フィオナ・シャングレーの日常
午前十時過ぎ、朝食を食べてお腹がこなれてきた時分に、フィオナは屋敷の裏門の側に立っていた。
キャリーヌとフィリップは部屋で仲良く本を読んでいる。……と思いたいが、少し目を離すとキャリーヌがフィリップの髪の毛を編んで弄っていたり、フィリップが大胆すぎる筆致でキャリーヌの似顔絵を描いて彼女を怒らせていたりするので、安心はできない。まあ、喧嘩と言うほどのことには発展しないので、そこまでの心配もいらないが。
足元の草を見ながら、日除けに被った古い帽子のつばを何とはなしにいじっていると、きしむ音を立てて裏門の門扉が開けられた。
「……おや。フィオナさんですか?」
目当ての人物の声が聞こえる。フィオナは慌てて顔をあげて、無意識に帽子の下の髪の毛を整えた。
「マクロルさん、こんにちは。フィリップ様のお部屋が移動したので、案内に参りました」
「えっ! というと、まさかお屋敷の方へ……?」
「そうです。キャリーヌ様の部屋と近い場所へ移りました」
「そうなんですか! それはそれは、良かったですねえ。あっ、それはそうと、もしかしてずっとお待ちいただいてたんですか?」
「いえ、そんなに待っていませんよ。ご案内しますね」
実は二十分ほど待っていたフィオナだったが、そんなことを告げる気はもちろん無いので、笑顔でごまかす。フィリップの待遇改善を、マクロルが自分のことのように喜ぶのが嬉しかった。
「そうですか。ではすみません、案内をお願いします」
フィオナの斜め後ろについて、マクロルも歩き出す。裏門から屋敷のフィリップの部屋までは少し歩かなければならない。その距離を、いつもなら面倒と感じるフィオナだったが、今日は少し違った。
「キャリーヌ様が関係しているんですか?」
「はい?」
「今回の、フィリップ君の部屋の移動についてです」
「ああ、はい。そうなんです」
フィオナが軽く振り返りながら語る。そよ風が濃いすみれ色のドレスの裾を揺らし、初夏の庭にフィオナは花のように映えた。マクロルはそこで初めて、彼女がまだ若く、美しい娘であることに気がついた。
「先日、マクロルさんも一緒にお茶をした次の日に、キャリーヌ様が旦那様に直談判されて。それで取り急ぎ、フィリップ様の部屋が整えられたんです」
「それはまた、早業ですね」
「キャリーヌ様、かなり頑張ったみたいでした。私は立ち会わなかったのですけれど、後でフィリップ様が『キャリーヌ、かっこよかったよ!』って仰られているのを聞きました」
思い出しておかしくなったのか、口元を押さえて笑いをもらすフィオナを、マクロルは眩しく見る。以前会ったときには、真面目そうな女性という印象しか受けなかったが、こうして若い娘らしく笑っているフィオナはとても可愛らしい。
(──って、何を考えているんだ、私は!)
