侵喰
彼は両腕を塞がれてもなお、白旗を揚げることはなかった。その赤い瞳はじっとヤナの方を見上げていた。
「いまこいつは俺の両腕を押さえているんだ。またとないチャンスだぞ?」
「何、を……」
言いつつも、ヤナは歩みを止めていた。この男が何を言わんとしているか、その意味に気づいたのだ。
「ニケが手を離そうものなら、俺が暴れてやるよ」
「タクト、お前……!」
「さあどうしたヤナ。来ないのか? ……これまで好きなときに好きなだけ他の奴らを従わせてきた君のことだ。こいつに初めて会ったときはさぞ悔しかったことだろう……」
彼女がどうしてもその手に出来なかった女が、今、両手で相手を組み伏せている。確かに彼の言うとおり、こんな機会は今後一生無いかも知れない。
「ヤナ……!」
ニケは驚いて顔を上げた。
これが他の相手ならば、二人がかりで来たところで何の問題もなかっただろう。だが触れただけでゲームオーバーとなるヤナの能力は、この状況では最も危険だった。
ヤナは再び進み始めた。その目は月明かりのように儚く、赤い光を放っていた。
彼女が近づいてくるのを、ニケは歯を食いしばって見ていた。
だが一方でタクトはといえば、一切勝ち誇った様子を見せてはいなかった。
「フ……。だめか……」
彼の手前にすっと屈んだかと思うと、ヤナは相手の額に手を触れた。
「……悪いけどわたし、手段を選ばないタイプじゃないの」
ふっ……と、タクトの目から光が消えた。
「それに、ニケちゃんはそういう裏切りが一番嫌いなの」
「ヤナ……」
ニケはタクトから手を離し、ヤナの顔を見た。見られているのに気づいた彼女は、照れくさそうに微笑んだ。
「これで一段落ね、ニケ…」
「ありがとう、ヤナ。よくやってくれた」
ニケとしては当然の労いのつもりだったのだが、ヤナは過剰に反応した。はっと息をのんだ口を両手で押さえると、その目がとたんに感激で打ち震えはじめた。
「ツンデレニケちゃんが、デレた……」
「誰がツンデレだ」
「これは……チャンス!!」
彼女は期待に目を輝かせながら、がばっと腕を広げた。
「さ、さあニケちゃん! ごほうびにっ……!!」
いざ抱擁を! と彼女が立ち上がりかけたとき、ガシャンと大きな音がしてニケの銃身に弾が装填された。
「ちょちょちょっと! ニケちゃん!? それ反則!!」
「奴隷になどされてたまるか」
「ど、奴隷だなんて! 他はともかくニケちゃんだけは大切にしてあげるんだから!」
「あ……」
「そのツンツンした性格を、ヤナが……? どうしたの?」
ヤナの抗議を無視して、急に上の方に顔を向けたのだ。しばらくそのままでいたかと思うと、突然声を発した。
「終わった」
「え?」
「弓月が安城を解放した……」
「ハルさんが!? ……無事だったんだ、良かった……」
ニケには全て聞こえていた。先ほどから弓月が敵を蹴散らしていたのも分かっていたし、今の痛々しい叫びも、聞こえた。
(弓月……)
ニケは立ち上がった。
しかし、上に行こうとはしなかった。今の弓月に、一体何と声をかければよいのだろう? 彼女にできることは、何もなかった。
「ヒトを相手に傷を負うとは、不覚……!」
トウルは夜中の街道を歩いていた。ついさっき倒した相手がつけた傷を片手で押さえながら。
彼の堅牢な甲冑は左腹部に大きな穴が空き、浅いながらも細長い傷が、彼の腹を真一文字に横切っていた。
ユピテルではできる限り人を殺さないよう命令されている。それさえなければすぐにカタがついたものを……。しかしそれは終わったことだ。とにかく今はタクトの支援に向かうよりない。
しばらく進むと右の角から人がふらふらと走ってくるのが見えた。
「あの服装、候補生か」
だとすると面倒だった。安城由羽を助けにゆくのならば、ここで止めなければならない。
いまやその男も彼の巨体に気づき、荒い息を吐きながら焦点の定まっていない目を向けてきた。これならば手負いの自分でもわりかし楽に倒せるだろう。軽く拳を握った。
「すまんが少々痛い目を見てもらうぞ。」
そう言って彼は手を振った。
彼の巨大な腕に当てられた候補生は呆気なく飛んでいき、地面に激突した。
だが次の瞬間、奴は全く応えていない様子で起きあがったのだ。トウルは右手に残る感触から確信した。
「貴様、報告にあった攻撃が効かないという……候補生の身なりなぞしおって……」
奴は呻り声をあげながらこちらに近づいてきていた。トウルは今度は拳を固く握りしめた。
「人でないというのなら手加減はせん。その鎧もろとも死ね!」
彼は大きく腕を振り下ろした。
奴が腕を構えて受け止めると、その場に大きなクレーターが生じた。
だが奴は死んでいなかった。
構えた腕から右手を下げ、トウルの腹の傷に突っ込んだ。彼は強烈な痛みに叫びをあげた。
「うがああああああっ!」
そしてトウルは倒れた。その巨体に押しつぶされまいと奴は足を踏ん張ったが、そのときその右腕が、トウルの 蓄電器官に触れた……
体中に走ったすさまじい電流で、彼は目が覚めた。見ると地には大男が倒れ、彼の腕はその男の左腹に刺さっていた。
ここは一体どこだろう? なぜ自分はここにいるのだろう?
右腕を奴の腹から抜いて、彼はぼんやりとした頭で考えてみた。
そうか、これは夢か。夢ならば何も不思議はない。そう結論した彼は、再び襲ってきた眠気にあらがうこともなくその身を委ねたのだった………