しかし、(2)
フィリップがマクロルやキャリーヌの説得に折れ、王立学園に入る決意をして数ヶ月。王都へ旅立つ日が、ついに明日に迫ってきていた。
彼はこの日まで、入学試験対策の勉強に明け暮れていた。給費生希望ではないので、それほど難易度の高い試験ではないが、高得点を取らなければ容赦なく落とされてしまう。まずは王都で試験を受け、十日後の結果発表を待つというのが、今のところのフィリップの予定だ。
夕食の席で、フィリップは父親から激励の言葉を受けた。「すぐに家に戻ってくることが無いようにな」と、重圧のかかる言葉ももらった。が、今のフィリップには積み上げてきた力と、自信がある。彼は笑って「もちろんです」と返すことができた。キャリーヌは父親の隣でにこにこと笑いながら、「頑張ってね」と言うだけだった。
それを少し不思議に、また物足りなくも思ったフィリップは、きっと寝る前になったらいつものように自分の部屋へやって来るのだろう、とたかを括っていた。彼女がこのままあっさりと別れを告げるはずがないと思っていた。
しかし、早めに入浴をすませて、明日持ってゆく荷物の再確認をして、ベッドに潜り込んで灯りを消した後になっても、キャリーヌはフィリップの部屋の扉を叩くことはなかった。
(なんでこんなに期待してたんだろう、僕)
フィリップは不意に、キャリーヌのことをずっと待っていた自分が恥ずかしくなり、寝返りを打ってごまかそうとした。少し顔が熱い気がした。
何となく目が冴えてしまった彼は、しばらくベッドの上でごそごそと動いていた。と、そのときである。静かに、ごくごく慎重に音をたてないように、寝室の扉が開けられた。真っ暗だった部屋に、廊下の仄かな灯りが一筋差し、すぐに消える。滑り込むように部屋に入ってきた誰かは、迷わずフィリップのいるベッドまで歩いてきた。
フィリップは思わず、身を固くして息を殺す。
「フィリップ……フィリップ! 起きてる?」
けれど、聞こえてきたのはキャリーヌの小さな囁き声だった。一気に体から力が抜ける。彼女が来てくれたことに、少しほっとしてもいた。
「キャリーヌ……何でこんな時間に……」
「寝る前だと、フィオナが寝かしつけに来ちゃうから。いいじゃない、旅立ちの前は打ち明け話と決まってるでしょ」
キャリーヌは白い寝間着姿でずかずかとフィリップのベッドに上がってくるので、彼は慌てて片側へ体を寄せて場所を空けた。
「打ち明け話? そんなものがあるの?」
キャリーヌはフィリップの空けたスペースに遠慮なくうつ伏せになると、脇に置いてあったクッションをいくつか取って抱えた。
「うん。あるのよ。しばらく会えなくなる前に、言っておきたいってことが」
「ふうん。どんなこと?」
フィリップはキャリーヌに合わせて自分もうつ伏せになった。暗闇に慣れた目に、キャリーヌの顔がぼんやりと見える。彼は平気な顔を相づちを打ちながらも、「しばらく会えなくなる」という彼女の言葉に、今更ながら寂しさを覚えていた。
「私、フィリップに会うまでね、自分の顔が嫌いだったの」
「……顔が? なんで?」
「お母様に似てることに、気がついちゃったから。可愛くないし、意地悪なんだって思った。そう思い始めてからは、鏡を見るのが毎日憂うつだったわ」
「そんな話、聞いたことなかったよ」
「言ってなかったもん。それにね、これはフィリップに会うまでのことだから。……私のお母様って、意地悪で、使用人たちにも結構嫌われていたでしょ?」
「う、うん……そうかも」
実際キャリーヌの母親は、実家から連れてきた側仕えの者以外の使用人には嫌われていた。が、フィリップはそれを正直に言ってしまって良いものか迷って、言葉を濁す。彼女はもうこの屋敷にはいないので、気にしなくともいいのかもしれないが、フィリップにはまだ、彼女を恐れる気持ちがあるのだ。ほんの少しだけだが。
「私から見ていても、そんなことをしたらお父様に嫌われる、使用人にも嫌われるってことをよくしていたの。でも九歳のころ、フィオナが私の使用人になってくれるまで、私はお母様のすることになんの違和感も覚えていなかった」
キャリーヌの声は少しずつ苦しそうになっていく。こんな話をするのは十二歳の、二人が出会ったころ以来だろうか。キャリーヌの話を聞きながら、フィリップは緊張していた。
「それまでは、お母様に近い使用人が私を世話してくれていたから、不思議に思うことはなかったのね。それからフィオナに会って……彼女はすごく公平な感覚の持ち主だから、お母様がすることや言うことに、違和感を覚えるようになった。決定打になったのは、フィオナの顔が可愛いって、私が言ったときだった。フィオナが、『顔は母に似ていると言われます』って言ったの。衝撃だった。じゃあ私も、お母様に似ているんだって思って……終いには、性格まで似るんじゃないかって、恐くなった。それから、自分の顔が大嫌いになったの」
「……分かってると思うけど、キャリーヌはお母さんには似てないと、僕は思うよ」
