……おや?(2)
王都は晴れていた。初めての乗り合い馬車に挑戦したキャリーヌは、王都に着く頃にはすっかり座席の固さに参ってしまっていた。乗り合わせた人々と他愛の無い会話をしながら、お菓子を分け合うのは楽しかったが、お尻が痛くなるのはかなわない。次からはエルシック家の馬車に甘えさせてもらおう、と考えながら馬車を降りる。
王都警備団の総合事業所がある、比較的治安の良い区画で馬車を降りたので、さほど歩かなくてすむことは確認済みだ。茶色の書類鞄をしっかり抱え、キャリーヌは歩き出した。人の多さにびくつきながらも、地図を確認しながらなんとか事業所にたどり着く。王都中のあちこちに警備団の拠点となる詰め所があるが、事務的な部分を担当するのはこの総合事業所なのだという。
すぐ後ろには、父の秘書であるアルベルトがついてきている。おのぼりさん丸出しなキャリーヌはいいカモになりかねないが、彼がいるのでひと安心というわけだ。ただ、アルベルトはキャリーヌが無事に事業所まで迷わずに行けるか見守るだけで、それ以降はキャリーヌ一人に全てが任せられるのだという。ちらりとアルベルトを振り返ると、彼はキャリーヌに向かって微かに頷いたきり、そこから動く様子はなかった。キャリーヌも気合いを込めて、彼に頷き返す。
(ええと、まず、受付で名乗るのよね……)
前を向いたキャリーヌは数段ある階段を上り、緊張で肩を怒らせながらずんずん歩いていった。受付らしき、半円状の机まであと少し、というところで奥に座っている女性が顔を上げる。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用向きで?」
意気込んで行ったものの、キャリーヌを見上げたのは優しげな顔付きの中年の女性だったので、ほんの少し体に入っていた力が抜ける。
「こんにちは。わたくし、エルシック防具社のキャリーヌ・エルシックと申します。本日は父の代理で参りました」
「あら、あら、まあ。はいはい伺ってますよ、少々お待ちくださいね」
女性はそう言ってにっこりと笑った後、机の下で何やら手を動かした。遠くでチリリン、と鐘のようなものが鳴り、女性はまた顔を上げる。
「では、右手奥の階段を上がってすぐの部屋にお入りください。そちらで担当の者がお伺いします」
「わ……かりました。どうもありがとうございます」
キャリーヌは終始にこやかな女性になんとか笑顔を返すと、 若干ぎこちない動きで歩みを進めた。無駄な装飾の無い、厳めしさすら感じられる石の階段を登っていく。今日のためにおろした新しいブーツの踵がかつんかつんと音を立てて、キャリーヌは鼓動が早くなっていくのを感じた。階段を上がってすぐ。ここは迷う余地はなかった。
目の前には大きな扉がある。これを開いて、キャリーヌは新たな一歩を踏み出すのだ。
◇ ◇ ◇
固いブーツのかかとを鳴らしながら、石畳の路を歩く。綺麗に舗装された路は歩きやすかった。手に持った書類鞄がとても軽く感じられて、キャリーヌはうきうきと振り回しそうになった。すぐにここが王都の往来だと言うことを思い出して、止めたが。時間はさほど経っていない。お昼を少し過ぎた、お茶にぴったりの時間帯だ。
「キャリーヌ様」
声をかけられてふと横を見ると、アルベルトが立っていた。いつもあまり表情の動かない彼が少し微笑んでいるように見えて、キャリーヌは自分の中で張り詰めていたものがふっと途切れるのを感じた。
「お疲れさまでした」
「はああ、アルベルト、ありがとう……。思ったよりも緊張したわ」
「宿へ行く前に、どこかでお茶でも頂きますか?」
「あら……いいの?」
これまた微かに頷くだけのアルベルトに、キャリーヌはにっこり笑いかけた。いつも変わらない態度の人が側にいると、なんだか安心するということに気づいたのはいつだっただろうか。このおつかいに彼がついてきてくれると言うだけで、ほっとしたことを思い出した。
「じゃあ行きましょ! 私、王都でお茶するのなんて初めて。終わったと思ったら、なんだかお腹すいてきちゃったわ」
さりげなく差し出されたアルベルトの肘に手をかけ、キャリーヌは元気よく歩き出す。すっかりいつもの調子に戻っている。アルベルトはキャリーヌの父親に同行して王都へ頻繁に来ているので、大体の道筋やお店などは把握しているようだった。軽食も出す店を知っているので、そこへ行きましょうというアルベルトの提案に、キャリーヌは一も二もなく賛成した。
サラダ付きの小さなオムレツとはちみつを絡めたくるみ入りクッキー、お茶をたっぷり三杯頂いたキャリーヌは、満足したお腹を撫でながら宿へ向かっていた。荷物はキャリーヌがおつかいを済ませている間にアルベルトが運び込んでくれたらしい。夕食は軽めにするようお願いしましょうか、と言うアルベルトにそうね、と相づちを打ちながら歩いている途中だった。キャリーヌが、それを見たのは。
見覚えのある顔だと思った。
すぐに誰なのか分かった。
キャリーヌが、会いたいと思っていた人だったから。
