……あれ?(2)
逃げることは解決にはならない。ここ数日、キャリーヌの頭にずっとこだましている言葉だ。
(分かってるけど……)
キャリーヌは顔を埋めている枕を殴った。もう一度。柔らかい枕に、こぶしは力なく沈みこむだけだ。行儀悪く、足もバタバタさせてみる。そんな風に体を動かしてみても、気分は晴れないし、力も湧いてこなかった。
「……キャリーヌ様、ジダン様は出発されたみたいですよ。本当に良かったのですか、お見送りしなくて」
静かに寝室に入ってきたフィオナが、ふて寝しているキャリーヌに声をかけた。ここ数日部屋にこもりきりのキャリーヌは、今日もいい時間だというのにベッドから出ていない。広い窓にかけられた分厚いカーテンはぴったりと閉められたままで、寝室はキャリーヌの鬱々とした気持ちそのままの薄暗さだった。
フィオナは、キャリーヌがこんな状態になってしまってから、不思議なほど優しかった。ベッドの右側に回り込んでしゃがみこみ、寝ているキャリーヌの目線に合わせる。
「キャリーヌ様。元気がでないのは分かります。今は無理をして外に出ずとも良いです。けれど、どうか、お食事は召し上がってください」
囁かれた声は、キャリーヌのひび割れた心を慰撫するようだった。キャリーヌはうつ伏せていた泣き顔を右に向けて、フィオナと目を合わせる。フィオナはそっと右手を伸ばして、意地っ張りで泣き虫な彼女の頬を、手の甲で優しく撫でた。いつも小言の多いフィオナが、優しい顔をしていた。
ただの使用人なら許されない振る舞いかもしれない。けれどフィオナは、ただの使用人ではなかった。きっと、良い母親というものがいるとしたら、キャリーヌにとってのそれは彼女なのだろう。
少しひんやりとしたフィオナの手を頬に感じながら、泣き腫らした瞼を静かに下ろしたキャリーヌは、「もう起きるわ」と幽かな声でつぶやいた。
四日前の夕食の席で、発作的に切れてしまったキャリーヌは、そこからほとんど丸一日を泣き明かした。泣いて疲れて眠って、起きてまた泣いて疲れて眠っての繰返しだ。これほど生産性のないことがあるだろうかと思いつつも、キャリーヌは泣くことしかできなかった。少し落ちついてからはぼんやりと体を起こしたりもしたが、部屋からは出なかった。
キャリーヌの頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。初めは父親への怒り、ジダンへの怒りのようなものだった激情は、すぐに自分への嫌悪にとって変わった。そして結局は自分への怒りと、絶望が残った。自分は十二の頃から何も成長してないのだと思って、キャリーヌはどうしようも無く恥ずかしくなった。
いい子になりたかったキャリーヌは、自分の中にある醜い感情を抑え込んで、見ないふりをしていた。それは溜め込むものではなく、適度に出していいものなのだと、キャリーヌには分からなかった。だから、一旦溢れだしたそれをどうすればいいのかも、分からなかったのだ。
「キャリーヌ様、まずはお茶をどうぞ。リラ様がくださったハーブのお茶です」
ソファにぐったりともたれかかったキャリーヌは、差し出されたお茶を素直に受け取った。いつもならばするりと出てくるお礼の言葉は、口が重くなってしまったかのように出てこなかった。
「気分が落ち着くそうですよ」
フィオナが優しく言い添える。キャリーヌは返事はできないまでも、こくんと頷いてひとくち口に含んだ。どこか爽やかな香りが鼻を抜けて、キャリーヌは自分の体を風が通りすぎたように感じた。そう言えばリラにも、勝手に失恋して傷ついたことは話したが、その後のことを話してはいなかった。
「……ジダンは」
「はい」
「何時頃に、戻ってくるのかしら」
フィオナが、パンとミルクで作られた粥の皿を目の前に置いた。いつもならば、元気なキャリーヌの前にならば、絶対に出てこないような食事だ。
「日の落ちる前には戻られる予定だそうですよ」
「……帰ってきたら、お出迎えはするわ」
「はい。……それが、よろしいと思います」
キャリーヌは、少し冷めたパン粥に手をつけた。塩胡椒で薄めに味付けされた粥に、キャリーヌは今さらながら屋敷で働く人々の気遣いや心配に思い至る。自分の情けなさに、じんわりと涙が滲むのは幾度めだろうか。この期に及んで泣くのは恥ずかしく、キャリーヌは涙をこぼさないように瞬きをした。
◇ ◇ ◇
フィオナが気をきかせて用意してくれたので、キャリーヌは昼間から湯浴みをすることにした。フィオナが香油を垂らしたバスタブは、ほんのりといい香りがする。バスタブに深く腰かけ、思いきり息を吸うと、徐々に気分が上向きになっていくのをキャリーヌは感じた。
「キャリーヌ様、お髪を触りますね」
