フィオナ・シャングレーの非日常
フィオナは左手に持ったかごを持ち直すふりをしながら、自分の左側を歩くマクロルをこっそりと見た。最近、マクロルと二人きりになると何となくどぎまぎしてしまうフィオナには、かご一つ分の距離が必要だった。
のんびりと辺りを見ながら歩くマクロルの様子は、とてもフィオナより三つ年上なだけとは見えない。その落ち着いた雰囲気、悪く言えば歳の割りに少し老けた佇まいが、フィオナには好ましかった。
「最近、キャリーヌ様とフィリップくんの様子はどうですか? 上手くやってますかねぇ」
「あら、フィリップ様から何か伺ってませんか?」
「もちろん聞いていますが、気になるんですよ。彼は私を心配させるようなことは言わないのでフィオナさんの口から聞いた方がより公平かな……と」
「それもそうですね……」
フィオナは苦笑いで答える。フィリップは我が儘を言わない。というより、まだ言い方が分からないのかもしれない。言いたいことはほとんど素直に言ってきたキャリーヌと、それに慣れているフィオナは、彼のそういった面での寡黙さに戸惑うこともある。
あの異母姉弟は、姉のキャリーヌの方が強そうに見えて、一概にそうとは言えないところがある。フィリップがキャリーヌを支えてこそ、彼女を気遣ってこそ成り立っているようなところがあるのだ。
そしておそらく、キャリーヌもそれを分かっているのだろう。まだ若干手探りな部分もある二人の関係を、フィオナとマクロルはもどかしくも、あたたかく見守っていた。
「フィリップ様は……無欲に過ごしてきた方です。去年の今ごろなんて、ご自分の要望を全く言ってくださらなかった」
フィオナは前を向いたまま話し出す。隣のマクロルがこちらを向くのを、目の端で捉えた。
「それをキャリーヌ様がしつこく、辛抱強く聞き出し続けてやっと細々とした好みを言ってくださるようになりました。あとは、奥様がお屋敷を出られたことも大きいのかもしれません」
「ああ……それもありましたね」
マクロルが感慨深げに呟く。
キャリーヌの母親は、フィリップが屋敷の中に部屋を持つようになってから、屋敷を出がちになっていた。ほとんど実家で過ごすようになったのだ。
キャリーヌの両親の関係は元々冷えきっていたけれど、フィオナは密かに、より不誠実だったのは夫の方だと思っていた。妻がありながら愛人を作ったのだから。もちろん、フィオナは当時屋敷にいなかったので、人から漏れ伝わる話を聞いただけに過ぎない。そして自分が意見するような話でもなかったので、口に出したこともなかったが。
キャリーヌの父親は、妻の心の動きを全く気にしなかった。お互いに愛がないのなら、ほとんど何をしても大丈夫だと考えている節さえあったようだ。だから、キャリーヌの母親がなぜフィリップを引き取ること嫌がったのか、なぜ自分の娘と同等に扱うのを嫌がったのか、分からなかったのだろう。
皮肉なことに、キャリーヌとフィリップ、二人の子供が生まれることで、父親は親としての自覚のようなもの、家族を思いやる気持ちを少しずつ得ていった。が、母親は、夫と二人の子供──自分の娘すら──を家族として慈しむ心を、少しずつ失っていったのだ。
キャリーヌの父親は、自分に非があることをある程度は認めていた。だから、妻の実家帰りには多少目を瞑っていたのだ。しかしそんな彼も、フィリップが屋敷に居を移してから半年経ち、屋敷の中が滞りすぎていることに我慢できなくなったらしい。
彼は妻が帰ってくるのを待ち構え、はっきりと言ったのだ。
「このまま実家で過ごすようなら離縁する。もし離縁したくなければ、屋敷での責務をきちんと果たせ」と。
対して、彼女の答えは決まっていた。フィオナの知る限り、ずっとお互いにそっぽを向いていたキャリーヌの両親の関係に、やっと終止符が打たれたのだった。
「奥様が屋敷を去った直後は……流石のキャリーヌ様も落ち込まれていましたし、フィリップ様はずっと肩身が狭そうで、このまま事態は好転しないのかと思いましたよ」