マクロルは慌ててフィオナから目をそらし、適当に質問をした。
「そういえば、フィオナさんはお若いのにキャリーヌ様付きとして働いているんですよね。大変ではないですか?」
一瞬で、フィオナの柔らかくほどけていた表情が強ばる。何気ないつもりで言った一言は、フィオナの何かに触れてしまったらしい。
「あ……」
まずい。そんなつもりでは無かったのに、嫌なところに突っ込んでしまったのか。マクロルが焦って何も言えないでいる間に、フィオナは幾分か冷静さを取り戻していた。
「まあ、そんなことを仰って、マクロルさんも随分とお若いではないですか。なのにフィリップ様の家庭教師をお一人でつとめているんですから、素晴らしいですわ」
「う……」
今度はマクロルがダメージを負う番だった。彼は別に、素晴らしい経歴や成果があったから家庭教師として雇われたわけではない。むしろ逆だった。本当なら今ごろ、家庭教師ではなく研究者として働いているはずだったのだ。職を失ってしまったところを、フィリップの父親に運よく拾われただけである。
「ははは……いやあ、私なんてね……」
「あ、いえ、嫌味などではありませんよ? 何やら失礼を……」
若干虚ろな目で笑い出すマクロルに、今度はフィオナが気に触ることを言ってしまったかと焦る。
二人は賑やかに屋敷まで歩いて行った。
◇ ◇ ◇
「失礼いたします。フィリップ様、昼食をお持ちいたしました」
フィリップが古典書の文法を習っているときに、フィオナが食事を持ってやってきた。どうやらキャリーヌも後ろにいるらしく、「一緒に食べよー!」と元気のいい声も聞こえてくる。それをたしなめるフィオナの声もセットになっていて、フィリップとマクロルは思わず顔を見合わせて笑った。
「どうぞ。入ってください」
文法書を閉じながらフィリップが声をかけると、扉が開いてワゴンに乗った食事と共に、フィオナとキャリーヌが入ってきた。フィオナはすみれ色のドレスの上に、濃い灰色の前掛けをしていた。キャリーヌは落ち着いた緑色のワンピースに身を包んでいる。白い刺繍入りのブラウスの襟が上品なアクセントになっていた。しかし格好はお上品でも、行動が少々元気がよすぎるのが彼女の問題だ。
「フィリップー! ずっと勉強してるんだもの! 会いたかった!」
「キャリーヌ様、大人しく座ってくださいね」
部屋に入るなりフィリップの元に駆けつけたキャリーヌは、たしなめる声も何のその、彼の腕を引きティーテーブルへ連れていく。この部屋には窓近くの勉強机の他にその机しか無いので、そこでの昼食となるようだ。
手伝おうとするフィリップを押し留め、フィオナとマクロルが若干ぎこちなく食事を配膳し、用意は整った。その間ずっとフィリップとおしゃべりしていたキャリーヌの、元気のいい「いただきます」によって、食事が始まった。フィオナとマクロルにも、一皿だけの簡単なものだが食事の用意がある。
少し背の低いテーブルでの食事は不便なものだったが、キャリーヌはもちろん、マクロルとフィオナも一緒に簡単な昼食を食べているのが嬉しくて、フィリップは思わずつぶやいてしまった。
「何だか僕たち、四人とも家族みたいですね」
「なっそんなこと!」
「そそそれはないよ!」
途端に鋭い声をあげ、その後顔を見合わせて頬を赤くしたフィオナとマクロルを、姉弟二人はいぶかしげに見るのだった。
◇ ◇ ◇
フィオナは固く絞った蒸しタオルで、キャリーヌの体をしっかりと優しく拭いてゆく。湯船にお湯を張ってお風呂にはいるのは二、三日に一度と決まっているが、少し暑くなってきたこの季節、キャリーヌの体はよく汗を拭かないとあせもが出てきてしまう。小さいころに酷く掻きこわしてしまったことがあると聞いていたので、フィオナは熱心に、どんな変化も見逃すまいと拭いていた。
「……キャリーヌ様、少しお腹が出ていませんか。お夕食後にクッキーを食べたでしょう」
「……食べてないよ」
誤魔化しているつもりなのか、妙に平坦な声でキャリーヌが答える。しゃがんだままキャリーヌの顔を見上げれば、その瞳はフィオナではなくあらぬ方向を見てうろうろとさ迷っている。これでは嘘をついていますと言っているようなものだ。
「キャリーヌ様?」
「……もう、なんでお腹見ただけでわかるの? ご飯を食べて膨れているのはいつもと一緒でしょう」
「キャリーヌ様、必ずお飲み物と一緒にクッキーを召し上がるでしょう? 膨れ具合で分かるんですよ、全くもう」
