帰宅〈小雨〉
勢いよく玄関の扉が開かれたかと思ったら、息を切らした彼の妹が家の中に飛び込んできた。
まだ秋も中旬であるというのに彼女は黒いコートを羽織っており、見ている側も少し暑さを感じてしまう。実際彼女の額はうっすらと汗ばんでいた。
「お前、暑くないのか? そんな格好して。」
しかし彼女は兄の忠告を無視し、ゆっくりと家の中を見回した。その様子はまるで、部屋の中から探し人が飛び出してくるのを期待しているような、そんな感じだった。
「ここが…?」
「そ。表札見たろ? 今は学校に行ってていないけどな。」
「学校……」
彼女は、学校というものの存在をうっかりしていたようだった。彼女自身そんなところに通った記憶がないので仕方ないと言えば確かにそうなのだが、学校がなくたって一日中相手が家にいるとは限らないだろう。
「お前の二つ下なんだろ? その弓月千晴ってのは。」
「……。」
「だったら、この秋からはれて新規候補生ってわけだ。」
「…そうか。そうだね。」
兄である彼でさえ、彼女のそんな嬉しそうな顔を見るのは初めてだった。
彼自身が、兄である前に上司、でなかったとしたら、上からの通達を隠したままにしていたかもしれない。
「……そんなお前にバッドニュースだ、レイナ。」
レイナという名のその女は、その言葉に怪訝な顔をした。ようやく弓月千晴に会えるというのに、このタイミングで悪い知らせとは、何とも縁起が悪い。彼女は身構えた。
「何?」
「クラス・ノートの任務が更新された。」
彼は説明を始めた。彼らの所属する“クラス・ノート”が、二人の人物を排除しようとしていること。そのために組織の精鋭がここに集まり始めていること。それまでに少し時間がかかるので、その間に彼ら二人は対象の周辺を詳しく調査・分析するように通達されたこと、など。
排除の対象となった人物の名前を聞いて、レイナは恐れ慄いた。
「そんな……。」
先ほどまで期待しすぎて落ち着かない様子だったのに、今では一転して助けを懇願するかのような表情となってしまっていた。
無理もない。長い間生き別れていた人にもうすぐ会えるかと思いきや、会ったそばから相手を抹殺しなければならなくなったのだから。
そんな彼女の様子があまりにも惨めで、兄としてはどうしても救いの手を差し伸べざるを得なくなった。
「方法は、ある。」
「……方法?」
「説得するんだ。そうしてこちら側に引き込んでしまえばいい。」
彼の言わんとしていることが、レイナには伝わったようだ。半分安堵、半分懐疑の心境を表情に表していた。
「“ノート”が、それを許してくれるかな。」
「さあな。けどあいつらは味方にすれば心強い、ってのも確かだ。何とかなるだろ。」
実際にうまくいくのかは分からないが、とにかくやってみるしかない。いざとなれば、クラス・ノートに対して実力で反抗してもいい。彼女には、それほどの信念があった。
「とりあえず、座って待ってろよ」と兄が言うので、彼女は部屋に入って縁側に腰掛けた。
高校の活動がいつ終わるのかは不明だが、今はまだ昼の十一時。まだまだ時間がかかることくらいは彼女にも分かった。この家まで全力で向かってきたのだ。彼女はとても眠たかった。「千晴が来たら起こして」と言い残して、彼女は柱に身を寄せて目を閉じた。
しとしとと小降りだった雨が、さきほどから少しずつ強くなってきていた。一応弓月は雨合羽を持ってきてはいたものの、それを着るためにわざわざ自転車を止めるのも億劫なので、そのまま帰路を急ぐことにした。
自転車を漕ぎ続けるごとに視界が広くなっていき、彼女は郊外の田舎へと進んでいった。
やがて一軒の民家の前にたどり着き、彼女は自転車を降りた。納屋に自転車を押していき、いつも通り、いや雨が降っていたのでいつもより急いではいたが、家の前の畑を迂回しながら彼女は玄関へと向かっていった。
家の中から怒鳴り声が聞こえてきたのは、引き戸に手をかけたときだった。
(父さん…?)
