そうとは限りません(2)
離れに二時間ほどお邪魔した後、キャリーヌとフィオナは屋敷に戻ることにした。奥まった離れを出て庭を歩く道すがら、キャリーヌがぽつんと言葉を落とす。
「フィリップって、あの、家庭教師のマクロル先生が来てくれる日以外は、ほとんど一人ぼっちなんだって」
「……はい。そのようですね」
キャリーヌがぱっと顔をあげる。
「フィオナは? フィオナは知ってたの?」
「話には、聞いておりました。けれど詳しい事情は存じませんでした……積極的に関わろうと、していなかったので」
キャリーヌはしゅんと眉尻を下げ、また俯いた。庭に敷き詰められた石畳の上を歩きながら、フィオナはキャリーヌのうなじを眺める。キャリーヌの麦わら色の髪の毛は、今日は上品にうなじの上でまとめられている。キャリーヌの髪の毛をいじるのはフィオナの役目だ。初めの頃は量が多くて簡単なお団子にするのも大変だったが、今では慣れたものだった。……フィリップには、こういう風に髪型や服装を気にして整えたり、わがままをたしなめたり、気軽に話をする相手がいなかったのだ。それはどんなに、寂しいことだったのだろうか。
キャリーヌの頭の中には様々な考えが渦巻いていた。まずは明日、フィリップに会いに行って彼の意思を確認しなくては。キャリーヌは、フィリップを取り巻くこの状況を、変えたいと考えていた。
◇ ◇ ◇
「おはよー!」
コンコンコン! と元気のいいノックと共に響いた声に、朝の日課である離れの空気の入れ換えをしていたフィリップは飛び上がって驚いた。聞き間違いでなければ、昨日一緒にお茶をしたばかりの姉の声だ。フィリップは慌てて玄関までかけていき、勢いよくドアを開ける。
「あ、フィリップ。おはよう」
ドアの向こうに立っていたキャリーヌは、そう言ってにっこりと笑った。今日はクリーム色の地に水色の小花柄のワンピースを着ている。フィリップははあ、と肩を脱力させた。
「キャリーヌ……びっくりしたよ」
「朝早くから、ごめんね。朝食を一緒にいただこうと思って!」
その言葉にまた驚いたフィリップが顔をあげれば、キャリーヌの後ろにはつい昨日名前を知ったフィオナが、お盆を持って立っていた。フィリップと目が合うと、微笑んで腰を折ってくれる。
「フィオナさんも、おはようございます……。とりあえず、中へどうぞ」
「ありがとう!」
「失礼いたします」
キャリーヌが元気よく、フィオナは持っているお盆にも気を使って静かに、離れに入ってくる。フィリップは二人を、昨日と同じ応接間に通した。
フィオナが持っていたお盆を机の上におき、被せていたふたを取ると、そこには小さなお鍋に入った野菜スープと、ゆでたまご、腸詰め肉、パンが乗っていた。
「フィリップ様、食器を借りてもよろしいですか?」
「あっはい、大丈夫です。というかあの、僕が準備します……」
「いえ、私が用意しますのでお座りになってお待ちください」
フィオナはフィリップに微笑むと、さっと応接間を出ていった。落ち着かなげにソファに座るフィリップを見て、キャリーヌは少しぎこちなく笑った。
「突然来て、ごめんね。話したいことがあったものだから。とりあえず、一緒にご飯をいただきましょう。家族の第一歩だと思うの」
「家族の……?」
「そう。私、フィリップと、本当の家族になりたいから……」
キャリーヌは緊張していた。ほうと息を吐いて、かすかに震える唇を噛みしめる。窓から入る朝の光がキャリーヌのまるい瞳に反射して、きらきらと水面のような輝きをたたえていた。向かい合わせに座っていたフィリップは急に、一昨日初めて顔を会わせた腹違いの姉を、可愛らしいと思った。そして同時に、からかいたくもなった。
「どうしようかなあ」
「えっ?」
「だって僕、キャリーヌにまだ『許す』って言ってないもんなあ」
「え? あ、あああ、それは!」
一昨日の自分の言葉を、どうやらすっかり忘れていたらしい。途端に慌て出したキャリーヌを見て、フィリップはやっぱりな、と思う。やっぱり、可愛らしいな、と。
「お茶くらいなら良いけど、僕、嫌がらせしてた人と家族になるのはなあ」
「ええっ! フィリップ、ごめんなさい、本当に反省してるの… … 。許してもらえない?」
フィリップは口元がにやけないようにするので必死だった。昨晩からフィリップとの今後を考え込んでいたキャリーヌは涙目で言いつのる。些か思い込みの激しいきらいのある彼女は、フィリップの冗談をすっかり信じこんでしまっていた。
「ええー、どうしようかなあ」
「うう、ごめんなさい。そこを何とか」
「うーん……」
「フィリップぅ……」
キャリーヌはソファから身を乗り出して祈るように指を組んだ。もはや隠しきれていないフィリップのにやけにも、気が付かないようだ。
しばらくしてスープ用の食器とお茶を用意して応接間に戻ってきたフィオナは、にやけながら唸るフィリップと涙目で指を組むキャリーヌを見て、目を白黒させるのだった。