フィオナを笑いをこぼしながら続けた。
「でも、キャリーヌ様は奥様のご実家に赴かれて、奥様とよくお話をされて……。そして、踏ん切りが付いたからあなたはもううじうじしないで、ってフィリップ様に仰ったんです。それはもうきっぱりと。あのときのフィリップ様ときたら、本当に気が抜けたように笑われて、私も安心しました」
フィオナは微笑みながら、右手で顔の左側に垂れてきた後れ毛を耳にかけた。かごで塞がっている左手が使えないからだ。自分の横顔を見つめるマクロルの視線に、親しみ以上の何かが混ざっていることには気づかなかった。
◇ ◇ ◇
「戻りましたよ」
フィオナはそう声をかけて、屋敷の厨房に入っていった。厨房と使用人たちが食事や休憩を取る部屋は隣り合っており、扉もほぼ常に開け放たれている。勝手口から厨房に入り、所狭しと並んだ食材の棚や鍋を器用に避けて進むフィオナに、マクロルも続いた。
二人はキャリーヌ達主人のための茶菓子や茶葉を買いに行くついでに、使用人達の嗜好品のおつかいを頼まれていたのだ。
「あらフィオナ! っとそれに先生も。買い物お疲れさま、ありがとうね。丁度いいから、お茶にしましょうよ」
「あらもうそんな時間ね」
「キャリーヌ様とフィリップ様の午後のお茶は、頼まれていた通りあたしがお出ししておいたから大丈夫よ。それにキャリーヌ様が、今日は二人とも東館のサロンで大人しくしてるからフィオナに休むように伝えてって」
「大人しくしてるって」
本当かしら、とフィオナは笑いながらかごを部屋の中央にある長机に置いた。普段から使用人たちが食事をする机だ。どうやら今は夕食の仕込みが一段落したところらしく、比較的多くの使用人が集まっていた。皆マクロルにも慣れているので、使用人ではない彼が入ってきても特に何も言わない。
フィオナに促され、マクロルも長机に荷物を置いた。フィリップの教師として講義をした後、フィオナの買い物の荷物持ちを申し出たのだ。
「それにしてもフィリップ様って、本当にお綺麗な顔してるわよねー。ああ、あんな方があたしの好い人になってくれないかなぁ」
冗談めかしてため息をついた使用人に、皆がどっと笑った。あんたみたいなそそっかしい年増はフィリップ様も嫌でしょうよ、と突っ込みが入る。
「何よう失礼ね! ね、フィオナは思わないの? あーんな綺麗で親切な方だったら、どうにでもしてって気持ちにならない?」
笑いながら問いかけてきた使用人仲間の言葉に、フィオナの心はちくちくと痛んだ。呆れた、と軽く返そうとしたができなかった。忘れかけていた記憶が顔を出す。
「そう……ね。私はさすがに、フィリップ様みたいな若い方は……」
笑みのようなものを浮かべて、フィオナは答えた。あらそう!? と大げさに驚く使用人と笑う周囲の声が、薄膜を隔てたように遠ざかる。
もうすっかり忘れていた。自分が愚かで傷の付いた女であることを。キャリーヌという主人に恵まれて、日々の仕事に埋没して、自分がどんな人間なのかを忘れようとしていた。それはきっと、変わることはないものなのに。
(でも、不思議だわ……それほど、以前ほど、悲しくて情けなくて辛い気持ちにはならない)
「大丈夫ですか? 何だか浮かない顔をしていますよ」
ふと、声が聞こえた。マクロルの声だ。
もしかして、買い忘れたものがありましたか? 私でよければもう一度お供しますよ、とマクロルは続けた。フィオナは、今度は自然と笑いがこぼれるのを止められなかった。彼は本当にお人好しだ。
「ふふ、買い忘れはないから大丈夫です。仕事を忘れたわけでもありません」
「本当ですか? 何だかこう……思い出したくないことを思い出したみたいな顔をしてましたよ」
「そんな顔してましたか? 本当に、大丈夫です」
本当に大丈夫な気がして、フィオナはにっこり笑った。マクロルは微かに頬を赤らめて頷くと、もう何も言わなかった。