くぐもっていてなんと言っているのかは分からないが、この野太い声は間違いなく彼女の育ての父親のものだった。
おそるおそる玄関を開けると、同時にその父親が足を踏みならして居間から進み出てきた。少し遅れて、後ろから弓月の知らない男が現れた。彼女の父親の剣幕に圧された格好で、あまり彼に近づこうとしない。
父親は二階に、男は玄関に向かおうとしたが、最後に捨て台詞を吐こうとした父と、正体不明のその男が同時に弓月の存在に気づき、二人の動きが一時的に止まった。
「おう、帰ったか。」
弓月の父はいつものように声をかけてきたが、明らかにそこには戸惑いと不安が見え隠れしていた。
彼は弓月を家に迎え入れるのが先か、そこの目障りな男を追い払うのが先か少し悩んでいるようだったが、彼が行動するよりも早く、不審な男が口を開いた。
「お帰り。待ってたぜ。」
こうもふてぶてしい態度をとられては、家主としてすぐにでも消えてほしいと思うのは当たり前だろう。
その上、実はこの男、彼と彼の妻が役所から帰ってきたときに、呼ばれてもいないのに勝手に家の中に上がり込んでいたのだった。これではもはや激昂するなという方に無理がある。
「何が待ってただ! 今すぐ失せろ!!」
「分かってますよ。こちらも用事があるので。」
「貴様だけじゃない! 縁側で寝ているあの女もだ。」
「…あいつはそこの彼女に用事があるので。」
「わ、私?」
突然指名されて、弓月は少なからず驚いた。
彼女の父とその男はすでに何度もこのやりとりを繰り返してきたのだろう。男の方はいい加減もう言い飽きた様子だったし、父も表情を見る限りもはや諦めてしまっているようだった。
「だったらその用事とやらをさっさと終わらせて、一刻も早く出て行け!」
「ま、そう言い聞かせてはありますよ。一応ね。」
「あの、用事って…?」
男はこちらを向いた。声は若々しかったが、正面から見れば三十代前半であるように思えた。
黒の開襟シャツの上から鼠色のパーカーを羽織っており、胸元で銀色に輝くネックレスが目を引きつける。彼は居間の向こうを顎で指した。
「あそこで待ってる、レイナと話してみるといい。」
「一体、何の…」
「……君にとっても、悪い話じゃないはずだ。」
「?」
「なにをぐずぐすしている!? さっさと帰れ!!」
とうとう父の堪忍袋の緒が切れた。憤怒の形相で階段を下りてくる彼を見てさすがにまずいと感じたのか、男は玄関への道を急いだ。
「じゃ僕はこれで。…もう片方に会いに行く前に、やることがあるんでね。」
玄関でなおざりに靴を履いて、去り際にうんざりした様子でそう言い残し、男は外へと姿を消した。あの男がちゃんと靴を脱いで家に上がっていたことに、弓月はとりあえずほっとする。
だが彼女の父親は、ほっとするのとはほど遠そうだった。男を追い払ったその足で弓月に歩み寄ると、彼女の肩を掴み、哀願するように語りかけた。
「あいつらが何を言おうと、お前はこのうちの子だ。」
「父さん?」
「あの女が何を言うつもりなのかは知らないが、絶対にたぶらかされるなよ。」
「今の人は…?」
「あいつらの言うことは、全部デタラメだ。いいな。」
その迫力に気圧されて思わず弓月は頷いた。それを見て安心したわけではないのだろうが、彼は階段を上って自室に引きこもってしまった。あの扉の閉め方から察するに、しばらくは出てこないつもりなのだろう。
自分の父が何を心配しているのか、それだけは分かった。だがなぜ今になってそれを心配し始めるのか。あの男が、そしてレイナという名の女が、その原因なのだろうか。
両親は自分のことを単なる孤児で、しかも自分自身が孤児であることに気づいていないと思っている。それがあんな風に狼狽えているというのは、彼らにとっての事実であるその事柄を打ち崩すだけの何かを、レイナは持っている、ということになる。
会おうと思えば、そこの扉を開けてすぐにでも会うことはできる。しかしどうしても心の準備ができなかった。焦る必要が、あるのだろうか? 判断はつかなかったが、とりあえず彼女は着替えるために自室へと向かった。