「キャリーヌ、ごめんってば。許してよ」
少し困った顔のフィリップが、手にした野菜スープのカップを机に置きながら言った。向かいに座ったキャリーヌは、むくれた顔をして咀嚼していた腸詰めを飲み込む。少し香辛料のきいた腸詰めはキャリーヌのお気に入りだ。どうやら初めて食べるらしいフィリップも、ひとくち口に入れては顔をほころばせていた。
「……別に、怒ってないよ」
まだ少しむすっとした顔のまま、キャリーヌは呟く。
「取り乱しちゃったから、恥ずかしいだけ」
ほんのり顔を赤くして、そっぽを向いたままそう言ったキャリーヌに、フィリップとフィオナはほっとして頬を緩めた。今ではすっかり、フィリップもキャリーヌに対して砕けた口調で話すようになっている。キャリーヌはキャリーヌで、元々はもっとすました話し方をしていたのが、弟という、屋敷の中でもっとも対等に近い立場の人物に出会って、年相応な話し方に変化してきている。フィオナはその変化を微笑ましく思った。
「もう、フィリップが茶化すから忘れちゃってた。大事な話をしに来たのに」
「そう言えばそんなことを言ってたね。ごめん、キャリーヌが可愛いからうっかりからかいたくなって」
「 昨日の今日で、もう私のことをからかうようになるなんて、生意気だよ」
そうなのだ。昨日はまだまだ遠慮がちな部分のあったフィリップだが、今日はずいぶんと親しげで人懐こい印象だった。
「それでね。話したかったのは、あなたの今後のことなの」
「僕の?」
「うん。フィリップも私と同じように、屋敷で暮らせたらいいなぁと思って。離れに一人ではなくて」
「……僕が、お屋敷で?」
「そうよ」
キャリーヌが真面目な顔で頷く。フィオナは朝食を二人分用意させられた段階で、キャリーヌがどういった話をするつもりかは聞いていた。が、キャリーヌがどうやってそれを実現させるつもりなのかは、いまいち見当がつかないでいた。
「そういう話、お父様からは聞いてない?」
「……うん。全然」
「やっぱりね。最近思うのだけど、お父様は家の中のことに関しては面倒くさがりなのかもしれない」
「そうなのかな?」
「うん。だから──直談判するの」
キャリーヌは力強く言った。握りこぶしまで作って、強い意思をこめた眼差しでフィリップを見つめる。フィリップはたじろいだ。
「……う、うん」
「そういう訳だから。食べ終わったら行きましょう」
「ええっ?」
「キャリーヌ様? いくらなんでも急すぎませんか?」
「思い立ったら実行! 今の時間ならお父様はまだ屋敷にいるから、早く向かうわよ!」
キャリーヌは慌てる二人を尻目に、食事の終わった食器を重ねて持つと、勝手まで持っていった。フィオナが慌てて後を追いかけ、フィリップは飲みかけの野菜スープを少々行儀悪く流し込んでその後を追う。勝手の流し場に食器を置き、危なっかしい手つきで洗おうとするキャリーヌを、フィオナが慌てて止める。
「キャリーヌ様、私がやりますから! お止めください!」
「……じゃあ、お願いするわ」
キャリーヌはそのまま勝手を出て行こうとして、入り口の所で追いかけてきたフィリップと鉢合わせた。何も言わずに、フィリップが手に持っていた食器を取って作業台の上に置くと、キャリーヌは彼の手を引いて離れの玄関へ向かう。
「キャリーヌ待ってよ、急すぎるよ。いきなり行ったらお父様にも怒られるし……」
「いいの、怒られても。今行かなかったら踏ん切りが付かなくなるし、後悔するもん」
「でも……」
「フィリップ、お願い!」
キャリーヌは離れの玄関口で足を止め、フィリップを振り返った。いつの間にか、キャリーヌの目には涙が盛り上がっていた。すすり上げるのを我慢しているのか、丸っこい団子っ鼻がひくひくしている。そんな気配はなかったはずなのに、今にもこぼれ落ちそうなキャリーヌの涙にフィリップは度肝を抜かれて立ち止まった。
「お願い、今までの私を許してくれるなら、これからは私と同じ暮らしをするって、言って。じゃないと私は、後悔と自己嫌悪でどうにかなっちゃいそう。少しでもわたしのことを家族だと思えそうなら、お願い……。私はフィリップのこと、弟として、大事にしたいの……」
キャリーヌは涙をぽろぽろと流しながら訴えた。要するに、自分が今までフィリップにしたこと、そして逆にしなかったことに思い悩まずにすむように、離れに一人ぼっちのこれまでとは全く違う生活をしてくれと、頼んでいるのだった。キャリーヌのお願いは自分勝手と言えなくもなかったが、フィリップは嫌になるどころか、嬉しいと思った。彼女が楽になるためだとしても、自分を弟と言ってくれたことが嬉しかったのだ。
「うん、分かった。別に僕、キャリーヌと一緒に屋敷で暮らすの嫌じゃないよ。でもとりあえず、お父様に話しに行く前に泣き止んで」
フィリップはなかなか涙の止まらないキャリーヌの肩を、優しく撫で擦った。涙に濡れた彼女の睫毛を見ながら、不思議と温かい気持ちになっていった。