はい(2)
朝、彼が目を覚ますと、そこはやたらと天井の近い二段ベッドの上ではなかった。数秒横たわったままで困惑してから、そうだ、帰ってきたのだった……とフィリップは寝ぼけた頭で思う。学園の寮にはない、大きな窓から差す朝の光がまぶしい。
「おはようございます、フィリップ様。お茶をお持ちしました」
部屋の入り口の方から、静かに声がかけられた。フィオナだ。いつもなら──学園でのいつもの朝なら、フィリップが早くに起きていることがほとんどだ。特に三学年に上がりジダンと二人部屋になってからは、彼が徹夜でもしない限り先に起きるのはフィリップだった。朝起きて、ジダンと自分の二人分のお茶を入れて、蒸らしている間にジダンを起こす。ジダンは一、二年で四人相部屋だった頃から一番寝起きが悪く、彼が飲むモーニングティーは温くなっているか、渋くなっているかのものが多い。寝ぼけた不機嫌そうな顔でお茶を飲み干すジダンを待ってから、揃って朝食を食べに食堂へ行くのが日常だ。
「おはようございます……ありがとう」
フィリップはのそのそと体を起こし、枕とクッションにもたれたままカップに口をつけた。朝のお茶を人に用意してもらって、ベッドから降りないで飲む。こんな贅沢、家でしかできないものだ。フィリップは久々の感覚を噛み締める。そしてふと、自分が一人で帰って来た訳ではないことを思い出した。
「あの、ジダンは……ジダンはもう起きてますか?」
着替えの服を用意しているフィオナに慌てて問いかける。友人のあの寝起きの悪さは、この家の使用人には不慣れなものだろう。キャリーヌもフィリップも、寝起きはすっきりといい方なのだ。
「ええ、ジダン様なんですが……一度お声がけをしたのですが、お返事をされなくて。近くでもう一度呼びかけてもお目覚めにならないようでしたので、まだお休みになられています」
「やっっぱりそうですよね……あいつ、いつもそうなんです。すみません、朝から迷惑をかけてしまって……僕が起こしてきます」
「ありがとうございます。では、お願いいたします」
フィオナが微笑んでそう言う。その表情に、フィリップは思わず見惚れてしまった。以前から美人だとは思ってはいたが、こんな風に柔らかく笑うところは見たことがなかった。キャリーヌから聞いたように、マクロルとの関係が良い方向へ向かっているからなのだろうか。そんな邪推をしてしまって、フィリップは顔を赤くした。彼にとってただの使用人とは言い切れない、家族に近いフィオナの恋愛を、彼女の目の前で想像することには気恥ずかしさと後ろめたさがあった。
「す、すぐ起こしに行きます。ジダンの部屋はどこでしたっけ」
「あっフィリップ様、お召し替えをなされてから……」
◇ ◇ ◇
屋敷の東館のサロンは陽光をふんだんに取り入れる造りになっており、午後を大分過ぎた今も十分に明るい。キャリーヌとフィリップ、ジダンはそれぞれ本や盤上遊びなどを持ち込み、ゆっくりとお茶を飲んでいた。
昨晩は屋敷の滞在する部屋への案内と荷ほどきで夜が過ぎてしまった。それでも、キャリーヌは久しぶりにフィリップと寝る前のお喋りを楽しんだ。主に、日記に何事かを書き付けているフィリップに一方的に話しかけ、フィリップは時おり返事をするようなものだったが。
フィリップに叩き起こされた後、今日は馬車旅の疲れをとるために一日ゆっくりしたいと言ったのはジダンで、前日にキャリーヌと少々夜更かしをしてしまったフィリップもそれに賛成だった。
「こんな場所があるって、やっぱり大きい家はすごいよなぁ……」
上質な織物の張られたソファに深々と沈みこみながら、しみじみと呟かれたジダンの声をキャリーヌは素早く拾う。
「そうなのかしら? 私はこの家からあまり出ることがないから、逆に学園での生活がどんなものか上手く想像できないの。フィリップの手紙には、とても広い食堂? にご飯を食べに行ったりするって……」
「そうそう。もちろんこんな風にゆったりしたくつろげる席とかじゃないけど、二百人くらいは入れる席数じゃないかな。そういう大きい食堂が、学園の中にあるんだ。食堂以外にも、軽食とお茶専門の喫茶室もある」
「へええ、すごいのね。食堂がそんなに大きいなんて。喫茶室なんてあるのは知らなかったわ。……お菓子もあるのかしら」
キャリーヌは呟きながら、少し手を伸ばしてテーブルの上に出したクッキーを手に取った。食べ過ぎないように、量は初めに決めて出しただけだ。小さい頃から食べているお気に入りのドライフルーツの乗ったクッキーは、最後の一枚だった。ぱきんと二つに割ると、ジダンがくれとばかりに手を伸ばしてきたので素直に小さい方を渡す。
「食堂の席はそれでも足りないくらいだから、朝なんて戦争だよ。席取り合戦になるし、食べたらすぐ出なきゃいけない」
「でも、そんな大勢の人がいるところでの食事って、なんだか楽しそうね。すごく賑やかそう」
「賑やかなんてもんじゃない。うるさいよ。初めて行ったとき、キャリーヌとご飯を食べるときよりうるさい食卓があるんだなって、感心したもの」
しばらく本を読んでいて静かだったフィリップが、口を挟んでくる。字を追い続けて目が疲れたのか、本を閉じながら目頭を揉んでいた。
