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叔父のトランク  作者: 山和平
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あるいは闇の囁き

夜刀浦を舞台にした短編です。


 夏の暑い日だった。

 大学の長期休暇を利用して、私は千葉県夜刀浦に居を構える一人の老人を訪ねる事になっていた。

 新幹線とローカル線を乗り継いで丸一日かけての汗をかきながらの移動。

 私の手荷物は、先月急死した叔父の遺品である黒い革張りの少々古ぼけたトランクだけだった。


 若い頃一山当てた叔父は、四十を越えても結婚もせずに蒐集の道楽に勤しんでいた。

 収入は不動産の賃貸で、それも細かい部分は人に任せて自分はほとんど遊び歩いていたようだ。

 親戚付き合いも希薄で、そんな叔父を非難する親類も多かった。

 そんな中で、なぜか私だけが気に入られて可愛がられていた。

 大学を少しでも首都圏をと選んだのは叔父の勧めもあったからだ。私が住むアパートも叔父の持ち家で、管理人として家賃無しで住まわせて貰っていた。

 進学祝いで、未成年お断りの場所に連れていかれたのも、今となっては良い思い出だ。  

 昭和の芸人は呑む・打つ・買うの三拍子と言ったそうだが、遊び人の叔父も酒と女は絶えた事が無かった。

 会いに行く度に横に違う女性が居る事にも、最初は顔が引き攣ったがすぐに慣れた。

 若い私から見ても伊達男然としており、チンピラのようなキンキラの派手さではなく銀幕の渋いスターのような印象で、格好良い大人だと思ったものだ。

 そんな叔父にとって博打代わりの道楽が蒐集だったと言う感じだ。

 もっとも、骨董の蒐集は博打よりも性質が悪い事があるのだが。数十万、数百万の値段の物が数千円の価値しかない、なんて普通の世界だ。九割が詐欺の世界である。


 そんな叔父が死んだ場所も都内に住む若い愛人の部屋だそうで、いわゆる腹上死だったそうだ。

生活は不摂生だがまだ若く、決して大病を患っているような雰囲気では無かったので訃報に驚かされた事を思い出す。

 とは言え、叔父らしいと言えばらしい死に方だった。

 残されていた財産も驚くほど多く、現金・不動産・証券などは親戚(と愛人)に分配された。結構な数が居た筈の愛人たちは全部円満解決していたのか、受け取ったのは死んだ時に側に居た一人だけだった。

 ただ、叔父が蒐集していた物に関しては大変だったらしい。

 叔父が集めていたのは美術品や宝石のような簡単に値段がつく物ではなく、どこの発掘現場から拾ってきたのか分からないような土器の破片や、悪趣味で奇怪な骨董品だったからだ。

 蒐集していたが飾るような事はせず、マンションの一部屋を書斎のようにしてゴミ屋敷のように無造作に詰め込んでいたらしい。その内容を見せた相手も少ないとの事だった。私ですらそこに入った記憶が無い。

 それでも集めていた物のうち半分ガラクタ、半分はそれなりの値段で処分できたと、親戚の面々は言っていた。

 中でも不気味な油絵は、同好の趣味人が意外と良い値で買っていったらしい。世の中には需要と言う物があると言う事だろう。

 そんな中で私には遺言で愛用のトランクを中身ごと譲るとされていた。

 財産家だった叔父は万が一の為にどうもこまめに遺言を書いて預けていたらしい。そこに私宛となっていたのだ。

 他の財産に関しては一般的な分配をするようにと記してあったが、何故かそのトランクだけは私に譲ると書いてあった。

 私への遺言は次の通りだった。


◇愛用の旅行トランクを甥の和彦かずひこに譲る。他の者は和彦に渡されるまで開けてその中身を見てはならない。

◇トランクの中身のうち、『死霊回帰しりょうかいき』と言う本だけは千葉県の飯綱大学図書館に寄贈する事。

◇他は自由にして構わないが、絶対に手元に置いてはならない。速やかに信用できる研究者に相談し処分する事。

◇すべてが処分できるまで、和彦はトランクを身の側に置き、決して他人に預けてはならない。


 些か奇妙な遺言と言えなくも無い。

 トランクの中には叔父の遺言通り『死霊回帰』と言う古文書と、数冊の同じような和綴じの古文書が入っていた。どれも年代物だろうと言う事しか、私には分からなかった。

 奇妙、と言うのは、どうにも叔父はこの本を自分の側に常に置き、旅先でも持ち歩いていたようなのだ。

 実際、このトランクは叔父が死んだ場所である愛人の家から運ばれた。

 貴重な物にしてはどうにも扱いが荒い気もする。

 言い換えれば肌身離さずと言えるのかもしれない。


 叔父の遺言では千葉の飯綱大学に寄贈するようにとの事だったが、私が普段通っている大学がある町からは少々遠いので、取り敢えず大学の伝手を頼って古文書に詳しい古書店のオーナーにそれを持ち込んだ。