「うん。フィリップがそう言ってくれたし、フィオナも、似てないって断言してくれたから、今はそんなこと思ってない。けど、そのときはーーフィリップに会うまでは、そう思い込んでいた」
キャリーヌはベッドについていた肘をくずし、クッションの上に顎を乗せた。暗闇の中で、彼女が少し唇をとがらせたのが、フィリップには見えた。
「あの、お父様の誕生祝い兼フィリップのお披露目パーティーのとき、フィリップを見てすごくびっくりしたんだよ。こんなに綺麗な子がいるんだって、見惚れちゃったもの」
「そうだったっけ?」
「そうだったの。それで、フィリップがあまりに綺麗で可愛かったから、自分の顔なんてどうでもよくなっちゃったの」
「えっ? そんな流れだっけ!?」
フィリップの突っ込みに、キャリーヌは照れ臭そうに笑った。フィリップはそこで、あのパーティーの直後にキャリーヌに何度も抱きしめられたり、可愛い可愛いと顔をいじくり回されていたことを思い出した。彼女とちゃんと会えた嬉しさで忘れていたが、キャリーヌにとって自分の顔がそんなに大事だったとは。
「私の悩み事なんて、どうでもよくなる程の衝撃だったってことだよ。それと同時に、自分のずるさにも気がつけた。お母様みたいになりたくないって思いつつも、フィリップへの嫌がらせは止めなかった……八つ当たりと言うか、鬱憤を吐き出してるような感じだったのかなって、今は思うけど」
フィリップは時々、キャリーヌは自分が落ち込んでいるときほど明るく振る舞ったり、他人を気遣おうとしていると、感じるときがある。彼女は自分が『嫌なやつになる』ことを、必要以上に恐れているのかもしれない。
「フィリップは私のこと、悪いやつじゃないって言ってくれたけど、あのときの私は確かに悪意を持って嫌がらせしてたのだから、すごく嫌なやつだったと思う。酷いときは、フィオナの可愛さが妬ましいときもあったのだけど……それも気にならなくなったわ」
キャリーヌが顔をこちらに向け、にぱっと笑う。
「それも、『本当のあなた』に会えたから。だから……つまり、フィリップは私の恩人で、最高の家族ってこと。それを言いたかったの」
「そんなこと言ったら……僕だって、キャリーヌに助けられてるし、僕だって、キャリーヌのこと、最高の家族だと思ってるよ」
フィリップは暗闇で見えづらいと言っても、恥ずかしさに顔を伏せてからこう付け加えた。
「そんなこと言われたら、明日から寂しくなるなぁ……」
途端に元気になったキャリーヌは、ばしんと横にうつ伏せるフィリップの背中を叩いた。
「あはは、フィリップってやっぱり、可愛いところがあるよね。背が大きくなってもそこは変わらない!」
キャリーヌは自分で叩いた彼の背中を撫でながら、優しい声で言った。
「あのね、フィリップ。試験に合格して、無事に学園に入学できても……どうしても辛かったり、嫌なことがあって、やっていけないと思ったら、帰ってきていいんだよ。私もお父様も、絶対にあなたを責めないし、怒らない。何があっても味方よ。身内なんだから」
その言葉に、フィリップは泣きそうになった。帰ってくる場所があるというのは、こんなにも安心して、心強いことなのだと、改めて知る思いだった。自分は恵まれている。こう言ってくれる家族がいるのだから、なおさら頑張ろうと、奮い立つ思いだった。
「あ、それとね。もう一つ打ち明けることあるんだった。私、明後日からエルシック防具店で働くから」
「はっ!?」
フィリップは伏せていた顔をがばりと起こした。思わず声も大きくなる。感傷に浸っていた気持ちは、どこかへ吹き飛んでしまった。
「働くと言っても、最初は週三日から、見習いとして仕事を教えてもらうのだけど」
「何それ聞いてない!」
「言ってないもの」
「きゃ、キャリーヌの馬鹿! 何で言わないんだよそんなことー!」
夜中の屋敷にフィリップの叫び声が響き渡り、かんかんに怒ったフィオナが寝室に駆けつけてくるまで、あとほんの数十秒だった。
◇ ◇ ◇
「おはよう、フィリップ!」
「……おはよう」
「やぁねえ、旅立ちの日だって言うのに顔色が悪いわ!」
「誰のせいだかね……」
翌朝、元気よく食堂に入ってきたキャリーヌを、フィリップはじと目で見た。同じ時間まで起きていたはずなのに、彼女の方が顔色が良いのはどうしてなのか。昨夜、一緒にベッドの上に座らせられ、自覚が足りないとフィオナにこんこんと説教されたというのに、キャリーヌは清々しそうだ。
「今日は大事な日でしょ! たくさん食べないと! ほら、私の腸詰め少しあげる」
キャリーヌはそう言って、自分の皿にあった腸詰めを一つ寄越してくれる。しかし帰りに、フィリップの皿から野菜のマリネを奪っていくことを忘れない。フィオナが見ていたら絶対に怒られるところだが、彼女は今お茶を足しに行っていた。ここ数年でフィリップもキャリーヌも、フィオナの目を盗むのがずいぶんと上手くなってしまった。
口に入れた腸詰めは、キャリーヌと初めて食べた朝食のときと変わらない味で、フィリップは思わず微笑んだ。