東工学研究所
秀介パパの名前は〈アズマタカヒロ〉と読むのです。
「あれ、秀介君。お友達?」
東秀介の後ろについて研究所のエントランスをぬけると、作業服を着た三十くらいの男が話しかけてきた。おそらくここの技術者なのだろう。彼は右手に図面の束を持っており、胸には「宮田」と刺繍されていた。
「なに通りすがりの学友ですよ。」
「そうかい。どうも、はじめまして。」
そう言って彼は雨宮と安城のほうに空いている左手を差し出した。
「僕はここの技術・研究員の宮田大樹です。」
「安城です。」
「雨宮です。」
二人と交互に握手を交わした宮田は、少しはっとした表情で東に顔を向けた。
「安城に、雨宮。この子達はもしかして…」
「そうです。こちらは四日前の事件で大怪我を負った雨宮透さん。そしてこちらは不幸にも敵の人質となってしまった安城由羽さんですよ。」
安城の名前を言うとき彼は若干の棘を言葉に含ませたのだが、宮田はただ同情の言葉を二人にかけただけだった。
「二人とも、大変だっただろう。…君は安城さんの…?」
「あ、はい。安城泰明は私の父です。」
「…そうか、やっぱり……。」
宮田はおもむろに遠い目をした。まるで昔を懐かしむかのように。
「?」
「……ああ、ごめんごめん。つい昔のことを思い出しちゃって。」
「昔のこと?」
「こんなこと言ったら東先生に『若いもんが懐古に走るとはけしからん!』って怒られちゃうな。」
いかにも参ったといった様子で彼は頭をかいた。一時的にでも会話の軸が自分からそれたのが気に入らなかったのか、そのとき東が間髪いれずに口を挟んだ。
「宮田さん。僕は彼女らにここの素晴らしさを今から教えて参りますので、失礼します。」
「ああ。よろしく。仲良くするんだよ。」
軽く手をあげて別れを告げた後、宮田は製図室に消えていった。
東たち三人はしばらく廊下を進み、ついに突き当たりにある研究室らしき部屋の前にたどり着いた。その扉を開けるのかと二人は期待したのだが、東はただ壁の何もないところに手を当てただけだった。
「? 入らないのか?」
変化が起こったのは、雨宮が言い終えるのと同時だった。彼らの右側に広がるベージュの背景、向こう数十メートルにわたるその壁が一瞬にして視界から消失したのだ。
「おお…!」
「ふふ。こんなもの、今時大した技術ではない。」
そう言う東はすでに誇らしげだ。透明になった壁の向こうには、正体不明の機器の間を行ったり来たりする人々の姿が見えていた。
その前で東は右へ左へと練り歩きながら声高に演説しはじめた。
「君達には、これが一体何をしているのか分かるかね?」
「さあ……。」
「それは完全には分からないだろう。だが何となく感じるものはあるはずだ。」
「何も。」
「何も、だと? まさか安城由羽、貴様もか?」
「うん。」
「二人そろってなんたることか! これが私の学友であると思うと本当に恥ずかしい。」
「こらえろ安城。こいつはいつもこんな感じだろ?」
「候補生ならばあのNMRやMS分析機を応用転化した機材を見ただけで雰囲気くらいは分かりそうなものだが……。」
「そうか?」
「やはり普段の講義すら真面目に取り組めない者にはこれが限界か。」
「だめだよ透くん。ここは抑えて。」
「ふうっ。仕方あるまい。ならばこの東秀介直々にレクチャーをしてやろう!」
Going My Wayな東秀介は二人の気分などお構いなしに研究の解説を始めた。
「雨宮透! 貴様はあの“グール”の威力、身をもって体感しただろう。」
「それが?」
「私の背後、この共通第十一ラボではな、グールの前身である“マトリックス”の開発が、今まさに行われているのだ!」
雨宮は思わず一歩詰め寄った。
「『グールの前身』!?」
「そう。グールは人工知能の意識を人に植え付けるが、こちらは逆に人の精神的特徴を機械にインプットするというスグレモノだ。」
「そんな…!」
「勘違いするな。マトリックスは個人と同一のキャラクターを持ったアンドロイドを生み出すだけで、人の身には一切影響しない。…どうやら去りゆく人が現世に自分の存在を残したい、ということで少なからぬ需要はあるようだな。」
「自分を、残す……」
安城はその言葉を繰り返した。まもなく朽ち果てていく肉体から、ほぼ永久に維持される無機物へと自分の性格をシフトさせる。
たとえ自我そのものは滅びていっても、遺された分身が別の人生を歩んでくれればそれが本望。そういうことだろうか?