 もし貴重な物であるならば、少々意地汚い話だが、金銭に変えようと考えていたのだ。

 私のように門外漢が所有しているよりは研究したいと言う人物か誰かの手に渡った方が良いだろうと思った部分もあるし、当時の私が女性との交際の為に車の購入を検討しており、それなりの金銭が必要だった事も理由である。

 そして鑑定して貰った結果、私は驚く事になった。 

 その人物が言うには、どれも貴重でとても地方都市の古書店が買い取れるような代物ではない。普通のルートでも売る事は出来ない、との事だった。

 お宝発掘番組に出してみたら、と聞いてみたが、タレント鑑定士には無理だと断言された。

 それから、もし高く売りたいのなら、東日本でも指折りの専門家を紹介すると言われた。


 何の因果か、その人物の住所は千葉県の夜刀浦。飯綱大学とも近いと言う状況だった。



 夜刀浦は著名な製薬会社の飯綱グループのお膝元であり、またグループが設立した私立飯綱大学のキャンパスタウンでもある。

 それゆえに、太平洋に面した海の町と言うイメージと、大学都市と言うフレッシュなイメージが混在している。

 しかし、歴史を遡ると実は室町時代から武家が領地争いをしていた記録がある。

 街としての基礎は戦国時代には確立し、街中にも江戸時代の武家屋敷が残っている。

 また明治維新後も賊軍の地ではあったが、士族が地元に産業を興して大いに栄えていた。

 日清日露での軍需に関わった事も栄えた理由だろう。

 第二次大戦中、東京近郊は空襲で大きな被害を受けた。

 周辺の工業地帯も狙われていたのだが、夜刀浦ではなぜか半分程はその被害を免れている。

 火事による延焼も食い止められ、結果、郊外には今も古い明治大正期の古民家が残っている。


 私が訪ねたのは、そんな場所に住む愛宕あたご氏と言うアマチュア研究家だった。

 年齢は確かに老境に差し掛かっている人ではあったが、背は高く全体的にほっそりしており、短く整えた髪を撫でつけ、面長の顔と秀でた額が学者然としたイメージを与えていた。

 ちょっとした広さの庭付きの木造平屋の一戸建て。同居する家族は他に居らず、他人に懐かない白猫と黒猫の二匹を飼っていた。

 愛宕氏は私の突然の来訪を快く迎えてくれた。

 と言うのも、私が持ち込んだ数冊の書物は、愛宕氏をしても数年に一度お目にかかれるかどうかと言う貴重品だったらしい。

 一通り眺めた愛宕氏は、興奮した口調で私にこう言った。

「本来なら飯綱大学の図書館に納めるべき代物ばかりだ」

「もし売るのであれば、何人か紹介しても良い。私の推測だが、どれも一冊二、三百万はするだろう」

 貴重であるとは聞いていたが、まさかそれほどの値が付くとは思えなかった。

 古本と言う物は、出版物の場合だと貴重でも五十万を超える事はまず無いと言う。古文書となると、価値観が左右する為まぎれは更に大きい。

 愛宕氏の言葉を信じるなら、叔父の遺産の中でも単品ではかなりの高額な代物になる。

「全部で一千万は超えると言う事ですか?」

「さすがに全部買うと言う人物は居ないと思うが、売却に関して君が同意してくれるのなら、すぐにでも連絡を取ろう。何人か当たり、一番高い値を着けた人物を紹介する。もちろん、君が必ず売る、と言う事が大前提だ。破談は無い」

「本当に二百万なんて出す人が居るんですか?」

「世の中には好事家は多いものだよ。君の叔父さんもその一人だったんだろう。ましてこのコレクションは秀逸だ。それに、世の中には驚くような値段が古文書に付けられた記録がある。二十世紀初頭に、アメリカでは中国から出た一冊の本に十万ドルで取引が行われたと言う」

「十万ドルだと一千万円ですかっ?」

「おいおい、二十世紀初頭だよ? アメリカドルの価値が上昇するのは一次大戦以降で単純比較はできないが、今の五千万か、一億円には相当する筈だ。そして、君が持ち込んだこれらは、その稀覯本に類する代物だ」