フィオナが声をかけて、バスタブの外に投げ出されていたキャリーヌの髪の毛をそっと洗いはじめる。麦わら色の豊かな髪の毛が、ハーブの香りの爽やかな石鹸で柔らかく洗われていく。
いつの間にか目を閉じていたキャリーヌは、地肌をやわやわと揉まれるのが心地よくて、今度は大きく息を吐いた。泡だらけになった頭はお湯で洗い流され、髪用のオイルが塗られた。
「ありがとうフィオナ。すっきりしたわ」
「何よりです」
「……ごめんなさい、何日も寝ていて。責任ある人間の振る舞いじゃなかったわ」
体の丸みに沿って流れる髪の毛から、水がぽたりと落ちる。裸のまま立ち尽くすキャリーヌの前に膝をつき、彼女の体をかいがいしく拭いていたフィオナは、その言葉に顔をあげた。
「キャリーヌ様。あなたは無理をしていたんです。溜め込まなくていいものを溜め込んで、あなたの心は限界を迎えてしまったのです」
フィオナは立ち上がると、キャリーヌの後ろに回って髪の毛を優しく拭いはじめた。
「もう無理をなさらないでほしいとは思いますが、誰もあなたのことを責めはしません。今回のことで、キャリーヌ様が悪いことはありません。それは絶対です」
言い聞かせるように、フィオナが肩に手を置いた。俯いたキャリーヌは、震える吐息のような声をもらした。
「わたし……」
「はい」
「ジダンが、好きなの……」
「はい」
「でも彼は……私の気持ちに気がついているのに、何も言わないわ……。それに、一年も前のことだけど……彼が素敵な女の子と歩いているのを見たの……」
「……はい」
「諦めようと思った……それなのに、彼は何回も何回も私に会いに来て……」
キャリーヌはぎゅっと目を瞑ったが、涙は抑えきれずにこぼれてしまった。
「もう、どうしたらいいのか、分からない……」
フィオナは震える肩にガウンを羽織らせた。こういう時、彼女に寄り添いすぎた自分は何を言えばいいのか、フィオナには分からなくなってしまう。今さら使用人らしく、当たり障りのないことを言って彼女を笑わせればいいのか。リラのように友人らしく、彼女の傷ついた心を慰めて、気にするなと言えばいいのか。それとも母親らしく、彼女を肯定しつつも、前へと進ませればいいのか。
「分からなくとも、きっと、お話し合いはするべきです。向き合って、辛い結果が待っていようとも、です。大丈夫ですわ、キャリーヌは私がお世話したんですもの。根性があります。それにお若いのですから、ここで男の一人や二人と上手くいかなくても、まだまだ先があります」
フィオナはガウン越しに、ぐっとキャリーヌの肩を抱いた。今だけは、母親面をしても許されると思いたかった。
「あなたは立ち直れます。何度でも。でも次からは、私の前では、もっと早くから弱音を吐いてくださっていいのですよ」
キャリーヌは肩に回ったフィオナの手に、自分の手を重ねた。いつだったか、フィリップと自分と、マクロルとフィオナで食事したことを思い出す。確かにフィオナは、キャリーヌの家族と言ってよかった。
「フィオナ! フィオナ! ああ、キャリーヌ様は──!?」
二人がしばらく無言で立ち尽くしていたその時、全く無粋な声が割り込んできた。屋敷の若い使用人の一人だ。フィオナは素早くキャリーヌの前に出た。
「フィオナ、いた、ああっ、キャリーヌ様、失礼いたしました。今、ジダン様が、お戻りになられて……」
使用人はそこで言葉を切ると、膝に手をついて息を整えた。荒い呼吸からして、屋敷の玄関からキャリーヌの使う浴室まで走ってきたのだろうか。
「他の、探索隊の方もご一緒で……ジダン様は、意識が、無いそうなんです」
ジダンの帰還は予定よりも早かった。そしてキャリーヌは気持ちの整理のつかないまま、遺跡の罠にかかって意識不明のジダンと向き合うこととなった。
◇ ◇ ◇
キャリーヌは着るものもとりあえず、急いでジダンの元へ駆けつけた──といきたいところだったが、フィオナに止められ、なるべく早く身なりを整えてから、ジダンが運び込まれた客室のひとつへ向かった。
部屋に入り、真っ直ぐベッドへ向かう。そこで、意識のないジダンを見たキャリーヌは、まるで心臓が氷の塊にとってかわってしまったような心地を覚えた。胸の奥から冷たい痛みが全身へ広がる。湯浴みで温まったはずの体がどんどん冷えていくようだった。
ジダンは、呼吸の音もたてずにベッドに横になっていた。シーツと同じような真っ白い顔色に、右の上腕と首もとに巻かれた包帯から、微かに滲んで見える血の色。恐怖から、またしても涙がこみあげてくるのをキャリーヌは感じた。
「……ジダン」
呼びかける声が震えた。キャリーヌはシーツに手をついて彼の顔を覗きこもうとした。……したところで、ゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえた。
