そうとは限りません(1)
コンコンコン。離れの入口の方から響いたノックの音に、フィリップは少しゆるんでいた背筋をピッと伸ばした。離れは平屋建てで、部屋数も少ないので入口で音がするとすぐ分かるのだ。向かいでお茶を飲んでいた家庭教師のマクロル先生が、おや? という顔をする。
「お客様ですか?」
「そうだと、思います。僕の姉様……キャリーヌ、が、お茶の時間に来ると昨日言っていました」
「キャリーヌ様と言うと……、何度かここに悪戯を仕掛けていた?」
「はい。昨日の夜、いじめていてごめんと、謝られました。……あの、先生、キャリーヌと一緒にお茶してもいいですか?」
「もちろんですよ。私はお暇した方がいいですか?」
「いえ! あの……」
コンコンコン! 焦れたようにもう一度ノックが響く。今度は腰を浮かせて、入口の方を見やったフィリップが、少し慌てたように付け足す。
「あの、一人は少し緊張するので、先生もいてください」
「ああ、分かりました。ではお出迎えしましょうか」
「はい!」
パタパタと嬉しそうにかけていくフィリップを見ながら、マクロルは少し驚いていた。今まで自分と話している時は、笑うことはあってもどこか寂しそうな表情を覗かせることが多かった。理由はもちろん、こんな離れにほとんど一人でぽつんと暮らしているからなのだが、年相応に浮き立つフィリップを見て、マクロルは改めて、彼がまだまだ子どもであったことを思い出した。
と同時に、今までフィリップをいじめていたというキャリーヌを、少し警戒する気持ちもあった。まあいじめと言っても、大したものでは無かったことは知っている。フィリップが困った顔をしながら差し出した、明らかに失敗したぐちゃぐちゃの花輪を見たときは、思わず笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
後ろにマクロルがいることを確認したフィリップが、恐る恐るドアを開けると、そこには赤とオレンジの格子柄のワンピースを着たキャリーヌが、仁王立ちして待ち構えていた。
「フィーリップ! 遊びに来たよ!」
「うぐっ」
フィリップの顔を見た途端、キャリーヌは勢いよく彼に抱きつく。飛び付くと言っても良い勢いだった。
「キャリーヌ様!」
フィオナが焦ったような声を出す。体格ではキャリーヌの方が勝っているため、ほっそりとしたフィリップが勢いに負けて後ろに倒されてしまいそうに見えたのだ。
「キャ、キャリーヌ……ちょっと苦しいよ」
「あっ! ちゃんと姉様じゃない!」
キャリーヌは一度手を離してから、フィリップの頬を両手で包み、柔らかさを堪能するようにふわふわと揉んだ。フィリップは混乱してどうにも動けないのか、されるがままに頬を揉まれている。
「キャリーヌ様! お茶をしに伺ったのではなかったのですか」
余程高揚しているのか、止まないキャリーヌの奇行を見かねてフィオナが口を挟む。
「そうですよ。お茶をご用意しますから、お二人とも中へどうぞ」
マクロルも後押しするように言葉を重ねる。キャリーヌははーいと返事をして、フィリップの手を引っ張るように奥へ入っていった。あんなに押しの強い子だっただろうか。
「あなたも、奥へどうぞ」
柔らかい声がフィオナにかけられる。そこでフィオナは初めてちゃんと、マクロルの顔を見た。柔らかそうな黒髪をところどころ跳ねさせながら優しく微笑む男に、フィオナはぎこちなく微笑み返す。
「初めまして、私はフィリップ君の家庭教師です。マクロル、と申します」
「あ、私はフィオナといいます。キャリーヌ様のお世話をしております。……あの、お茶でしたら私が用意します。お勝手の場所を教えていただければ……」
「良いんです。あなたもお客様なのですから、座って待っていてください」
にっこりとそう言われてしまえば、もうフィオナが手出しをすることはできなかった。けれどせめてもの抵抗として、お茶の準備に向かうマクロルについていくことにする。持ってきたクッキーの準備もあるし、何もせずに座っているのは居心地が悪い。
それにしても、とフィオナは思う。家庭教師だと言うから、女性か、もう少し年配の男性かと思っていたが、マクロルは世間で言うところの若者の年頃に見えた。まあ、明らかに室内に引きこもりがちな研究者といった出で立ちだったので、一般と比べても意味は無いのかもしれないが。
フィオナがついていった先は小さな台所だった。作業台と食器棚(中には申し訳程度の地味な食器しか入っていなかった)と流し、火の元がひとつあるだけだった。キャリーヌ達が入っていったのは隣の応接間のような部屋らしい。姿が見えなくなったとは言え、元気のいいキャリーヌの声とフィリップの大人しい相づちが聞こえていたので、心配は特に無かった。