 結局私は愛宕氏の熱意もあって、夜刀浦の駅前にある格安ビジネスホテルに泊まり、愛宕氏からの連絡を待つ事になった。



 その夜。

 海が近い夜刀浦の安くて新鮮な魚介を地元の若者向け居酒屋で堪能した私は、ベッドの上に転がって、ある事について悩んだ。

 それは叔父の遺言である『死霊回帰』についてである。

 和綴じではあるのだが、内容は何とアルファベット。読みにくいものの、少なくとも英語やフランス語では無いと断言できる。

 愛宕氏の言葉が仮に真実だとすれば一冊二百万。トランクの中身が全部売れるなら、一千万以上の金になる。一冊売れただけでも国産車なら余裕で新車が買える額だ。

 それに、むざむざ寄贈するよりも、必要としている研究者に渡すのが良いのではないかと思い始めた。

 結局私は、飯綱大学が目と鼻の先であると言う事も後押しして、売れなかったりショボい値段だったりしたならば、帰りに寄贈すればいいと結論した。


 愛宕氏からの連絡は、翌日の午前中に入った。

 取り敢えず一人紹介するからすぐに来てくれと言われた私は、トランクを持って再び愛宕氏の家を訪れた。

 応接間にはすでに若い女性が一人、ソファに座っていた。

「紹介しよう。こちらは『星の智慧学術協会』の黒乃くろのナイさんだ」

「『星の智慧学術協会博物館』で学芸員をしております、黒乃ナイと申します。よろしくお願いします」

 黒乃ナイ、と紹介された女性は軽く会釈をする。

 座っていても彼女が女性にしては背が高い方だと伺える。

 長い黒髪に、黒いタイトスーツ。長い脚も黒いストッキングで包まれていて、玄関にあった靴も艶が無い闇のような黒だった。

 まるで葬儀場の帰りのような全身黒で埋め尽くした格好だった。

 しかも、彼女はサングラスをかけたままである。

「先天的に光に弱いものでして。サングラスをかけたままである非礼をお許しください」

 全身黒の中でただ一か所の赤。毒々しいまでに華やかな紅を挿した唇が蠢く。

 目元が隠れているので把握できないが、整っているようでも有り、美人であると言えなくも無い。

 目の前にしているのに、どうにも曖昧な印象を受ける。

 薄暗い部屋の中に、今にも溶けて闇に混じってしまいそうな気がした。

「『星の智慧学術協会』はアメリカに本部を置く、考古学研究の民間グループなんだよ。そこにかけられる予算は日本の国立大学考古学研究室の実に数十倍、桁違いだ。世界的に貴重な古文書の保護も積極的に行っている。黒乃さんは、日本ではなく主にアメリカで活動する学芸員なんだよ」

 どうにも話が大きくなって胡散臭い気もしたが、とにかく話を聞いてみる事にした。

「一般の方に当協会の活動を理解して頂こうとは思っておりません。なので、現金は十分に用意してきました」

 そう言うと、カバンから取り出した札束を女性はテーブルに置いた。

 百万円の束を四つ。本物だった。

「些か下品な方法ではありますが、現金程確かな物も無いでしょう」

 貧乏学生の悲しさ。たかが数百万を前に喉が鳴る。

「では、物を見せて頂きましょう」

 促されるままに私はトランクから中身を取り出した。

 正直な所、ここまで来ても本当に売れるのか、私にはまったく自信が無かった。

 古物の鑑定は魔物だ。何かと難癖をつけられて足元を見られてしまうのではないかと思ってしまったのだ。

 何しろ、仮にここで「やっぱり十万円程度」と言われても、私には反論する術が無いのだ。だからと言って他に売る当てもない。

 しかし、そんな私の悩みは杞憂に終わった。

「………素晴らしい。ミスター愛宕の言葉を信じていなかったわけではありませんが。全部で七点。パッと見ただけではありますが、全て価値基準をクリアしていると思われます。特にこの二点、『二道草子にどうぞうし』と『宝龍権現経ほうりょうごんげんきょう』はすぐにでも研究に入るべき物だと考えられます。是非、この場で即決をお願いします」

 そう言うと、黒乃ナイは四百万の束の上に、更に一束追加し、私の方に押した。

「よろしいのですか?」

 どうにかすべて一万円札である事を確認し、私は震える手で何とか現金をトランクに仕舞った。

「もちろんです。では、闇取引同然ではありますが商談成立と言う事で」

 笑えない冗談と共に黒乃ナイは立ち上がり、愛宕邸を去っていった。本当にこの古文書だけが目的だったようだ。

「いやはや。さすが『星の智慧学術協会』の学芸員。仕事が早い」

「………今でも信じられません。本二冊で五百万円?」

「彼らはそれだけの価値があるとしたんだ。君が悩む必要は無いよ。値切り交渉なんて無駄な事はしない。代わりに君も値を釣り上げようなんて思わない事だ。この世界、相手の不快を買って良い事なんて何もないのだからね」

「………はあ」

 今でも夢のように思える。

 残されている現金の束だけが現実だった。

「実は午後にも古文書目当ての来客があるんだ。それまでに、一つ外でランチを摂ろうじゃないか」

「あ、よろしければ私が御馳走しますよ」

「はは、有難いねえ。アマチュア研究者なんて趣味をしていると、どうにも食事が億劫になるんだ。もっとも、この歳になると食欲も性欲も湧かないからね。それでいて睡眠時間は惜しいと思える。いっそ脳だけになって永遠に研究ができるならどれほど良いかと思うほどだよ」

