とってもとっても、
一度失ったものを取り戻すのは難しい。それが、人の気持ちであればなおさらのこと。
病み上がりの体で、ジダンはエルシック家の書斎に呼ばれていた。遺跡で受けた傷はまだ少し痛む。が、客室をもらい、看病してもらっているだけマシだとジダンは思った。屋敷を追い出されてもおかしくないことをしてしまったのに。
「私は君を信頼してこの屋敷に招き、君が調査探索隊に入れるよう口添えをしたんだ。分かるね?」
「はい」
ジダンは直立不動のまま答えた。これがきっと、今までの人生で受けた叱責の中で一番重いものだろう、と考えながら。
「それなのに、探索は全うできない、娘は泣かせるんじゃ……」
エルシック家の当主──キャリーヌの父親が、ジダンに背を向けたまま首をすくめる。やけに芝居がかった動作だ。彼はそのまま振り返り、ジダンを見つめた。
「残念だよ。本当に、残念だよ。探索隊に推薦する条件として君が申し出てくれたことだが……。君が上級資格を取得したのちに、この街を拠点として活動するという話。あれは無しにしよう」
「えっ……」
「こうなる前は有難い話だと思ったよ、私も。だが、こんな結果になってしまってはね……。幸い書面にも残していない口約束だ。君のような探索家は、この街にいらない。学園を卒業後は自由に活動してくれたまえ。この街以外なら引く手あまただろう」
キャリーヌの父親はそれだけ言うと口をつぐみ、また背を向けた。もう何も言うつもりがないのだ。端から見れば、将来この街に縛り付けられるはずの約束が反故になっただけかもしれない。しかしジダンには、これが『娘に近づくな』という意味で発された言葉なのだと分かった。
最後にもう一度振り返らない背中に向かって謝罪をしてから、ジダンは書斎を出た。頭の中では、つい先日のキャリーヌを思い出しながら。
目が覚めて客室の綺麗な天井が見えたとき、ジダンを襲ったのは自分への失望だった。失敗したのだ。
自分から願い出て、半ば無理に入れてもらった調査探索隊だと言うのに。難易度からしても、ジダンが今まで経験してきた遺跡とさほど変わらない。自分なら難なくこなせると思っていた。
しかし結果はどうだろう。曖昧な記憶を辿れば、ジダンはどうやら新階層に降り立った直後に罠にかかったようだ。何も成していない。周囲に迷惑をかけただけだった。
「気がついた……?」
まだぼんやりとしている意識に、細く震える声が聞こえる。キャリーヌの声だ。彼女はジダンの側に来て、手を握った。柔らかく温かい手から、ジダンを気遣う気持ちが優しく伝わってきた。
ぼんやりとキャリーヌの顔を見れば、何度も泣いたあとのような赤い目を細めて、安堵の表情で笑っていた。
その温かさを、確かに心地よく感じたはずなのに、ジダンは彼女の手を握り返せなかった。口からこぼれ落ちていく言葉は八つ当たりでしかなかった。キャリーヌは、ジダンの言葉に身も心も強ばらせてしまった。
思い返せば、そんな取り返しのつかない状況にありながら、ジダンは今までになくキャリーヌのことをじっくりと見ていた。部屋を出ていく前のキャリーヌの表情が、ジダンの脳裏に焼き付いている。
彼女の上気した頬に、潤んだ目に、強い言葉を言うまいと引き結ばれた唇に、ジダンはときめきのようなものを覚えたのだ。それが確かなものになり、口から飛び出る前に、キャリーヌは去ってしまったが。
与えられた客室に向かいながら、ジダンは廊下の窓越しに景色を眺めた。いつだったか、初めてこの屋敷に来たときに、キャリーヌとフィリップと三人で歩いた庭が見える。
あのときのキャリーヌに感じたのが、物珍しさや好奇心なのだとしたら──今は確実に、違う気持ちで彼女を見ているのだ。
ジダンはやっと自覚した。
自分はキャリーヌが好きなのだ。昨日の、怒って泣きそうなキャリーヌに感じたのは、紛れもない恋のときめきなのだ。
ジダンが一年以上かけて掴んだ、自分の本心だった。
書斎でキャリーヌの父親に解雇通知のようなものをされてから二日後、ジダンは屋敷を発つことになった。遺跡での怪我が長時間の移動に耐えられる程度に回復するまでは、滞在を許されたのだ。
その親切さはありがたかったが、ジダンは予定外に長い滞在になってしまったことに焦りを感じていた。屋敷にいるのにキャリーヌと全く顔を合わせないことも、少なからず焦りに繋がった。