お茶を飲んでひと休みしたフィオナは、キャリーヌとフィリップの部屋に飾る花を見繕いに、屋敷の庭へ出た。そこそこの広さがある庭には、そう多くないが、大小様々な花や植物が一通り植えられているのだ。特に庭の造形に凝る家人が居なかったので、それなり程度だが。屋敷の中に飾る花は、庭に咲いているものから見繕うのが基本だった。
普段ならばお茶を飲んだ後に帰るマクロルは、今日は用事もないのか、庭へ出るフィオナにそのまま着いてきていた。
キャリーヌの部屋には、オレンジやピンクの華やかな色の花を。そしてフィリップの部屋には、白やブルーに、ときどき黄色の花を選ぶのが常である。
花を選びながら、庭師にあれこれ注文をつけるフィオナを、マクロルは横でじっと見ていた。それを居心地悪いとは感じないフィオナだったが、何となく気恥ずかしさはある。
庭師に一通り花を切らせたフィオナは、受け取った花を大事そうに抱えると、マクロルの方へ向き直った。
「さて、今日はまだこちらにいらっしゃいますか? 今のうちにお帰りにならないと、使用人見習いとして私がこき使ってしまいますよ」
フィオナは冗談めかして言ったつもりだったが、マクロルはくすりとも笑わなかった。じっとこちらを見つめる視線に、フィオナはたじろいでしまう。急に、顔の横に垂れている後れ毛が気になりだす。耳にかけようにも、両手に花を抱えているおかげでそれはできない。フィオナはもぞもぞと花を抱え直した。
「あの……何か?」
「フィオナさん」
「はい」
マクロルはフィオナの正面に立ち、今や必死さの混じる目で彼女を見つめていた。真っ直ぐに視線が刺さった。
「僕は……あなたが好きなんです、フィオナさん」
「え」
「どうか、どうか僕と、結婚してほしい」
「えっ!」
「あっ、間違えました! 僕と、ええと結婚を見据えて、僕の恋人になってほしいんです」
しどろもどろにそう言ったマクロルに、フィオナは一瞬呆けたように口を開けて、我に返って閉じた。
笑ってしまおうか、とフィオナは思った。冗談にして、笑い飛ばして、受け流してしまおうかと。そんな風に思いながらも、ごまかせやしないことは分かり切っていた。
(どうしよう?)
少し頰を赤らめて、緊張した面持ちでこちらを見つめるマクロルを前にして、フィオナはまるで手品を見せられたような気分だ。不思議だった。さっきまでそんな素振りは見せていなかったのに──いや、本当に見せていなかったのだろうか? フィオナが見ないように、気づかないようにしていただけなのかもしれない。
マクロルは沈黙に耐え、フィオナをじっと見つめていた。彼の目を見ていれば、彼の言葉が冗談でも勢いでもなく、本心から出た言葉であることは分かってしまう。けれどフィオナは、はいともいいえとも答えることができなかった。なぜって、フィオナ自身が、自分の気持ちをよく分かっていなかったからだ。彼の告白を嬉しいと思うフィオナも、到底受け入れられないと思うフィオナもいた。
「私……」
このまま黙り続けたら、流石に悪い方に誤解されるかもしれない。それは嫌だと思ったフィオナは口を開いた。開いたはいいが、何を話せばいいのかは分からないままだった。
「私も、完全に同じ気持ちかは分かりませんが……あなたが好きです。でも私があなたの恋人になって、結婚して、というのは……考えたことがありません」
「それなら今から、考えてみてください。僕はあなたの正直な気持ちを聞きたいんです」
マクロルはそう言って、フィオナの頬を優しく撫でた。一瞬緊張したフィオナは、頰を撫でる手の慎重さに気づき力を抜いた。何だか、このままでいれば答えが見つかりそうな気がした。
けれどマクロルは無言で礼をすると、背を向けてさっさと帰っていってしまった。フィオナは庭に立ち尽くし、庭師に訝しげに声をかけられるまでぼうっとしていた。そのときには、フィオナが抱えていた花は、少し萎れてしまっていた。