「グールのように人工の知能を生身の脳に刷り込むのとは違って、人の性格を信号化するというのは思いのほか困難でな。まだ完成には至っていない。」
「……。」
「マトリックスよりもグールのほうが先に開発されたというのは、まことに無念なことだ。」
「……。」
「だがこれさえ完成すれば、グールによる汚名を返上することができる!! ヴィーナスどもに汚された東家の名誉あいたっ!?」
「馬鹿者! 喋りすぎだ!!」
後頭部を殴られた東が後ろを向くと、眼鏡をかけた男がそこに立っていた。
「お、お父様…!」
「極秘内容をべらべらと!!」
東秀介と大差ない背丈のその男は、どうやら彼の父親らしい。こちらは宮田とは違って白衣姿だが、その胸にある名札には「所長:東高廣」という文字がはっきりと刻まれていた。
「秀介! 見学通路は向こうだ。こんなところに部外者を連れてくるんじゃない!」
「ひいっ!!」
どら息子をこっぴどく諫めて、それから彼は見学者二人のほうを向いた。
雨宮と安城は演説する秀介の後ろから東高廣が鬼の形相で接近してくるのに先ほどから気づいており、それ故に一転してびくびくしはじめた秀介を見て笑いを堪えるのがやっとというありさまだった。
しかしさすがにこの状況でにやにやしているわけにもいかない。二人とも気を引き締めた。
「見たところ、秀介と同年代かな?」
「はい。僕たちも新規候補生です。」
「そうか。どうかこの秀介と仲良くしてやってくれ。」
そう言って彼は息子の頭をぐいと押し下げた。あの東秀介が、されるがままに頭を垂れている様は本当に傑作と言わざるを得ない。先ほどまで怒りを堪えていたかと思ったら、今度は吹き出さないように気をつけなければならないとは。全くもって忙しい。
何はともあれ二人はまだ名乗っていなかったので、簡単に自己紹介をすませた。それが終わると東高廣は目を丸くした。
「安城というと、あの……」
やはり彼も神通支部長の名を連想したのだろう。安城は少し身構えた。子供のほうが支部長令嬢をあれほど目の敵にしてくるのだから、その親も…?
しかし東高廣の反応は穏やかなものだった。
「泰明さんの娘さんは確か狙撃の名手だとか。」
「えっと……。」
「やはりお母様の影響かな?」
「は、はい! 銃の扱いは母に教えてもらって…」
彼女の母、安城優香は若い頃から射撃を得意としていたらしい。射撃といってもライフルだけでなくピストル、アーチェリー、弓など、とにかく狙って撃つ競技を好んでいる。その実力は折り紙付きで、本人がその気になればオリンピック出場も難しくないと言われるほどである。
その娘である安城由羽も母親から指導を受けており、特にライフルにおいては安城優香をも凌ぐとされている、らしい。雨宮や秀介はその安城優香の実力というのを知らないので何とも言えないが。
「そうかいそうかい。全く、うちのどら息子にも見習ってほしいものですなあ。」
「そうですね。」
「君、宮田君にはもう会ったかな?」
「宮田大樹さんですか? 会いましたけど…?」
「彼は昔君のお母様にお世話になってね。」
「お母さんに?」
「というより、君の叔母さん、お母様の妹さんと親しかったというほうが正確かな。」
「え……」
それを聞いたとたん、彼女は明らかに困惑した表情を見せた。
「お母さんに妹なんて……」
「?」
雨宮と秀介の二人は顔を見合わせた。妹がいない? それなら秀介の父親が言っていることは一体何なのだ?