彼女に避けられていることがよく分かったからだ。そんなことはないだろうと願いつつも、キャリーヌにもう自分への想いが無かったらどうしようと考えていた。
そうして、ごくごく大人しくエルシック家の屋敷を出たジダンは、王都行きの馬車に乗り込む前にキャリーヌに会いに行った。
不意を突かれた表情で出迎えてくれたキャリーヌは、どこかやつれているように見えた。うぬぼれでなければ、それは彼女が自分に振り回された結果なのだ。そう思い至って、ジダンは、反省よりも先に喜びを感じた。
簡単に引き寄せることのできたキャリーヌは、潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。頬が少し赤くなっている。ふんわりと切り揃えた前髪の隙間から、困ったように下がる眉毛が見えて、ジダンは堪らなくなった。
見た目の可愛さだけで言えば、キャリーヌよりも可愛い女の子なんてごまんといるのだろう。それこそ彼女の異母弟であるフィリップの方が、『可愛い』『美人』という単語にはしっくりくるくらいだ。
なのに何故、彼女に惹かれてしまうのだろう。ジダンは何度目かになるその問いに、心の中でやけくそ気味に答えた。
(知るか! キャリーヌはどうしてか可愛いし、更に言えば見た目だけが彼女の魅力じゃないんだ。もう考えたって仕方ない)
ジダンはやけくそなままキャリーヌに口づけようとし、寸でのところで口の端、ギリギリ頬と言える位置にキスをした。同意を得ないまま唇にキスしたなんて知れたら、フィリップを始めとするキャリーヌの周囲の人々に何をされるか分かったものじゃない。
こんなにどきどきするキスは久しぶりだとジダンは思った。初めてしたときと同じくらいかもしれない。女の子と遊ぶのは楽しくても、胸が高鳴るような心地はもうないと思っていたのに。
顔を離して、驚きに目を見開くキャリーヌを見つめながらジダンは笑った。こんなどきどきを、キャリーヌもずっと抱えていたのだろうか。
◇ ◇ ◇
キャリーヌに会って、浮かれたまま王都の学園に戻ったジダンは、フィリップの拳に出迎えられた。言葉を発する間も与えられないそれをジダンは正面から受けた。控えめに音がなり、足元が少しふらつく。
人を殴りなれていない彼の一撃はさほど痛くなかったが、それを口にするほどジダンは馬鹿ではなかった。拳を避けずに大人しく殴られたジダンを、フィリップも分かっているのだろう。『まだ許していないぞ』という表情のまま差し出された彼の手を、ジダンは苦笑いしながら握った。
「……悪かった。俺が全面的に悪いよ。けど、これから挽回する」
「できるのか」
握った手をぱっと離しながら、フィリップが鼻を鳴らして言った。
ここまで不機嫌な──と言うよりは、怒っているフィリップを見るのは、学園で一番彼と仲が良いと自負しているジダンでも初めてだ。ジダンが初めてなのだから、周囲ももちろんそうなのだろう。たまたま二人のやり取りを見てしまったらしい学生は、驚いた顔をしていた。
「挽回するさ。キャリーヌは俺のこと、嫌いにはなってない」
「どうだかな。離れて冷静になってみて、お前みたいなふらふらしてる奴には愛想つかすんじゃないか」
ジダンがキャリーヌの名前を出すと、フィリップは苦虫を噛み潰したような顔になった。その口から彼女の名前を聞きたくないとばかりに、顔を背けて歩き出す。随分と顔に表情を出すようになったな、と半ば感心しながらジダンは彼を追いかけた。二人は並んでずんずん歩き、それぞれが生活の場とする寮の一室に向かった。
「大体お前、キャリーヌにちゃんと言ったのか?」
「いや……次に会いに行くときにしようと思って。改めて、親父さんにも頭を下げに行くつもりだ」
「ふぅん……果たして、そんな暇があるかな」
「何だよ、その言い方は」
フィリップの思わせ振りな言葉の意味はすぐに知れた。たどり着いた寮室の扉に、張り紙がしてあったのだ。
『ジダン・エンバーダ 一ヶ月の奉仕活動従事と講義への"まともな"出席を命ずる。これを破った場合、貴殿の探索科修了認定はないものとする』
末尾には、ジダンが専攻する科の教授によるサインが書き殴られていた。横で見守っていたフィリップが堪えきれずに笑いをもらす。
「何だよこれ!」
ジダンの情けない声が、寮の廊下に響き渡ったのだった。
◇ ◇ ◇
