それなりに幸せです
ルーカスが店へ戻ってきたのは、キャリーヌとジダンが一杯目のお茶を飲み終わり、 次の一杯を淹れるか迷っている、そんな頃だった。
「キャリーヌ待たせたな、客か?」
「あらルーカスさん、おかえりなさい」
「ルーカスさん、お邪魔してます」
キャリーヌは少しほっとしながら立ち上がり、ルーカスをねぎらった。彼が肩にかけていた鞄を受け取り、いそいそと休憩室に置きに行く。ほんの数日前、リラに恋人ができたことを聞いたキャリーヌは、いつもよりもジダンと二人きりの空間を辛く感じていた。
キャリーヌが店の奥へ引っ込んでから、ルーカスはにこにこしているジダンを見る。彼はしかめっ面を作り、キャリーヌに聞こえないよう抑えた声で責めるように言った。
「……また来たのか」
「そんな目で見ないでくださいよ。一応客ですよ、俺も」
「半分はキャリーヌが目的だろ。あの子がからかう相手に向かないのは分かるだろうに……程々にしてくれよ」
これみよがしにため息をついたルーカスは、少しむっとしたジダンの反論など聞かぬとばかりに店の奥へ入っていった。「話があるんだ、もう一回茶でも淹れてくれ」と言うルーカスの声が、ジダンにも聞こえてくる。
「はい、ご用意します。私が聞いていいお話なのね? お父様から聞かされたことでしょう」
「そうだ。そこの探索家の端くれにも、一応聞かせなきゃいけない話だ」
「ふぅん……わかったわ」
キャリーヌは相づちを打ちながら、手際よくお茶の準備を進める。自分とジダンの分のカップはそのままで、新しくルーカスのカップを用意する。大きめのポットに茶葉とお湯を淹れて蒸らし、三人分のカップへ注いだ。
店に立つようになった三年前から、キャリーヌはそれまで人に用意させていたお茶や食事の準備を、ある程度は自分でするようになっていた。今では慣れた手つきで、そこそこの味のお茶を用意できると、フィオナにもお墨付きをもらったくらいだ。
キャリーヌはお茶が用意できてから、思い出したように店の奥へ入り、お気に入りのクッキーを持って戻ってきた。ジダンとルーカスが、ああまたか、という顔をする。キャリーヌはその二人のその表情を見て、少し照れたようにはにかんだ。
ジダンと二人きりでは緊張して物を食べるどころではないキャリーヌだったが、ルーカスが帰ってきて緊張がほぐれると、小腹が空いていることに気がついたのだ。キャリーヌは持ってきたお茶菓子を机の上へ置き、ソファーに座る。準備が整うのを待っていたルーカスが居ずまいを正し、「それで……」と口火を切った。
「この近くの遺跡に、未確認の階層があるらしいことが分かった」
「未確認……?」
キャリーヌはお茶菓子に手を伸ばしながら、左隣のルーカスを見て首を傾げる。
「全く新しい階層ってこと?」
「そうだ。どんな特異物質が採れるのかも、どんな罠や生物が存在しているのかも、未知数だ」
「まあ。それじゃ、しばらくは立ち入り禁止にしたりするのかしら」
「そうだ。遺跡は昨日から封鎖されていて、五日以内に調査隊が入る予定だ」
「……ルーカスさん」
それまで黙っていたジダンが静かに口を開き、キャリーヌは彼の方を見た。ジダンは波紋ひとつない水面のように静かな顔をしていて、キャリーヌには彼が何を考えているか分からない。いつもそうだ。ニコニコしてこちらを見ていたかと思えば、静かな無表情になってしまうジダンが何を考えているのか、キャリーヌのことをどう思っているのか、彼女に分かった試しはなかった。
「俺を、その新階層の調査探索隊に入れてください」
ジダンはルーカスを真っ直ぐに見てそう言った。キャリーヌは何も言えずに瞬きをした。やっぱり、彼の考えていることは分からない。
◇ ◇ ◇