だが東高廣のほうはといえば混乱した様子もなく、いやむしろ納得した感じだった。
「ああ、今は、いない。だけど、昔はいたんだ。」
「……。」
「君はこのことを知らされていないんだね?」
「どういう……」
「…どうやら私も喋りすぎたみたいだ。お母様が言わないのなら、私に言えることはなにもない。……秀介。」
急に名前を呼ばれて、秀介は背筋を伸ばした。彼の父親は安城を手のひらで指し示しながら息子に指示を出した。
「折角来てもらったんだ。安城さんを正規の見学ルートにお連れしなさい。」
「は、はい。」
「あの泰明さんの娘御さんだ。学べるところからは何でも学ぶだろう。ちゃんとエスコートするんだぞ?」
謙遜する安城をどうぞどうぞと促しながら、彼は秀介を前に立たせた。あの元気はどこへやら、今の秀介の猫背がとても惨めだ。
とりあえず雨宮も二人の後に続いて歩き始めた。“マトリックス”なるモノの存在は衝撃的だったが、この研究所にはもっと彼の想像を超える、とんでもない技術が存在するのかもしれない。
そんなものがあるのなら、是非ともこの目で見させてもらおうとラボの前を通り過ぎようとしたとき、何者かに肩をつかまれた。
びくっとして振り向くと、彼のすぐ後ろで東高廣が目をギラつかせていた。
「君は待ちなさい。」
「ぼぼぼ僕が何か!?」
なにも身に覚えのない雨宮はすさまじく狼狽えた。
先を進んでいた二人も何事かとこちらを見ている。東高廣は彼の肩をがっしりと掴んだまま話し始めた。
「君は雨宮と言ったね?」
「そそ、そうですが?」
「全身が白金剛に置き換わった、あの?」
「しろこんごう……あっ。」
この男の目的が何となく分かった。と同時に彼は身の危険を直感した。
これはヤバい。
「私が極秘のうちに開発した白金剛……。まさかその製法が流出していたとは。」
「わ、わたくしのせいではございませんですが!?」
「分かっている。…しかし人体にあの白金剛が同化するなど……。少し調べさせてくれ。」
「少し……」
「既存の薬物が有効かどうか、流動モザイクモデルは消失したのか、体内の構造タンパク質はどうなったのか、ATPやアセチルCoA、DNAは?TCA回路は…? 本来なら一週間以上かかるところだが、今のところは一晩で我慢しておこう。」
「そんな……」
「週末また来てくれ。」
「ひえええぇっ!!」
「あの」
少し不安げに、安城が口を挟んだ。
「彼、病み上がりなんです。あんまり無理はさせないでください。」
「安城…!」
普段はやかましい安城も、今の雨宮には女神か何かのように見えた。不覚にも雨宮は少し感激してしまった。
「週末また来させますから。」
「やめろォ!!」
「ウーム。仕方ない。では今日はゆっくりしていってくれたまえ。」
なんとか解放された雨宮は、前の二人のほうに少しよろめいた。彼は何か言おうとしたが、なにをどう言えばいいのか分からなかった。
東高廣がラボの中に去っていった後で、安城のほうから彼に声をかけてきた。
「大丈夫?」
「週末……また……」
「しかたないしかたない。」
「お前、まだ、根に持って……」
「?」
てっきり雨宮は、安城が泣かされた腹いせにあんなことを言い出したのかと思ったのだが、彼女はただきょとんとしただけだった。
「あの場では、ああ言うしかなかったでしょ?」
「え?」
「だいじょーぶ。来なきゃこっちのものなんだから。」
というと、彼女はあの場を切り抜けるために妥協する振りをしてみたということなのか?
