってももうすぐ一時だけどね。」

「お、安城。」


 二人の間に割り込んできた安城が山積みの課題の頂上に紙の束を重ねた。

 三人ともこのままだと後続のものどもの妨げになるし、第一こんなところに長居する理由もないので誰からともなく廊下を渡り始めた。


「あれ?」

「ん、何?」

「安城、タクトは?」

「そうやって私からタクト君を連想するのやめてくれる?」


 割と本気で怒っている様子なので、雨宮は口を噤んだ。


「…今日はお父さんに呼ばれてるから、後で帰るんだ。」

「そうなのか。」

「おやまあ、残念だったな。雨宮君。」

「何だその目は大川寺。」

「お前の彼女はお父さんと一緒に帰るんだとよ。」

「「はあ……?」」


 大川寺はいつもこんな感じである。


「これで弓月と同じ中学なのは納得いかないな」

「いやその理屈はおかしい」



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