いいえ
十五の誕生日を間近に控えたある日、キャリーヌは人生の岐路に立たされていた。
「どういうことですか! 僕は王立学園に行きたいなんて……」
「そうだな。こればかりは、お前の希望がどうであれ行ってもらわなければいけないんだよ」
「なぜですか。王立学園など行かなくても、僕はマクロル先生から十分な教育を受けています!」
珍しくフィリップが語気を荒げている。一緒に父親の執務室に呼ばれたキャリーヌは、少しヒヤヒヤしながら隣で話を聞いていた。フィリップはもうキャリーヌの身長を抜かしてしまった。初めは認めたくなかったその差は、みるみる間に大きくなっていき、今ではクッキー七、八枚分ほどになる。
ここ数年で、フィリップがなかなかに頑固な性格であることを学んだ父親は、軽くため息をつきながら言葉を続ける。
「その、マクロル先生からの薦めでもあるんだよ。マクロル先生は優秀な良い先生だが、より専門的な教育を受けるなら学園に行かなければ」
「そんな……」
「何より、先生が大事だと言っているのが人との関わりだ。家の中で学んでいるだけでは得られないものもあるだろう。別に人脈を作れとか、そういうことではないよ。色々な環境に身を置いてきた人と触れあって、より豊かな人間関係を育ててほしい」
父親の言うことには正しいところしかなくて、フィリップは言い返せずに唇を噛んだ。今のままではだめなのは、フィリップにも良く分かっている。ただ、あまりにも居心地のいいこの家から……何よりキャリーヌから離れるのが、嫌なのだった。到底口に出せるはずがない、甘ったれた本音だった。こんなことを言えば、誰よりも先にキャリーヌにバカにされるだろう。
一方、父親が困ったように目配せをしてくるのを、無視できなくなったキャリーヌは重い口を開いた。
「フィリップ、私も……私もね、マクロル先生に賛成なの。フィリップには、外に出て広い世界を知ってほしい」
「そんな……だって、キャリーヌはどうするの?」
フィリップは裏切られたような、切ない顔をする。その表情に胸が痛みながらも、キャリーヌはいずれフィリップがこの家を離れなくてはいけないことを分かっていた。先にこっそりと父親に相談されたときも、ああ、この時が来てしまったか、と思ったくらいなのだ。
「私はいいの。この家と、お店と、その周りだけで生きていくつもりだもの。でもフィリップは違うでしょう」
「……キャリーヌ、寂しくないの」
「もちろん寂しいよ。寂しくないわけないでしょう! けど、一度離れたからってもう会えなくなるわけじゃないし、家族じゃなくなるわけでもない」
そうでしょ? と聞くキャリーヌに、フィリップは不満そうな顔で頷く。キャリーヌはわしゃわしゃとフィリップの頭を撫でた。ここで機嫌が悪ければ手を振り払われるが、彼はそうしなかった。ひとまず、フィリップの気持ちは落ち着いたようだった。
父親が感心したように見ているのを目の端で睨み付ける。家の外ではやり手らしいのに、こと、家族のゴタゴタに関してはあまりうまい対処のできない彼だった。キャリーヌはその尻拭いを何度かしてきている。
「フィリップ、そろそろ先生が来てくださる時間だろう。よく話をうかがっておいで」
「はい」
「キャリーヌはここに残りなさい」
「はぁい……」
ちらりとキャリーヌを見てから執務室を出ていったフィリップを見送り、父親に向き直る。
「……ありがとう。どうも、私の言葉と君の言葉では、フィリップにとっては重みが違うようだな」
フィリップが出ていって、たっぷり五秒間経ってから父親が口を開いた。
「それはお父様が普段、家族との対話をサボってるからでしょ。本当に、いつも私が説得する係なんだから」
「いや、それについては……申し訳ないと思っているよ。本当に助かってる。君がフィリップとここまで仲良くなるとは思っていなかったが……嬉しい誤算というやつかな」
「そういう言い方、止めてくださる?」
「ああ、いや、すまない……」
ツンケンしたキャリーヌに、父親は押され気味だ。執務机の椅子を立った彼は、机の前に回り込んできてそこに寄りかかる。
「それでキャリーヌ、君のことなんだが……」
「はい。何でしょうか」
「これから夜会とかに出まくって結婚相手を探すのと、家でゆっくりするの、どっちがいいかい?」
「はあ?」
キャリーヌは思わず聞き返した。これは初耳だ。そのざっくりとした二択は何なのだ。