声をかけそうになった。けれど、彼の隣には明るい金髪が揺れている。さらさらの金髪。キャリーヌには無いもの。それが何なのか気づいた瞬間、キャリーヌの頭は色々な感情で一杯になった。
一杯になったものがこぼれそうになって、歩みを止める。
「……アルベルト」
自分からこんな女々しい声が出るのか、と思うほど震えた声だった。もう顔は上げられない。きっと、酷いことになっているからだ。
「……キャリーヌ様?」
「こっちの、こっちの道から行きましょう」
ぐい、と手をかけている肘を引く。アルベルトが戸惑うように声を上げるが、それに答える余裕はなかった。
キャリーヌは歩きながら、自分の中に渦巻く感情を整理しようとしていた。一杯いっぱいになってしまったとき、その激情を周囲に撒き散らすのではなく、まず自分の中でじっくり考える方が良いと学んだのは、幼い頃は間近で見ていた母親の姿からだった。ああはなりたくないキャリーヌにとって、フィリップと出会った12歳の頃、彼やフィオナの前で何回も泣いてしまったのは、実は恥ずかしい思い出だった。もちろん同時に、温かい思い出でもあるのだけれど。
──ほら、別のことを考えていたら、少し収まった。それまで早足で歩いていたキャリーヌは、歩みをゆるめる。アルベルトがもう一度気遣わしげに名前を呼ぶのを、今度は無視しなかった。
「ごめんなさい、いきなり引っ張ってしまって。今度こそ宿に行きましょう」
「キャリーヌ様……ご気分がよろしくないのでは? ひどい顔色ですよ」
「いいえ、大丈夫だから」
アルベルトは流石に察しがいいので、キャリーヌが詮索してほしくないと思っていればすぐにその気持ちを汲んでくれる。……けれど、そうやって気を使わせてばかりでは母と一緒ではないか──。
「本当に大丈夫なの。すぐ、平気になるわ」
だからキャリーヌは、そう付け足して笑った。アルベルトも微かな微笑みを返す。彼女が何に反応してこうなったのかは分からないが、本当に大丈夫でなかったらきちんと言うはずだ。だから、大丈夫なのだろう。そう信じて、アルベルトは何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
宿に着いたキャリーヌは、夕食の時間まで休むことをアルベルトに伝えると、自分に宛がわれた部屋に閉じこもった。広くはないが、温かみのある落ち着いた部屋に少しほっとする。屋敷のものよりこじんまりとした宿のベッドに腰をかけ、固いブーツを脱いで、そのまま膝を抱える。
あんなにみっともない真似をしてしまったのは、久しぶりだった。側にいたのがアルベルトだけで良かったと、膝にあごを乗せてキャリーヌは思う。今、キャリーヌの頭の中にあるのは、嫉妬、羨望、羞恥、失望……あとは何だろう。
街で見かけたジダンの隣には、彼と親しげに腕を組む可愛らしい女性がいた。きらきらの金髪をゆったりと編んで垂らした、顔の造作の整った女性が。素敵な人に見えた。キャリーヌは一瞬で、彼女と自分を比べてしまった。ジダンの隣が似合うのは、自分よりも彼女だろうと思ってしまった。
何よりも嫌なのは、自分を恥ずかしいと思ってしまったことだ。おそらく王都に暮らしているであろう彼女と、比較的田舎の屋敷に引き込もって暮らしているキャリーヌとでは、洗練のされ方が違った。そんなことを気にすることは、もう無いと思っていたのに。
(私が嫌なやつじゃ無くなったなんて、気のせいだった……)
キャリーヌは熱くなる目頭にぐっと力を入れて、顔を伏せた。頭の中は、自分に対する怒りのようなものと、いつの間にか強くなっていたジダンへの思いを、恥じる気持ちでぐちゃぐちゃだ。
(ルーカスさんに言われたこと……そんなことないって、思ってたのに)
馬鹿みたいだ、とキャリーヌは思った。休暇で遊びに来た弟の友人に逆上せあがるなんて、馬鹿な女性の代表みたいだ。今日、王都で女性を連れて歩くジダンを見て、憧れだけで膨れ上がっていた思いは針を刺されたみたいにしぼんでしまった。
キャリーヌは現実に気がついた。王立学園には、男子学生よりは少ないがもちろん女子学生もいる。キャリーヌより優秀で、洗練された女性などジダンの周りに大勢いるのだろう。そのことに、キャリーヌは今日やっと気がついたのだった。
そうだ、でも、気がつけたなら良かったのだ。キャリーヌはそう思った。思おうとした。良かった、自分で気がつけて。他人に──フィリップや当のジダンに気づかされていたなら、きっとこんな惨めさではすまなかっただろう。だから、良かったのだ。
そこまで考えて、キャリーヌは顔を上げた。
「……ふんっ!」
気合いを入れて、自分の両頬を張る。明日はフィリップとジダンと会うのだ。自分が一人でくよくよしているわけにはいかない。ひとまずは、しおしおになってしまった自分の恋心のことは忘れよう。屋敷に戻れば、考える時間はたくさんある。明日は二人と楽しい時間を過ごすのだ。レモンクリームパイを食べて、お菓子屋さんや雑貨屋さんを物色して──。
キャリーヌは翌日を空元気で乗り切ることを決めて、夕食を取りに部屋を出ることにした。アルベルトには、もう一度よく謝っておこう──そう考えながら。