「ご冗談を」

「さて、実は近所にランチでお手頃なチーズステーキを出す雰囲気の良い店があるんだ。案内しよう」


 愛宕氏が案内してくれた店は、徒歩で五分ほどのこじんまりとした山小屋風のレストランだった。十人も入ればいっぱいな店は、今日は少々暇な様子だった。

 ランチは一人八百円から。安い事は安い。

 夜はコース中心で、どうにもそちらの方がメインの店らしい。

「飯綱大学の若いカップルがちょっと気取って奥のリザーブ席を使うんだよ」

 愛宕氏はそう言ってチーズステーキセットを迷わず注文した。

 私もそれに倣う。ワインを勧めてみたが、愛宕氏はアルコールも煙草もしないと言って断った。

「夜刀浦は海の側ですし、魚介も美味しいですよね」

 世間話のつもりでそんな事を言ったが、愛宕氏は嫌そうに顔をしかめた。

「私は海産物が好きじゃないんだ。昆布やワカメのような海藻は大丈夫だが、魚もダメだし、イカやタコも論外だ。エビやカニの甲殻類も勘弁してほしいし、貝類もダメだ」

「アレルギーですか?」

「外見だよ。だから水族館もダメでね。雲丹や魚卵も論外だし、海鼠なんて物は正気を疑うよ」

 やって来たチーズステーキは牛肉の薄切りを焼いた物に、溶かした何種類かのチーズをソースのようにたっぷりとかけたものだった。

 付け合わせはパンと野菜のスープだ。

「さあチーズがとろけるうちに食べよう。チーズステーキはライスよりもパンの方が合うからね」

 愛宕氏に倣って、パンに肉とチーズを乗せて食べると、なるほど濃厚で味わいが幾つも重なり合ったチーズと、焼肉と、それを受け止めるパンでバランスが良く絡み合う。

「ちょっとガーリック入ってますよね? 大丈夫かな」

「相手は吸血鬼じゃないから大丈夫だよ」

「ははは」

「日本人はニンニク臭を嫌う世界でも数少ない民族だからね。逆に、日本人だけが海藻の磯の香りを楽しめる民族らしい。さて、どっちが異種族なんだろうね」

 ボリューム的にも大学生である私も満足できるランチだったが、愛宕氏はコーン一粒残さず平らげた。

 ちなみにデザートはチョコレートソースをかけたバニラアイスで、愛宕氏はこれも好物であるらしく、軽く平らげていた。


 食後のブレンドコーヒーを飲みながら、私は愛宕氏に疑問を打ち明けていた。

「何故、あの古文書が高額で取引できるのか、私にはどうしても分からないのです。今でも狐か狸に化かされているみたいだ」

「それは仕方ない。概念的に言うのなら、そもそも資本主義社会と言う物自体が狐狸の類と言えなくも無いからね。もっともそれを言うなら共産主義は性質の悪い狂った妄想何だろうが。

 単純に言えば、君が持ち込んだあの書物は皆貴重な品なんだよ。どれも世界に十冊と無い代物だ。しかも、世界の蒐集家たちや、稀覯本を集める団体が確保して片っ端から秘蔵してしまうから余計に値が吊り上がってしまう」

「しかし、幾ら貴重な本だと言っても、そこに大元の価値が無ければそもそも値段はつかない筈です。美術品なら作者が価値を付随させるでしょうし、陶芸品は時間が価値として積み上がる。しかし、この古文書がそうだとは思えないのです」

「ふむ。それは、君が知らないと言う事だけだ。価値を知らない農民にとってはただの畑でも、実はレアアースが採れた、なんて話もある。世間一般の人々には古本でも、研究者にとってはお宝と言う場合は幾らでもあると思うがね」

「お宝ですか」

「知識と言う宝物だよ。金銀宝石。そんな物とは比べ物にならない、価値ある宝だ」



 午後の来客は、驚くべき事に白人男性だった。

 外国人の年齢は読み取りにくいが、おそらく四十程度だと思われる。

 スーツ姿も日本人のサラリーマンのような吊るしではなく、パリッとしたサヴィルロウ仕立ての三つ揃いで風格がある。

「こちらは『トワイライト・シルバーズ』のスタンフォード氏だ。『トワイライト・シルバーズ』は知っているかな?」

「名前だけは。アメリカ有数の篤志家団体で、時々ニュースにも出てきますよね」

 大学受験の際に様々な時事ニュースを読んでいたのでその名前を聞いた事があった。

 篤志家と言うのは会社社会の日本ではあまり馴染みが無いが、財産を福祉に使う資産家の事だ。

 これは、アメリカの社会構造にも関係がある。アメリカでは医療も福祉も政治が担わないためだ。税金で色々賄う国とは事情が異なるのである。

 このため、アメリカでは極端な収入を得るセレブリティたちは、その収入に応じた社会奉仕を求められる。

 そして効果的に篤志の資金を運用する団体も必要とされているのだ。

「『トワイライト・シルバーズ』は様々な研究団体の支援も行っているんだよ」

「人類の発展の為の投資ですよ。今回は素晴らしいお話を頂き、感謝しています」

 握手を求められたので、それに応じた。若々しい外見とは裏腹に、その握手は長い年月を積み上げたような感触を受けた。

「日本語がお上手なんですね」

「ありがとう。日本の古文書を読む機会が多いので、勉強しました。早速物を見せて頂けますか?」

 私は残りの五冊をスタンフォード氏の前に並べた。

 スタンフォード氏は手袋をはめて一冊一冊丁寧に中を確認していく。

 奇妙な緊張感を漂わせた中、スタンフォード氏は感嘆の声を上げた。

「………これは驚嘆するコレクションだ。特に、こちらの『東日龍海三郡史つがるかいさんぐんし』と『ソトアマツコウキ』、そして『死霊回帰』。いずれも実に興味深い。私の前に『星の智慧学術協会』の学芸員が来たと聞いていますが、これらを置いて行ったとは本当にらしくない」