「もうフィリップ、私そんなにうるさくないでしょ。誤解させるようなこと言わないで」
「うーん、キャリーヌって確かにお喋りだよな。フィリップが普段静かなわけが分かるね」
「ジダンまで……」
「いや、全然悪い意味じゃないぜ? 聞いてて楽しいし」
悪気のない笑顔でそう言い切られてしまって、キャリーヌは何も言えずに口をつぐんだ。屋敷や防具店ではお喋りや食い意地をいじられることの多い彼女は、真正面からほめられることに弱い。少し赤くなったキャリーヌの顔を見て、フィリップだけが小さなため息をついた。
「それで、明日はどうするんだっけ? ジダン」
「ああそうだった。明日は近くにあるっていう遺跡に入りたいんだけど……お前も来るよな?」
「ああ、ジダンが行くなら僕もついていくつもりだよ。キャリーヌは? 明日、仕事?」
二人から同時に視線を向けられて、キャリーヌはクッキーをかじりながら瞬いた。
「ええ。明日も仕事よ。というか、フィリップも遺跡に入りに行くの?」
「うん。僕も、二階層までなら入れる初級資格持ってるからね。必ず初級資格までは取らせる授業があったんだよ」
国中に散らばる遺跡には、地下型の物と地上型の物がある。確認されているだけで最大で十までの階層があり、危険度は下に行くほど(または上に行くほど)上がるのだ。そのため、遺跡に入る探険家の資格も、何段階かに分かれて存在する。
フィリップが初級とは言え探険家の資格を持っていることは、キャリーヌには初耳だった。
「私、この家の近くの遺跡がどんなところか知らないのだけど、危険は無いの? 行くなら十二分に気をつけてね」
「ははは、大丈夫だよ。俺はこれでも中級の資格持ってるから。しかもフィリップに聞いたけど、六階層までしかない比較的浅いところだってな。フィリップが行ける二階層までしか行かないし、安心して。かすり傷一つつけずに戻ってくるよ」
ジダンはキャリーヌの顔を見、次に肩をすくめたフィリップを見て、からからと笑いながらそう言った。フィリップもその言葉にうんうんと頷く。三階層くらいまでは致命傷になるような罠や危険な生物はいない、というルーカスの言葉を思い出して、キャリーヌも少し安心した。
「夕食まで時間があるし、せっかく持ってきたんだからこれやろうよ」
フィリップがテーブルの端に置いていた盤上遊びの道具を持ってくる。五角形の盤の上で、最大五人までが遊べる。相手の駒を取っていくゲームだ。駒にはそれぞれ役割があり、ゲームの持って行き方にいまいち工夫のできないキャリーヌは、フィリップに負けてばかりの遊びだった。
「そうだね……今日の夕食後のデザートを、賭けようか」
フィリップの言葉に、キャリーヌの目が鋭くなった。今日のデザートは、フィリップとジダンが王都で買ってきてくれたくるみとメレンゲのお菓子なのだ。中々手に入らない人気店のそのお菓子の味を、キャリーヌは一度だけ味わったことがあった。甘すぎないメレンゲの軽やかな食感に、香ばしさと味わい深さを添えるくるみ。一口食べてその美味しさに、一緒にお茶していたリラと思わず顔を見合わせてしまったものだ。それ以来忘れられない、特別な味だった。
急に目の色を変えたキャリーヌにジダンは少し苦笑いし、フィリップはにっこりと笑った。やはり、キャリーヌを上手くのせられた時の快感は、格別なものなのだ。
◇ ◇ ◇
「はあ、楽しかったなぁ……」
キャリーヌは湯浴みを済ませてもぐりこんだベッドの中でひとりごちた。夕食前の盤上遊びは白熱し、見かねたフィオナが三人を叱りつけに来るまで続いた。結局戦績はキャリーヌが四勝五敗、フィリップが三勝二敗、ジダンが二勝二敗で、勝ち数が一番多かったキャリーヌに、二人がメレンゲ菓子を一つずつ献上する形となった。(キャリーヌの勝ち数が多かったのは、負ける度に「もう一回!」と勝負を増やしていたからである)
二人と父親の生暖かい視線をものともせず、キャリーヌは戦利品を美味しく味わったのだった。
ごろりと寝返りを打って、キャリーヌはジダンの声を思い出す。盤上遊びをしていたときの笑い声。あんなに朗らかに笑う人は初めてだった。お喋りしなくとも楽しい相手というのもいるが、彼の声は耳に心地よくて、ずっと聞いていたいと思った。
「……ん?」
ジダンは背が高かった。例えば廊下を歩いている何気ない時、寝る前の挨拶などのふとした瞬間に、ひょいと身を屈めて顔をのぞきこまれると、それまで普通に話していても、どきりとせずにはいられなかった。
「……あれ?」
今だって、彼と過ごした時間を思い出して、こんなに胸が高揚する。頬も熱くなる。まるで、十二歳のころ、初めてフィリップと話した夜のように。でも、それだけではない。もっと、何か、切ないような心地がするのだ。
「……うそうそ。どうしたの、私……」
キャリーヌはひんやりとしたシーツに顔を押し付け、呆然と呟いた。その滑らかな冷たさに、自分の顔の熱さを一層自覚する。思わず吐き出した息は、まるで病人のようにか細い。震える胸を押さえながら、キャリーヌは無理やり眠ろうとしていた。