「えー簡単に診察しましたけどね。まぁ遺跡の常套手段です、強めの眠剤を含む毒矢ですね。応急措置が素早く適切だったみたいなのでね、あと半日か一日もすれば目を覚ますと思いますね。まぁ大丈夫です」
キャリーヌと、ベッドの挟んだ反対側に座っていた医師らしき人物の声だった。べらべらと言われた説明に目を白黒させながらも、キャリーヌは恐らく一番重要なことは聞き取れた。彼は目を覚ます。無事なのだ。
「よかった……」
安堵に体の力が抜けたキャリーヌは、ベッドにすがるようにひざまずいた。手を組むと、自分のそれがいつの間にか細かく震えていることに気がつく。
「では、今の彼はただ眠っているだけなのですね」
後ろに立っていたフィオナが、くずおれたキャリーヌを気づかいつつ尋ねる。
「まぁそうです。腕と首の傷も、薬と包帯を適宜変えればさほどかからずに治ります。浅い傷ですからね」
医師らしき人物が答える。フィオナはその後、部屋の奥にいたらしい探索隊たちと二言三言交わしたあと、彼らを送りに部屋の外へ出ていった。その間、キャリーヌはずっとジダンの顔を見ていた。
部屋の中には、先ほどまで処置をしていたのだろうか、血のついた布や服のようなものを片付けている使用人だけが残った。やがて彼らも部屋を出ていき、キャリーヌは寝ているジダンと二人きりになった。
キャリーヌはジダンの横顔を見ながら、ベッドの上に力なく投げ出されている左手をそっと握った。
(──生きていて、良かった。生きて、もう一度ジダンの目を見て、話ができるなら……)
ほのかに体温を感じる手を握りながら、キャリーヌはそう思った。彼が自分のことをどう思っていようと、彼が死んでしまうより酷いことはきっとない。そう思った。
翌日、キャリーヌは朝からジダンのベッドの横にいた。流石に隣で夜を明かすことは許されなかったが、朝方の包帯の取り替えはキャリーヌが教わりながら施した。もの言わぬ、視線も寄越さぬジダンの前では、キャリーヌも余計なことを考えずに動くことができた。
そして、昼のことだ。
「あ……」
まさに、昼食をとるために席を外そうとしているときだった。横たわっているジダンの唇が微かに動き、声のようなものが聞こえたのは。
「ジダン? 気がついた……?」
キャリーヌはすぐにベッド横の椅子に戻り、彼の手を握った。昨日よりも温かい。ジダンははっきりと目を開けた。少し視線をさまよわせたあと、キャリーヌの目を捉えた。
「ここは……?」
「エルシック家の客室よ。ああジダン、目が覚めて良かった……!」
キャリーヌは眉毛をこれでもかと下げて答えた。控えているフィオナも頷く。
「俺は……。ああ、遺跡の罠にかかって……」
「そうみたい。探索隊の方が正しい応急措置をしてくださったから、傷も大したことはないそうよ。無事で良かったわ」
ジダンは呻きながら体を起こそうとした。キャリーヌはすかさず寄ってきた使用人と共に、手を添えてジダンが上体を起こすのを手伝った。背中にはクッションをいくつも重ねた。
「……恥ずかしいな、俺」
「そんなことないわ。調査がどうなったかよりも、あなたが無事でいてくれたことが大事よ」
ジダンは鼻を鳴らして答えた。嫌な笑い方だった。
「こんな……情けない結果になってしまうなら、立候補するんじゃなかったな。……目が覚めない方が良かった」
彼が何を言っているのか、キャリーヌには一瞬理解できなかった。握っていた手を放し、椅子から立ち上がる。立ち上がったキャリーヌを見上げて、ジダンは更に言葉を重ねた。
「君も、馬鹿だと思ったんじゃないか? 偉そうに参加しておいて、大したことない奴だって──」
「それ以上言わないで!」
キャリーヌの押し殺した声に、ジダンは口をつぐんだ。まずい、という顔をしていた。それでも、今のキャリーヌに──彼を心配し、目覚めを待ち望んでいたキャリーヌに、許容できる言葉ではなかった。
「あなたが……意識を失って戻ってきたと聞いて、私が……いえ、この屋敷の皆が、どれほど心配したか……」
キャリーヌはジダンを睨んだ。涙は流していなかった。今日に至るまでに、もう泣きすぎていたから。
「あなたが、白い顔でこのベッドに寝ているのを見て、私が、どんな気持ちだったか……」
はっ、としゃくりあげるように息を吸ったキャリーヌは、口を引き結ぶと、背を向けてあっという間に部屋を出ていった。フィオナがその背を追って出ていき、部屋には俯くジダンと何とも言えない表情の使用人が残った。
読んでくださってありがとうございます。
章の初めに今月中に完結したいと書いたのですが、難しくなってきました……。4月からは新生活なので、できれば区切りよく書ききりたかったのですが。待ってくださる方がいらっしゃいましたら、本当に遅筆で申し訳ありません。
あと少し、頑張って書いていきたいと思います。
応援のメッセージをくださった方、ありがとうございました!