 スタンフォード氏は『死霊回帰』だけを戻すと、二冊を纏めた。

「どうでしょう、ミスター。こちらの二冊を五万ドルで譲って頂けませんか?」

「五万ドルと言うと………六百万円ですかっ?」

「本当なら全部譲って頂きたいのですが、生憎用意してきたお金では二冊が限度なのです」

「いや、その、それだけの値段なら全部お譲りしても全く構わないのですが………」

「ノン。それは駄目です。これは口頭とは言え列記とした契約なのです。これらの書物は正しく契約で引き渡されなければならない。これはそう言う物なのです」

 そう言えば、叔父はわざわざ遺言と言う形で私に譲るとした。

 それも『契約』の一種と言える。

 叔父もその事を知っていたと言う事なのだろうか。

「分かりました。私としても申し分のない条件です。お譲りします」

「サンキュー。素晴らしい取引を神々に感謝します」

 私はもう一度握手を交わして、スタンフォード氏と別れた。



 スタンフォード氏から受け取ったドルは手数料込でも六百万を越えて換金できた。

 約半分が売れた時点で一千万越えと言う状況は、私を夢見心地にさせていた。

 しかし、すぐにお世話になった愛宕氏へのお礼が必要だと思い当たった。

 私一人ではとてもここまで上手くいく筈が無かったのだ。お礼を出すのは当然の礼儀だろうと考えた。

「愛宕さんにもお礼で何割か受け取って頂きたいのですが」

 しかし、そんな私の申し出を、愛宕氏は手を横に振って否定した。

「そんな物は要らないよ。ただ、もし良ければ私のお願いを聞いて貰いたい。実は一冊譲って欲しいのだよ」

「この中の一冊ですか?」

「そう。『死霊回帰』を譲って貰いたい。私はアマチュアの研究者でとても相場通りのお金は用意できないが、五十万出そう。それで譲っては貰えないだろうか?」

 愛宕氏の申し出は、私にとって難しい決断を強いられた。

 もちろん、これまでの売価の四分の一と言う事を気にしたわけではない。

 実のところ、すでに破格の値段で売れてしまったため、他の物はどうでも良くなっていた。これが十万程度なら欲をかいていたかもしれないが、桁が違うので金銭感覚が慣れず、疲れていたのかもしれない。

 正直に言えば、『死霊回帰』でなかったら、只でも愛宕氏にお礼として進呈したと思う。

 しかし遺言が関わる以上、正直に言わねばならないと考えた。

「実は、この『死霊回帰』は叔父の遺言で飯綱大学の図書館に寄贈するように言われているんです」

「なんだって? それは本当なのか?」

 何故か、愛宕氏の声には狼狽があった。

「ええ。大学の図書館ですし、閲覧を希望すれば貸し出しはできなくとも読めると思うんですが」

 五十万円と言う大金を支払わなくとも、図書館なら借りて読めるはずだ。そもそも図書館とはそう言う場所である。しかも飯綱大学は目と鼻の先だ。

 だが、愛宕氏の表情は明らかに暗い。

「………そうか、君は飯綱大学の旧図書館の事は知らないのか」

「旧図書館、ですか?」

「そうだ。あそこは特別なんだ。日本全国はもちろん、世界的にも貴重な稀覯本が集められているが、閲覧制限がとても厳しい。あそこに納められたら最後、私のようなアマチュア研究者では貸し出しはもちろん閲覧もできない。特別保管庫と呼ばれる核シェルター並の場所に秘蔵されてしまう」

 些か眉唾な話だと表情に出てしまったのか、愛宕氏は更に言葉を続けた。

「飯綱大学の旧図書館は、大学の図書館とは思えないほど厳重な警備が常時行われているんだよ。それこそ、下手な閣僚よりも警護が厳重なんだ。頼む、遺言と言う事情では無理強いはできないが、考えては貰えないだろうか」