下着を履かせたフィオナはわざとらしくため息をつきながら、キャリーヌにばんざいをさせる。上からすっぽりと寝間着を着せて、足首近くまで裾を下ろしてから、体を拭いている間立たせていた敷き布の上からキャリーヌをどかした。
「フィオナって千里眼なの?」
「そんな訳ありますか。千里眼だったら、今の十倍はキャリーヌ様のことを叱らなくてはいけなくなります」
「わ! 私がそんなに悪さしてるって言うの!」
「まあ。心当たりが無いとは言わせませんよ」
「う……つまみ食いは、まあ、しないように気を付けるわ」
「太ってから困るのはキャリーヌ様ですからね」
そう厳しく言うと、キャリーヌはしょんぼりして口をつぐんだ。現在十二歳のキャリーヌは、どことなくふよふよとした、子供らしい体つきをしている。今はそれでも良いだろうが、もっと女らしい線が出てくる年ごろになって太ってしまったら、一番嘆くのはキャリーヌ自身だろう。そうならないように食べ過ぎは阻止しなくては、と考えているフィオナだったが、クッキーを美味しそうに頬張るキャリーヌからおやつを完全に取り上げてしまうのは、心を鬼にしても出来ない所業であった。
「さ、キャリーヌ様。寝る前にお髪をとかしますから。鏡台の前に座ってくださいな」
「はぁーい」
大人しく移動して、腰を下ろしたキャリーヌの髪の毛にブラシを当てる。麦わら色の豊かな髪の毛は、下ろしているとすぐに広がってしまうのが、本人は気に入らないらしい。本人曰く、フィリップみたいな金髪だったら様になるけど、くすんだこの色は可愛くないとのこと。フィオナは十分、可愛らしいと思うのだが。
地肌をマッサージするように優しくとかした後、フィオナはキャリーヌの髪の毛を一本の三つ編みにして左側にたらした。緩めに結って、跡がつきにくいようにする。
「はい、おしまいです。ベッドに行きますよ」
「うん……はぁい」
髪の毛をとかしている間に眠くなってしまったのか、とろとろとした返事をするキャリーヌの肩を支えて立たせる。そのまま歩きながらベッドまでキャリーヌを連れていき、横たわらせてから薄手の毛布を肩まで引き上げる。
「フィオナ……お休みなさい。また明日……」
「はい、キャリーヌ様。お休みなさい」
つぶやきながらすでに眠りに入っているようなキャリーヌの頭を、フィオナは優しく撫で付ける。閉じた瞼と睫毛、ふっくらとした頬に少し開いた唇。愛らしいキャリーヌの寝顔をしばらく見つめて、規則的な寝息が聞こえてくるのを確認してから、フィオナはベッドの脇に置いてあった蝋燭を手に取った。
静かにキャリーヌの部屋を出たフィオナは、二つ飛ばして隣のフィリップの寝室に入る。フィリップはもう寝間着に着替えて、蝋燭の灯りで日記を書いている最中だった。
「フィオナさん。すぐ終わります、少し待ってください……」
「はい。大丈夫ですので、ごゆっくりどうぞ」
フィオナは微笑んで答えると、持っていた蝋燭をフィリップのベッドの横に置く。汚れものの服を回収し、水差しの水がたっぷりと入っていることを確認した辺りで、フィリップが日記を書き終えた。
日記をしまい、一人でベッドに潜り込んだフィリップのお腹をぽんぽんと叩く。
「フィリップ様。 こちらの部屋に移られてから、不便なことはございませんか」
「ふふ……ないです、大丈夫です。キャリーヌの言った通りだあ……」
「キャリーヌ様が何か仰られてたんですか?」
「はい。僕に、気になることがあったら何でも言っていいんだよ、って言ってくれました。でも僕、十分すぎるくらいに良くしてもらってます」
「そうですか……キャリーヌ様は主に、食べ物に関してわがままですからね。フィリップ様も、お好きなものがあったら言ってくださいね」
フィオナはフィリップのお腹を撫でながら、優しく言った。
「はい。……じゃあ僕、果物がたくさん乗ったタルト、食べてみたいです。キャリーヌが甘くて酸っぱくて、とっても美味しいって言ってました……」
フィリップが目を閉じたまま言う。頭の中で想像しているのか、にこにこと笑いながらだ。フィオナは思わず笑って、「分かりました」と答えた。
食いしん坊の姉に見習って、この子もたくさん美味しいものを知ればいい。美味しいものを好きな人と食べると、もっと美味しくて、幸せになれることを知ればいい。フィオナはそこまで考えて、何故か今日の昼、マクロルとキャリーヌ、フィリップと食べた昼食を思い出したのだった。