ルーカスは、ひとまずジダンの申し出を断った。通常、遺跡の調査などに関わる人間は遺跡の属する街の責任者が選出する。彼に調査隊の選出権はないこと、そしてジダンのような無名の学生が隊員に選ばれることはまずないだろう、というのが理由だった。
ジダンは少し黙ってから、そうですか、と静かに返事をして暇乞いをすると、店を出ていった。結局防具店へ訪れた用事が何だったのか、それすらもキャリーヌにはわからないままだ。そもそも何をしに来たのか不思議がっていたら、ルーカスには変な目で見られてしまった。
「そうだ。途中で話が終わってたな、まだ連絡事項がある」
ルーカスが話を仕切り直したので、キャリーヌは頷いて先を促した。何となく、食欲はまた失せてしまったので、お茶菓子はしまった。
「調査探索隊にエルシック防具店が協力する。あらゆる危険に備えて、防具を無償で貸し出す予定だ。その間店は休業する。どうせ遺跡が一般には封鎖されていて、探索家たちも休業中だからな」
「私、具体的な想像ができないのだけど……調査隊ってどのくらいの規模になるの? 未確認階層の調査って、とても危険なもの?」
「この街の遺跡は、元々そんなに大きくもないし、危険度も高くない。調査隊は多くて七~八人じゃないのか。多すぎても不便だからな」
ルーカスはため息をついて、お茶を一口含んだ。
「調査の危険度は……未知数ってところだが、元々の遺跡を考えると、それほどでもないだろう。王都から手練れを呼ぶまでもない。この街を拠点にしてる中堅どころの奴らで十分だろうよ」
とりあえず向こう五日間は出勤する必要がない、ということをルーカスに伝えられ、キャリーヌは一人で帰路についた。
三年前、防具店での勤務を始めてから四ヶ月ほどは家の馬車に送り迎えをしてもらっていたキャリーヌだったが、それ以降はフィオナに徒歩で付き添ってもらっていた。しかし今日のように、フィオナの都合が悪ければ一人で帰ることもままある。毎日通る道を一人で黙々と歩くのは、考え事には最適だった。
街から外れ、エルシック家の所有する森に沿った道を歩きながら、キャリーヌは初めてジダンとこの道を歩いたときのことを思い出した。あのときはフィリップも一緒で、歩きながらのおしゃべりがただただ楽しかった。初めて、フィリップ以外の若い男性と話していて楽しいと感じた。
思えば夢中になったのはすぐだった。温かな茶色の目に優しく笑いかけられ、気さくに話しかけられ、キャリーヌはすぐにのぼせあがってしまった。
キャリーヌは頭の中で思い返すたび、このときの自分が現実以上に愚かに感じられた。自分がどうしようもない馬鹿で、恥ずかしい人間に思えた。だって、きっと、ジダンはこのときの自分の好意に気がついていた。けれどそれには触れなかった。
何故か? 明白だ。彼がキャリーヌの好意を、受け入れるつもりはなかったから。
(ああもう、駄目だわ! すぐに泣きたくなっちゃう)
キャリーヌは頭をぶんぶん振って、歩みを早めた。一人の帰り道は考え事に向いてはいるけれど、最近のキャリーヌは考え事をしても気持ちを整理するどころか、ぐちゃぐちゃにしてしまう。
とりあえず、遺跡の調査探索隊への志望を断られたのだし、ジダンはしばらくこの街に来ないだろう、とキャリーヌは楽観的に考えることにした。それが今の彼女にとっては好都合だ。ジダンと会えるのは、たとえ自分の思いが受け入れられなくとも嬉しい。けれど今は、しばらく顔を合わせずに、気持ちを落ち着けたかったのだ。
◇ ◇ ◇
「……は?」
その日の夕食の席で、キャリーヌは行儀悪くもスプーンを口に運びかけた格好のまま、ぽかんと父親を見た。目の前に座っている父親は、そんなキャリーヌの間抜け面は見慣れたとばかりに動じない。