 随分世話になったし、十分過ぎるほどの金銭を得た。

 私の中で、お礼をしなければ問題だろうと言う気持ちが勝ったと言える。

「分かりました。お譲りしましょう」

「ああ、有難う! 今現金を用意しよう」

 茶封筒に入った札束を受け取った私は、愛宕氏の家をお暇する事にした。

「ところで、残りの二冊はどうするかね?」

 玄関先で、私は愛宕氏にそう尋ねられた。

「飯綱大学に寄贈しようと思います。目利きの方々がお墨付きをくれたのですから、引き取って貰えるでしょう」

「そうか。君がそう決めたのなら、それでいいだろう」

 こうして私の夢のような、と言っても楽しい夢ではなく、どこか非現実的なふわふわした夢の時間は終わりを告げた。


 私の考えた通り、飯綱大学は二冊の寄贈を快く引き受けてくれた。

 こうして、私の手元には一千万を越える現金と、


 トランクだけが残った。



 飯綱大学から連絡が来たのは、一か月後の事だった。

 すぐにこちらに来てほしいと言う話に、私は迷う事無く応じた。

 その際に、必ず叔父のトランクを持って来て欲しいと言われた事に、私は奇妙な申し出にも拘らず、納得していた。

 空っぽになった叔父のトランクは処分していなかった。

 一応、叔父の遺品であり、使い道があるかもしれないと残しておいたのだ。

 夏の終わり。その日は朝から静かに雨が降っていた。ゲリラ豪雨のような勢いは無いが、晴れる様子のないびちゃびちゃと続く雨。梅雨か秋雨か。

 飯綱大学の図書館を訪れた私は、旧図書館に案内された。

 聞いていた通り、厳重な警戒に驚かされる。

 まるで世界的な美術品を警備しているかのような警備態勢だった。

「ある意味、美術品よりも大きな問題があるのですよ」

 私を案内してくれたアーミティッジ女史はそう説明した。

 私に連絡をしてきたのも彼女だ。

 アーミティッジ女史はアメリカのミスカトニック大学から出向している旧図書館の司書であるらしい。

 マサチューセッツ州アーカムにある名門総合大学であるミスカトニック大学は、数十年前から飯綱大学との姉妹提携を結んでいるのだそうだ。

 アングロサクソン系のアラサーで、背まで伸ばした金髪に左右の色が異なるオッドアイを持っている、どこか神秘的な雰囲気を纏っている。

 額から鼻梁を通り頬に至る『大』の字にうっすらと傷がある以外は美女であると断言できる。

 日本語も堪能で、会話に違和感は全く無かった。

 やがて、私は旧図書館の中に通された。

 一見すると年代物の古い木造建築。しかし、そこに納められている本は取るに足らない年代物の百科事典たち。あるいは学生貸し出し用の様々な辞書だろうか。他にも新聞や雑誌類の保管場所になっているようにしか見えない。整理整頓されているので倉庫みたいな感じはしないのだが。

 正直に言えば、とてもあのような厳重警備をするようには見えない物ばかりだ。

 だが、すぐにその疑問への答えが判明した。

 旧図書館の中央に設えられた場違いな装置。

 それは地下へと降りる為のエレベーターだった。

 よくあるような簡易的な物でも、中小ビルに使われる物でも無い。

 初めから重要警備施設前提の代物だ。

 そのエレベーターも、高レベルIDカードを使わなければ動かない厳重なセキュリティがかけられていた。

「ここからは特別保管庫です。本来は一般人立ち入り禁止ですが、今回は私の権限でミスターを案内します。ただし私から離れて行動しないように。不審人物と判断された場合、行動不能にされます」

「………どうなっているんだ」

 降りた先に広がる、明らかに普通の図書館とは一線を画した設備に息がつまりそうだった。

「世の中には貴方が知らない事があるのです。この図書館然り、禁断の魔道書がもたらす知識然り」

「………魔道書?」

「ミスターが持ち込んだ書物の事です。正直、その事を知らされた時は息が止まるかと思いました。あんな危険物を一般口から持ち込まれるなんて一種のテロです」

「そんな………危険な代物なんですか? だって多少古い物にしてもただの本でしょう?」

「ええ。普通はそう考えますよね。しかし物にもよりますが、魔道書は手にしただけで人を災厄に巻き込みかねない代物なんです。読めば狂気の世界へと連れ去られてしまう。ミスターが持ち込んだ物は、日本古語に訳された物としては二冊とも一級品。正直ミスターが今も無事である事が信じられないくらいです」

 図書館とは思えない地下施設。まるでバイオハザード対策か放射線対策をされているかのようなその通路に面した一つの入口の前で、アーミティッジ女史は足を止めた。

「ミスターが持ち込んだ二冊がここで封印されています。どうぞ」

 保管ではなく封印と言う物騒な言葉に冷や汗をかく。

 そこには宝石の陳列ケースのようなガラスケースが置いて有り、その中には私が寄贈した二冊が置かれていた。

 もっとも。

 その密閉空間の中で、古文書は誰の手も無くゆっくりと自然にページが捲られている。

「超硬度ガラスです。銃弾程度では傷も尽きません。完全にロックしてあり、開くには高セキュリティのIDが必要です」

「もしかして、中に保存したまま内容を確認できる仕様なんですか?」

「まさか。この二冊は勝手にページを捲っているのです。己の意思で」

「………本の、意思?」

「極めて高度な魔道書ではたまに起きる現象です。ただし、この二冊は一級品ではありますがそれ程ではありません。そこでミスターにお尋ねしたい。極めて大事なお話です。ミスターが寄贈した古文書は、一体どこから入手されたのですか?」