「そのままに受け取ってくれて構わないよ。うちは娘の結婚で家の格を上げようとか、商売を大きくしようとかは、考えていないから。そうする必要もないしね。だから、結婚相手を探すにしてもそういう打算は考えなくていい」
結婚? 結婚……!? 一体何の話なのか。唐突すぎる話に、キャリーヌはついていけなかった。
「でも君が、一生独身でいいと思っていても、それを養うのは問題ないから、家にいるのでも、どちらでもいいよ」
「そ、それは……今決めなくてはいけないのでしょうか」
「うーんそうだね、結婚するしないは別にして、夜会とかに出るようにするかどうかだけ、そろそろ決めてほしいんだ。そういう場に出るとしたら、もうデビューしなければいけない年ごろだからね」
「お父様……女子の社交の場へのデビュー年齢とか、ご存じだったのですね……」
キャリーヌは驚きのあまり全く関係のないところに突っ込んでしまい、父親が苦笑いをした。
「さすがにそのくらいはね。で、君の希望はどうなんだい?」
「夜会には行かないです。結婚は……まだ分かりませんが。あの、お父様。お願いがあるのです」
「ん? 何だい?」
「私を、お店に立たせてくれませんか。店員として、働かせていただきたいんです」
「はあ!?」
今度は父親が、目をむく番だった。
◇ ◇ ◇
コンコンコン。静かに響いたノックに、キャリーヌは「どうぞー」と軽い返事を返す。十中八九、フィリップだろう。夕食のときは父親もいた手前、何も話していなかったので、就寝前にフィリップが来ることは何となく分かっていた。お互い、悩んでいることや落ち込んでいることがあれば、寝る前にどちらかの部屋を訪ねるのがフィリップが離れから屋敷に移り住んできて以降の習慣なのだ。
少し離れた椅子に座り、繕い物をしていたフィオナは、キャリーヌのだらしのない格好──ソファの上で膝を抱えて本を読んでいた──を見て、顔をしかめて見せた。慌てて膝を下ろし、スカートの裾を直した瞬間に、フィリップが入ってくる。
「キャリーヌ……」
まるで雨に濡れた犬のように、どことなくしょんぼりとした様子に思わず笑いそうになり、キャリーヌは口を引き結んでそれをこらえた。自分が落ち込んでいるときもそうだが、相手とのテンションの相違が口喧嘩を生むこともある。そしてそれがいい方向に働くこともあるが、今回はそうは行かないだろう。
「フィリップ、マクロル先生とお話したのでしょうう? どうだった?」
フィリップに座るよう促しながら、キャリーヌは先手を打った。大人しくソファに座ったものの、なかなか口を開かないフィリップを、「ねえ」とせっつく。
「……先生と、話したよ。やっぱり学園を勧められた」
「そう。なんて仰ってた?」
「僕の深めたいこと、学びたいことは、先生の専門とは違うって……。環境が整っているところで勉強するべきだって。あと、何より、もっと人のたくさんいるところで過ごして、友人を作りなさいって、言われた」
フィリップは椅子の前の机に置いてある蝋燭を見つめながら、ぽつぽつと話した。キャリーヌはその言葉を、一つひとつ反芻して噛みしめた。フィリップには分かったような口を聞いて、学園行きを勧めたキャリーヌだったが、本当はそれを恐れる気持ちの方が大きい。フィリップのいる日常に、あまりに慣れすぎていて、彼がいなくなったらどうなるのか、キャリーヌにはまだ検討もつかなかった。
「フィリップ……約束を覚えている?」
「約束?」
「うん。あなたがお屋敷に移ってきて、最初の晩のこと」
「……覚えてるよ。僕は家の事業のためにも、いっぱい勉強するって言った」
「私は毎日お茶しに行くって言ったね。フィリップが学園に行ったら、お茶はできなくなるけど、毎日手紙を書くわ。どんなおやつを食べたのかも、詳しく書いてあげる」
キャリーヌは涙で潤いだした目をごまかすため、まばたきを数度した。
「それで、待ってるから、帰ってきてね。たくさん勉強して、色々なことを知ってから帰ってきて。すぐに逃げ帰ったりしたら、承知しない」
しばらくしてから、フィリップがふっと笑いだす音が聞こえた。
「キャリーヌは……ほんとに、厳しい姉様だよね……」
「何よ、人が真面目に話してるのに!」
「ごめん、でも……決心がつきそう。ありがとう、キャリーヌ」
そう言って、部屋に入ってきて初めて目を合わせたフィリップに、キャリーヌは自然と笑いかけた。