「もう一度言おうかキャリーヌ。フィリップの学友で、君とも仲の良いらしい王立学園の学徒、ジダン・エンバーダを遺跡の調査探索隊に加えることになった。ついては、彼が王都で準備を済ませてこちらに着きしだい、我がエルシック家で面倒を見ることにする。くれぐれも、よろしく頼むよ」
「……え……」
「キャリーヌ。三度は言わないよ」
「そういう問題じゃ、ありません……。なぜそうなったのですか。今日の昼過ぎ、彼はルーカスさんに同じ事を頼み、断られていましたが」
キャリーヌはやっと、持っていたスプーンを皿に戻した。もはや夕食どころじゃない。鼓動が嫌なふうに早くなっていくのを感じた。
「その後になるのかな。彼が家に直談判に来たんだよ。ルーカスは無理でも、私が調査探索隊の選出に口を出せることを知ってたみたいだね」
まあその辺は探索家の端くれなら考えなくても分かるか、と笑いながら続ける父親を、キャリーヌは信じられない気持ちで見つめた。何もかも、キャリーヌには分からないことだらけだった。なぜジダンが調査探索隊に固執するのかも。なぜ父親が彼の参加を認めたのかも。なぜ自分がこんなに苦しくなりながら、ジダンのことを好きでいるのかも──分からなかった。
「なぜお許しになったのですか? 私にはよく分かりませんが……王都の学生より、相応しい身分の者がこの街にはいるのではないですか? それに、この屋敷で面倒を見るなど……」
「その辺りは色々と、交渉されたんだよ。悪いけどジダン君との約束でどんな内容なのかは言えないんだ。心配しなくとも、彼は優秀な学徒だと聞いてるよ。この街の遺跡の新階層程度なら、何事もなくこなせるだろう。家にも何度か遊びに来ているし、何も問題は──」
「そういう話をしているのではありません!」
我慢がならなくなって、キャリーヌはガタンと席を立って怒鳴った。お茶を持って食堂に入ってきた給仕の使用人がびくりと固まるのがキャリーヌの視界の端に写った。言葉が口から出ていった瞬間から、頭が後悔で一杯になる。けれど、キャリーヌには止められなかった。
「この屋敷に呼ぶというなら、私に聞いてからでも良かったのではないのですか! どうでもいいことには気を使われるくせに、お父様はいつもいつも……」
涙がこぼれた。頬が熱いもので濡れる感触を、キャリーヌは久々に感じた。我慢していたからだ。目の前の父親は先程のキャリーヌに負けず劣らずぽかんとしていて、少し勢いが削がれた。彼はキャリーヌがなぜ泣いているのか、分かっていないのだろう。自分がいけないのだ。
「食事中に……ごめんなさいっ……」
何とかそれだけ絞り出すと、キャリーヌは席を離れ、食堂から出ていった。驚いた顔の使用人数人とすれ違いながら、キャリーヌはここ数年で一番の自己嫌悪に襲われていた。
食堂には、驚いたままの父親と、キャリーヌを追わなかったフィオナが残されていた。今回ばかりは、フィオナが愚痴を聞いたり慰めたりできる話ではない。
「……今度こそは……キャリーヌが喜ぶかと思ったんだが、逆効果だったのかな」
ふう、とため息をついて、父親は椅子の背に身体を沈めた。フィオナは困った顔をして答える。
「恐れながら……今のは全くの逆効果かと存じます。けれどキャリーヌ様もお分かりになるでしょう。時間は多少かかるかもしれませんが」
「困ったなぁ……これ以上キャリーヌに道理の分からない父親だとは思われたくないんだが……」
フィオナは苦笑いを浮かべることしかできなかった。キャリーヌの父親は決して悪い人物ではない。特に、キャリーヌの母親だった女性と別れてからは家族を大切にしようとしている姿勢はよく見える。ただ、その姿勢や努力がキャリーヌといまいち噛み合わないだけなのだ。
「いやしかし……泣いて怒っていても一言謝って出ていくなんて、本当にいい娘だと思わないか?」
そういうところですよ、と心の中で返事をしながら、フィオナはまた苦笑いを浮かべて頷いた。
 