「どこ………と言われましても、私も急死した叔父から相続したので、このトランクに入っていたんです」

「飯綱大学図書館に寄贈するように言われたのですか?」

「え、ええ。実は七冊あって、その内の一冊を寄贈するように言われました」

「なんですってっ? 七冊? それで、他の五冊は?」

「四冊はアメリカの研究団体に売却したんです。『星の智慧学術協会』と『トワイライト・シルバーズ』と言う団体です」

 私の答えを聞いたアーミティッジ女史は、明らかに狼狽を見せた。

「………ああ、そんな。何て手回しの早い………。寄りにも寄ってあの連中に渡してしまうなんて」

「あの連中って、民間研究団体と聞いていますよ。そりゃあ国の研究機関に比べればどうかと思いますが、アメリカでは民間団体の方が優れていると言いますし」

「優劣の問題ではないんです。………ミスターに言っても仕方ありませんが。それで、あとの一冊は何処に?」

「本の売却に協力してくれた人物に譲ったんです。この夜刀浦に住んでいる愛宕氏と言うアマチュア研究家です」

「愛宕氏? 聞かない名前ですが………譲った本の名前を覚えていますか?」

「ええ。『死霊回帰』と言う古文書でした。実は、叔父の遺言で寄贈するように言われたのがその『死霊回帰』だったんです」

「『死霊回帰』ですって? まさかペルシア・ポルトガル語訳版の?」

「ポルトガル語? 確かに英語ではないと思いましたが」

「あれは鳥取大学にある筈なのに………何て事。これで謎は半分解けました。この二冊がここに寄贈されたのが一か月前。譲ったのも同じ時期ですか?」

「はい。その日のうちにこちらに来たので、ほとんど差はありません」

「すみません、ミスター。愛宕氏の家に案内して頂けませんか?」

 真剣なアーミティッジ女史の形相に、私は頷くしかなかった。



 愛宕氏に連絡はしなかった。

 アーミティッジ女史に止められてしまったし、何よりも異常な体験の延長で得体の知れない予感があったのだ。

 果たして愛宕氏は留守だった。

 以前来た時よりも庭草が伸びており、天気と相まって鬱蒼とした雰囲気を醸し出している。

 ただし家の戸締りはされておらず、窓も開けっ放し。アーミティッジ女史は構わず家の中に上がり込んだ。

 間取りが多いわけでもない古い木造平屋の家の中には誰も居ない。

 書斎にも居なかった。

 譲った筈の『死霊回帰』も見つからない。

 古文書を持ってどこかの図書館にでも言ったのではないかと思ったのだが、アーミティッジ女史は構わず探し物を続けた。

「これじゃあ空き巣です。一体何を探しているんですか?」

「愛宕氏が研究者の端くれなら、私的な研究記録を残している筈です。それを読めば、愛宕氏が何をしようとしていたのかの手掛かりがつかめる筈です」

 探索を続ける事更に数分。

 遂にそれらしき日記帳を発見する事ができた。

「………単なるアマチュア研究家が『死霊回帰』を求めるなんて考えられない。必ず理由がある筈です」

 それは確かに日記帳だった。

 正確には、愛宕氏がこの夜刀浦に引っ越してきてからの研究に対する日記だった。



 愛宕氏はある時期から禁忌の知識に対する研究に取り組んでいたらしい。

 最初は趣味でしかなかったようだが、それはやがて財産全てを投げ打って没頭する物になっていた。

 その研究の為には飯綱大学の蔵書群が必要不可欠と判断したが、飯綱大学の図書館には撥ね付けられてしまう。

 諦めきれず何度も申請したが、遂には門前払いを喰らうようになったと憤りが綴られている。

 愛宕氏が夜刀浦に転居したのは、この街に必要な古文書が集まる可能性が高いと踏んだからだ。

 一方で彼はそんな研究生活の中で世界中の研究者やグループにコネクションを持ったらしい。

 そんな中で、私がやって来たのだ。

 まさか七冊も本物を持って来る人物が居るとは思いもしなかったらしい。

 『星の智慧学術協会』と『トワイライト・シルバーズ』を紹介し、その代わりに報酬として私が持ち込んだ『死霊回帰』を要求したらしい。


 私が譲った『死霊回帰』の研究解読を始めた愛宕氏だったが、そこで体調の不備を感じ取って病院を訪れたところ、愛宕氏はすでに腸に致命的な癌が広がっており、喩え手術しても助かる可能性はほぼゼロと言う状況だった。