張り紙が脅しではないことを、ジダンはその後身をもって知った。
紙を見てすぐに教授の元へ弁明しに行ったジダンは、張り紙と全く同じ事を言われてすごすごと帰ってきたのだ。
寮室で優雅にお茶を飲んでいたフィリップは、意気消沈の体のジダンをちらりと見てどこか嬉しそうにしている。憎らしいその様子に、ジダンは突っかかる気力もなかった。せめてもの反抗として荒っぽい音を立てて彼の向かいに座ると、何も言わずにお茶を用意してくれたので、結局文句は言えなかった。
その翌日から、ジダンは『奉仕活動』として教授の雑用係に身をやつした。講義で使う大小様々な道具を運ばされたり、教授の嗜好品である茶菓子や雑誌を買いに行かされる日々だ。
もちろん自分が登録している講義にも出席しなければいけないので、小遣い稼ぎに遺跡に行く暇もなかった。
フィリップが言っていた通り、キャリーヌに会いに行く時間は全くなくなってしまったのだ。
「なぁ、お前最近キャリーヌに手紙書いてるか?」
「……書いてるけど。何だよ、急に」
「いや……。キャリーヌに何度か手紙送ってるんだけどさ、返事が来ないんだよな」
ジダンはため息をついて、向かいに座るフィリップの臥せた瞼を見た。綺麗な弧を描く金色の睫毛を見ながら、キャリーヌの丸い目と、その周りを縁取る少し短めの睫毛を思い出す。彼女のあの丸い目が、優しく細められるのを見たい。柔らかそうな頬が持ち上がって、にっこりと顔全体で笑うキャリーヌはそれはそれは可愛いのだ。
「さあ……何でだろうな」
フィリップのそっけない返事が聞こえ、ジダンは意識を現実に戻した。親友の顔から、姉であるキャリーヌの笑顔を想像していた自分が恥ずかしくなる。
しかしそれは別として、それ以上何も言おうとしないフィリップの様子に、ジダンは引っかかりを覚えた。
(手紙……キャリーヌに届いてないのかもな)
どの時点で介入されているのかは分からないが、おそらく手紙はキャリーヌにすんなりと届いていないのだろう。でなければ、長短合わせて七通ほど送った手紙全てを、キャリーヌに無視されていることになってしまう。
(いやいや、流石にそれはない──と思いたいな)
ジダンは頭をがしがしと掻いた。
こんなことで悩むのは初めてなのだ。遊んでいた女の子が引いていってしまったときは、すぐ次に行くのがジダンだった。それが、何度も同じような内容の手紙を書いたり、返事が来ないことにいつまでもやきもきしたりするなんて、一年前のジダンが聞いたらさぞかし笑うことだろう。格好悪い男だと言って。
「それよりお前、時間いいのか。そろそろ講義だろ」
フィリップが顔を上げながら言う。ジダンが慌てて懐中時計を確認すると、教授の講義の準備を手伝う時間が迫っていた。
「やっべ。ありがとな、俺もう出るわ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
手元の参考書に目を落としたまま、フィリップが手をひらひら振った。鞄を引っ付かんだジダンは、「また夕飯でな!」と声を掛けて寮室を出る。学生の寮から教授の部屋がある棟までは、中々の距離がある。講義のない上級生達がまばらにうろつく中を、小走りで駆けていた時だった。
その、声がしたのは。
「ジダン、ジダン!」
ありえない声を聞いた気がして、ジダンは足を止めて周りを見渡した。
「ジダン! ああ良かった、やっと見つかった」
左を見ると、ほんの十歩ほどの距離に、キャリーヌが立っていた。襟元がきらきらと光るブラウスに、柔らかな水色と茶色の格子柄のスカート、丸い爪先の茶色いブーツ。黒っぽい学園指定のローブを着ている学生がほとんどの中で、彼女は浮いて見えた。
「あなたが中々来てくれないから、私が会いに来たの」
キャリーヌ自身も浮いていることを感じているのか、恥ずかしそうに頬をばら色に染めて、そんなことを言う。ジダンは自分の見ているものが信じられなかった。
「ねえ、何とか言ってちょうだい。……それとも、やっぱり私には会いたくなかった……?」
動かないジダンに不安になったのか、途端にキャリーヌの眉毛が可哀想なほど垂れた。それを見た瞬間、ジダンは弾かれたように動いて、キャリーヌを抱きしめていた。
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