「キャリーヌ様は元気が良いんですね」
「あっ、はい。そうですね。今日はフィリップ様とお茶するのを楽しみにしていたみたいで、朝からそわそわしていました」
「はは、お会いしたのは初めてですが、何となく想像できます」
「そうですか。今朝、開口一番に離れにお茶をしに行くと聞いたときは驚いたのですが、フィリップ様も嬉しそうで良かったです」
「私も嬉しいですよ。フィリップ君は毎日寂しそうでしたから」
置き火になっていた火を起こし、水のたっぷり入ったやかんをその上にかけ、ティーポットと茶葉を手際良く用意しながら、マクロルは気さくに話しかけてきた。話す内に、フィオナも気が楽になってきた。キャリーヌが乗り気なだけで、離れの住人であるフィリップや家庭教師のマクロルに煙たがられていたらと不安だったが、そうでもなさそうだ。
「ところでフィオナさん、そのお荷物は? 目を離しても大丈夫なものならここに置いておいてはどうですか?」
「あっ、そうでした。これ、キャリーヌ様の好きなお菓子なんです。今日のお茶菓子に持ってきたんです」
「おや、それはありがたいですね」
フィオナはずっと手に持っていたクッキーの缶を作業台の上に置いた。素早く包んでいたハンカチを外して、缶の蓋を開ける。
「あの、なにかお皿を貸していただいても……?」
「もちろんです。ちょっと手が離せないので、棚から適当なのを出してもらえますか。お茶菓子なんてここには滅多にないので、ありがとうございます」
「とんでもないです、押しかけたのはこちらですから」
マクロルがやかんから器用にティーポットにお湯を注いでいる間、フィオナは食器棚の物色をする。クッキーは五種類入っている。マクロルがティーカップを四客用意しているので、一応四人分出すとして、少し大きめのお皿が良いだろう。本来なら一人分ずつ分けて用意した方が良いのだろうが、あいにく四枚揃いの皿は無かったので、大きな白い皿を一枚出す。
ドライフルーツの乗ったもの、ナッツの混ざったもの、バターが多めのサクサクしたもの、堅めに焼いたもの、しっとりほろほろの食感のもの、それぞれのクッキーをお皿の上に置いていく。キャリーヌのお気に入りは見た目がにぎやかで可愛いドライフルーツ乗せのもの、フィオナのお気に入りはしっとり食感のものだ。けれど基本的にどの種類も美味しいので、フィオナは毎回大きな缶で用意するようにしている。
茶葉を蒸らしてカップに注ぐまでの間に、マクロルはフィオナに色々な話をした。主に、離れで暮らすフィリップのことだ。
今ではお茶を用意するのはマクロルだが、家庭教師を始めた当初はフィリップが一人で火を扱い、お茶を入れていたこと。屋敷から食事が用意されるのは朝と晩のみで、それ以外は我慢するか、運が良ければ優しい使用人が持ってくるパンやビスケットを食べていること。茶葉はあるが、菓子類は一ヶ月に一、二度訪れる父親がお土産にくれたものだけだということ。
予想以上に冷遇されているフィリップの状況に、フィオナは驚いた。今思うと、屋敷の中で一番フィリップと遠い場所で過ごしていたのはキャリーヌだったのだろう。そしてそのキャリーヌの世話が、フィオナの仕事だったのだから、フィオナが細かい事情を知らないのも無理はなかった。けれどフィオナもやはり後悔した。なぜ今までフィリップを知ろうと、関わろうとしなかったのだろうと。
◇ ◇ ◇
フィオナとマクロルが簡素な応接間にお茶とクッキーを運んできたとき、キャリーヌとフィリップは背比べをしている最中だった。
「やっぱり! 私の方が、クッキー四枚分は大きいわ!」
「僕の方が半年遅く生まれたんだもん、小さくてもしょうがないんだ」
フィリップは少しいじけたように呟く。キャリーヌはそんなフィリップの金色の頭を撫でながら、あっけらかんと言った。
「これから毎日比べればいいんじゃない? そのうちフィリップが、クッキー十枚分くらい大きくなると思うよ」
「そうかな……! 僕、大きくなれると思う?」
「うん! フィオナが言ってたよ、手と足が大きい子はよく育つって! フィリップったら顔は女の子みたいなのに、手は大きいもんね~」
「僕、女の子じゃないよ……」
またまたいじけてしまったフィリップに、キャリーヌがけらけらと笑いだす。一連のやり取りを見ていたフィオナは少しハラハラしたが、いじけた顔を保てなくなったフィリップが一緒に笑いはじめたのを見て、安心したのだった。