 愛宕氏は研究を中断し、ある儀式を執り行った。

 それが一週間ほど前の事であり。

 ………そこで日記は終わっている。



「………儀式」

「意味がわからない! あの人は一体何を考えていたんだ!」

 愛宕氏の日記は、私のような一般人には想像できない、研究に人生を賭した物だった。

「………人を、人間をやめたんだわ」

 アーミティッジ女史はそう呟くと、次々と押し入れや納戸を開けて調べ始めた。

「人を、止める?」

「病から逃げる方法何て、それしかないもの。幾つか可能性はあるけれど、ここに居なくなったと言うのなら、たぶん」

 詳しく調べてみれば、まるで引っ越しを控えた住居のようだった。

 ゴミは全て片付けられており、冷蔵庫は空っぽ。

 そもそも電気に水道も止められていた。

 程無く私たちはそれを発見した。

 床板を外して下に作られた簡易的な穴。

 そこに横たわっていたそれは、愛宕氏の遺体だった。

 夏の間放置されていた為に腐敗が進んでいたが、出会った時の面影は残っていた。

「遺体、と言う表現は正しくないわね。この人は身体を捨てたの。好奇心と探求の世界に赴く為に」

 アーミティッジ女史が指差しているのは、愛宕氏の頭頂部。

「うっ」

 まるでクッキー箱の蓋みたいに頭蓋が外され、脳髄ごと中身が抜き取られた跡だった。

 冗談みたいに空っぽの器が覗いている。

「脳が………無い」

「そう言う技術があるんです。遥か彼方。想像を絶する世界に。もう帰って来るつもりは無いのでしょうね」

 おぞましい筈なのに、息をする事も忘れるほど私はその怪奇な光景に目を奪われていた。



 どう言う風に話が繋がったのか。

 愛宕邸の亡骸は一切事件とならずに回収され、あっと言う間に家は解体され更地になった。

 愛宕氏の遺体は早々に火葬されて夜刀浦の無縁墓地に葬られたらしい。

 火葬は病院の死亡証明書が必要な筈だが、そんな法手続きを無視する何かがあったのだと想像する事は出来た。


 私が最後にアーミティッジ女史と会ったのは遺体発見から二日後だった。

 旧図書館に呼び出された私は、愛宕氏の後始末を聞いていた。 

「『死霊回帰』と言うのは、ある高名な魔道書のギリシア語訳をペルシア語に訳し、更にポルトガル語に翻訳したものなんですが、オリジナルに近い高度な物は存在するだけで魔に属する物を活性化させる事があるんです。二冊が活性化した理由は、おそらくそのせいです」

「でも、私が持っていた時は全然。ただの本でした」

「ええ。それで、そのトランクを見せて頂けますか?」

「これ、ですか?」

「ミスターが魔道書の毒に当たらなかった理由はこのトランクにあると思うんです。微かに何かを感じます」

 アーミティッジ女史に渡すと、彼女はトランクを触っていたが、一瞬顔をしかめた後、パーツを分解し始めた。

「なにをっ?」

「やっぱり。これで謎は全部解けました」

 アーミティッジ女史はそう言うと、内側のカバーを外した中身を指差した。

「この材質が何かわかりますか?」

「………いえ。ただ天然素材な事は。たぶん皮、ですよね?」

 その材質はきめ細やかで白く、しかしどこか艶を感じさせる。

「ええ。皮です。ただし一般的に使われる素材ではありません。このトランクの内側に使われている皮は、人皮です」

「………え?」

「人間の皮です。魔道書の力を暴走させない手段として、よく使われる素材です。魔道書の装丁に使われる事も珍しくありません。中には完全人皮で造られた物もある程です。『死霊回帰』と同じルーツを持つ『ナチュラン・デモント』と言う魔道書なんですが、それには四十人とも五十人とも言われる数の人間が犠牲になったと言われます」

「人の……死体から剥ぎ取った、と言う事ですか?」

「加工手順はわかりませんが、このトランクに使われている物はおそらく複数の若い女性の物で、ここ数年の物でしょうが丁寧に加工してあります。使われているのは呪術的な意味合いを強化する為に顔、手の指、乳房、陰部に限られています。このトランク一つを賄う為には四、五人分が使われている筈ですね。まさに、魔道書を運ぶために作られた逸品です」

 どこか感心するように喋るアーミティッジ女史。


 だが。

 私は恐ろしい考えに憑りつかれていた。

 訪れる度に違う女性を侍らせていた叔父。

 遊び人である叔父の単なる女遊びに過ぎないと思っていたが、そこに別の意味があったとしたらどうなのだろうか?

 こんな恐ろしい魔道書を七冊も手に入れた叔父が蒐集の道に足を突っ込んだ理由も分からない。

 研究していたとするのなら、愛宕氏のように実践していた可能性もある。

 あるいは、親類たちが処分したと言う物の中にも、何か大きな意味を持つ物があったのではないか?

 結局私は、そのトランクをアーミティッジ女史に譲った。

 最早手元に置いておく気は全く無かったのである。

 これらの事に関して、私は一切の事を忘れる事にした。

 叔父が何をしていたのか、犯罪を起こしていたのか、私には真実を暴露する勇気も好奇心も無かった。


 これで、叔父のトランクにまつわる話は終わりである。

 最後に一つだけ、追記しておく。この事件に関わった私は、ほどなくして電話番号を変えた。

 なぜなら時折、通知されない相手から電話がかかって来るようになったからだ。


 私は、それが愛宕氏からの物だと、確信している。

   


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