最初の四時間
夜中の十一時。住宅街から川に沿って山麓のさらに奥へと進み入る一台の車の中に、安城泰明は乗り込んでいた。
この時代このような高級車は大抵が誘導システムを備えており、その自動車も例にもれず運転席は空いたままだ。
ここを通るのは、初めてではない。だがそう頻繁に通うような所でもなかった。
この道をあと十分ほど進んだ所にある木々に囲まれた開発所に、彼は用があった。
今日の昼間──まだ「今日」であることを、つい時計で確認してしまう──東高廣から彼のもとに連絡が入ったのだ。
ついにマトリックスの開発に成功した、と。
マトリックス誕生の報せを受け取ってから、いかにして人格の信号化に成功したのか、その絡繰りを目の当たりにするのが楽しみでならなかった。
ではなぜ昼間からこんなにも時間をおいて実証実験を始めるのか。
それには理由がある。
彼が今向かっている開発所。そこは東工学研究所でも、常願寺工学センターの所有物でもない。マトリックスの開発に携わったもう一つの研究機関。
その名も、“ディファレンシス”。
そこが有する超性能のシミュレーションシステムが、今回の検証にはどうしても必要だった。
マトリックスという装置は、理論上は人体に影響を及ぼさない。そのことを臨床試験で確認する前段階として、ディファレンシスを訪れるのだ。
そして。ここが厄介なのだが、“ディファレンシス”の活動時間は非常に短かった。その日の十二時からたったの四時間だけ活動し、残りは常に休止状態にあるのである。
故に、彼らは日の変わり目がくるまで待たねばならなかった。
時間はたっぷりあったとはいえ、直前になって仕事が入ってくるのは避けたかったからこそ、今日泰明は珍しく休暇を取って自宅に戻っていたのだ。つまりそれだけ期待が高まっている、ということである。
まあ、久しぶりに一家団欒して食卓を囲みたかったからという理由も、無いではない。
こちらを認識して、開発所の鉄門が独りでに開いた。その大きな門の下をくぐり、順路に従って来賓用の駐車場に向かい、停まる。
途中の道のりは狭くて曲がり角が多く、一つ間違えれば立派な車体が壁と触れ合うところだが、彼の車は至って無傷だった。駐車した車の扉が外に開き、泰明はようやく“ディファレンシス”の敷地に降り立った。
念のために言っておくと、降りる動作以外は全て彼の自家用車が行ったことである。人は一切操作する必要なし。まさに“自動の車”だ。
「お忙しいところ、ようこそ。“ディファレンシス”へ。」
突然のその声に、泰明はつい背後の闇を振り向いてしまう。
ここに来る度こんな風な挨拶をされるので別段驚きはしなかったが、何もないところから声が聞こえてくるのは何度来ても慣れない感覚だった。
「今晩は。皆さんはFT区間ですかな。」
「いいえ。」
ここで集まるときはいつも“FT区間”という場所を利用していた。だから彼は眉を顰めた。目の前に白衣を着た女性がテレポートしてきたことなど何の不思議でもなく、いつもと集合場所が異なることの方がよっぽど疑問だった。
「今日は“ZF”に向かって貰います。」
「いつもと違うね?」
「これまでと違って、今回は人体そのもの及び個体間の相互干渉を予測計算します。そのためにはFTでは不十分です。」
時間が惜しいとでもいうように、彼女は少し離れたところに移動した。
すでに彼女と泰明の間は6, 7メートルほど離れている。
と言っても彼女が歩いて行くのを泰明はただ眺めていた、というわけではない。
言葉を終えるや否や瞬間移動されたのだ。生身の人間がその動きについていけないのは至極当然のことだった。
泰明がそこまで歩いていき、彼女の方も今度はまともに足を動かしはじめた。
前回会ったときと同じく後ろで丸く束ねた髪には艶があったし、とくに疲れて猫背になっていることもない。だが彼女は泰明の先に立って歩きながら、眠たそうに欠伸をした。
「寝てないのかい?」
「そういう訳ではないのですが……」
今回のシミュレーション実験は、彼女の頭脳無しでは成り立たない。もしも睡眠不足で普段の能力が発揮できないというのなら、泰明と東高廣は彼女が再び二十時間の睡眠をとり終えるのを手をこまねいて待っているよりなかった。
彼女の方もそれは重々承知しているようで、申し訳なさそうな顔をこちらに向けてきた。
「ただ心配事が……」
「心配事?」
「風の報せ、とでも言うのでしょうか。いやな予感がして寝付きが悪くて」
「予感。どんな」
「いえ……」
人工知能にも寝付きの良し悪しがあるというのはちょっとした発見だ。
女性は僅かに言葉を濁した。そして彼女は本題を見据え、再び歩き出した。
「今はマトリックスが先です」
そう言われては泰明も後に続くしかない。それでも、こちらに背を向けて歩きながら彼女は、「無理をするしかないようですね……」と続けた。
もちろん彼女の体調は心配だし、その“予感”というのも気にはなる。しかし泰明はそんなことには構っていられなかった。
──ここからが彼女の仕事。“最初の人工知能”たるガイアの正念場であるのだから。