確かに冷静に考えてみれば全くもってその通りだ。泣かせたことをいまだに引け目に感じている雨宮は、どうやら事を悪い方に捉えてしまっているようだ。
「お前ってツンデレ要素あったのな……。」
「なんか違うと思う。」
「なにを話している、二人とも。早く来たまえ。」
少ししびれを切らした東が左腕を振って二人を招き寄せていた。言葉こそ高飛車なままだったが、なんというか覇気がなかった。
三人は正規のルートに向かうために再びエントランスの方へと進んでいった。エントランスに近づいた頃、製図室から数人の同僚と出てきた宮田を見かけた。
安城は話しかけようと少し立ち止まったが、忙しそうだったので諦めるほかなかった。宮田はそのまま共通第十一ラボに小走りで向かっている。
自分の叔母というのは、一体どんな人だったのだろう? 宮田に聞けばそれが分かるのだろうか? そんな疑問に後ろ髪を引かれる思いで、安城は再び歩き始めた。
マトリックスの開発も、そろそろ佳境に入り始めている。
この研究の最大の難関は個人の性格をデジタル化するという、その一点だ。逆に言うとそれさえクリアしてしまえば他はそれほど難しくない。
すっかり夜も深くなったころ、宮田は東工学研究所の外の芝生でベンチに腰掛けていた。
今も昔も、研究所というのは周りに申し訳程度の緑を持つものだ。人工物が勝手に動き出すような時代になっても、いや、なったからこそ、こういった自然に人間というのは惹かれていくものなのかもしれない。
「ここは昔と変わらないな、宮田。」
彼の隣にはこの研究所の所長である東高廣が座っていた。
所長と単なる技術員、その差を考えればこうして並んで星空を眺めているのは何とも不思議な感じだが、二人ともここではマトリックスの開発に取り組むチームの仲間。チームメイトに遠慮は無用だった。
「昔はこうして夜空を眺めたりはしませんでしたけどね。」
「まあ、そうだな。夜中に高校生を敷地に入れるのはさすがにまずい。」
「今日は候補生が二人も来ましたが?」
「……所長権限だ。」
何とも決まり悪そうに東は背もたれに寄りかかった。しばらくして彼はおもむろに口を開いた。
「今日は風香さんの姪御さんが来てたな。」
「……。」
「風香さんのこと、話したのか?」
宮田は何も言わなかった。彼は雲間に覗く星明かりをぼんやりと見つめながらも、遠い昔に思いを馳せていた。
少しすました、だけど姉に似てスポーツの得意な子だった。彼女達の母親が、ここの前身である「不二工業」に勤めていたから、宮田は時々彼女に連れられてその工場の見学に来ていた。
新しい技術が開発されるたび「企業秘密だから他には内緒ね」と言いながら自分たちを誘ってくれた彼女の母親や、その新技術に触れるごとに「へーっ」「ふーん」「ほほう」と呑気に感心していた彼女の顔が、今でもはっきりと思い出せる。
男が大半を占めるあの工場では女性が、特にあんなふうに髪を染めた女子高生が珍しかったのか、見学中に通路で職員とすれ違うたび「お?お?工場デートか?」とか「見せつけるねぇ」とか言われていた。あれは本当にやめてほしかった。
そういえば、そういうときにもう帰ろうと自分が言い出すと、決まって彼女は「あとちょっと」と言ってなかなか帰してくれなかったような気がする。あのときの少し照れたような顔も、生まれたばかりの安城由羽を見て「わあ、わたし叔母さんになっちゃったんだ!」と言ったときの輝いた笑顔も、今ではとても懐かしい。
「優香さんも、あの子にはなにも話していないらしい。」
「……。」
「どうする?」
「どう、とは…」
「話すのか?」
彼女は、朝倉風香は、当時にしては珍しく人工知能を一つの生命として捉えていた者の一人だった。今よりももっと人工知能が忌避されていた時代に、彼女は彼らと対等に付き合おうとしていたのだ。
当時の技術ではまだ現在ほどの性能は彼らにはなかったものの、彼女の家で飼っていた動物型の“アニマロイド”たちは彼女によくなついていた。そして彼女もまた彼らととても親しかった。
だからこそ、彼女は死んだのだ。
彼らの仇をとるために。
彼自身、このことを安城由羽に話すのには何の抵抗もなかった。
むしろ話した方がよいのではないかと思う。だがもし安城優香が、彼女の姉が風香の死を忘れようとしているのなら、やはり黙っているべきなのだろうか。だけど
──私を、忘れないで。
そう言い遺して彼女は死んでいったのだ。宮田にはどうすればいいのか分からなかった。短い間とはいえあんなに可愛がってくれた人のことを、あの子は知らないままでいいのだろうか……
…風香。
俺は、どうすればいい?
あの時赤ちゃんだった子が、今日ここへ来たんだ。
風香、もう一度、会いたくないか?
君のお姉さんに似て、活発そうな子だったよ。
……風香、
今頃───
「まあ、なんにせよ、」
隣で東高廣が立ち上がり、宮田は我に返った。東は大きく伸びをして、彼の方を見ずに言った。
「あの子と会わないことには、何にもならないな。」
「……そう、ですね。」
「雨宮君をここに連れてくるとか言ってたけど、嘘だな。あれは。」
後は何も言わずに、東は研究所の方へと歩いていった。
宮田はそのとき一人になりたいような、誰かに話を聞いてほしいような、そんな複雑な気分だったが、東が自分の家に帰った以上ここにいても仕方なかった。思い出でぼんやりとしつつも、彼は自分の車を取りに駐車場へ向かった。