見る人によっては(1)
朝。食堂に入って、まだ誰も座っていないその空間に、キャリーヌは彼がいないことを改めて噛みしめる。同時に、思っていたよりも感傷的になっていない自分に、ほっとしていた。フィリップがいなくなってから抜け殻みたいになっていたなんて報告されたら、たまったものじゃない。ここぞとばかりにからかわれてしまうだろう。
席につき、いつもと変わらない食事を取りながら、斜め後ろに立っているフィオナに話しかける。
「今日、何時に出ればいいのだっけ」
「このあと九時過ぎですね。馬車で二十分ほどで、時間は早めに見ているので急がなくとも大丈夫です」
「服はこのままで行くわ」
「かしこまりました」
「私が店に立っている間は、あなたは自由にしていていいから。久しぶりに、マクロル先生にでも会ってきたら?」
「……キャリーヌ様。余計な気は回していただかずとも結構です」
少し頬を赤くしたフィオナにぴしゃりと返されて、キャリーヌはむふふと笑った。大丈夫。フィリップが屋敷からいなくなったからといって、自分は何も損なわれていない。そう確認して、キャリーヌは朝食を再開した。
朝食後しばらくしてから馬車に揺られて着いた場所は、エルシック防具店──正真正銘、キャリーヌの父が経営する会社の、直営店だ。実店舗はここだけだが、色々なところに防具を卸しているらしい。詳しいことは、これから教わるつもりだ──キャリーヌは今日から、ここで見習いを始める。
大きく店の扉を開けて、キャリーヌは声を張った。
「おはようございます! ……キャリーヌ・エルシックです」
いらえはない。開店時間や閉店時間はきっちりと決まっていないが、九時過ぎには準備を始めて、十時ごろには店を開けると聞いていた。まだ誰も来ていないのだろうか? キャリーヌは完全に店の中に入ると、扉を閉めた。掛かっている札が準備中になっていることを確かめてからだ。
「おはようございまーす……今日からお世話になる者です……」
キャリーヌは店の奥へおそるおそる進みながら、もう一度声をかけてみる。店を入って正面には、手甲や小さめの盾など、比較的こまごました品物が二段になった台に置かれている。キャリーヌは置いてあるものを落とさないように、そうっと右側から回り込んだ。両側の壁には、厳めしい甲冑や鎖帷子など、大きな品物が吊るされている。それらを横目で見ながら、随分と仰々しいものも置いているんだな、とキャリーヌは感心していた。
「すみませーん……」
「うるせえな、そう何度も叫ばなくても聞こえてるよ」
「ひっ!」
三度目の呼び掛けの途中で、不意に後ろから声がした。キャリーヌは思わずひきつった声をあげてしまう。慌てて振り返ると、店の入り口を入ってすぐのところに、不機嫌そうな顔をした壮年の男性が立っていた。
「あんたが社長のお嬢さんで、こんなところで働きたいって言い出した酔狂者か。言っとくが、向いてないと思ったら俺はすぐに追い出すからな。それは社長にも了承を得てる。止めたいってんならそれも止めはしない。今すぐ出ていってもいい。それでいいな?」
「は、はい、大丈夫です! よろしくお願いします」
かちんこちんになっていたキャリーヌは、それだけ言うと勢いよく頭を下げ、商品の乗っている台に豪快におでこをぶつけた。
「……いったぁ~……」
はあ、とため息をついた男性は、呻いているキャリーヌの脇をすり抜けて店の奥へ入り、何かを手に持って戻ってきた。
「ほら、これが店のエプロンだ。店に来たらまずこれを身に付けろ」
持っていた何かを、キャリーヌの腕に押し付けながら男性が言う。キャリーヌは口を開いたら痛いと言ってしまいそうな自分を抑えるため、こくこくと頷くだけに留めた。が、すぐに「返事は!」と厳しい声が飛んできたので、「ひゃい!」と泣きそうな声で答えたのだった。
◇ ◇ ◇
結論から言うと、店の経営を預かっている男性……ルーカスは、中々に優しい人物だった。キャリーヌが掃除の仕方も知らないと分かっても、怒ったり匙を投げたりはせず、根気よく教えてくれた。
キャリーヌが店に入ったとき、ルーカスは店の前の掃除を終えて、道具を店の裏に置きに行っていたらしい。彼はまず掃除道具の場所を教え、次に店の前の掃除の手順を教えてくれた。丁寧に説明してくれるおかげで、緊張しているキャリーヌの頭にも何とか内容が入ってくる。
しばらくは、掃除や品物の手入れなど、裏方の仕事を覚えることになると、キャリーヌは言われた。そこでしっかりと知識を蓄え、客の対応を任せるのはそれ以降だと。
キャリーヌは今、店の奥の休憩室でルーカスと遅めの昼食を取っているところだ。店の扉には準備中の札を掛けているが、もし客が入ってきても、断らずに対応するのが基本らしい。
「何故だか分かるか?」
「えっと……お客さまへの印象を悪くしないため、ですか?」
「違う。まあ確かにそれも少しはあるがな。答えは、客が時間を選んでいられない職業の場合が多いから、だ」
「時間を選べない?」
「そうだ」
もすもすと、温めたパンに炒り卵を挟んだものを食べながらルーカスが言った。ちなみにキャリーヌも同じものを食べている。ルーカスが外の通りにある屋台で買ってきてくれたものだ。
「うちに防具を買いに来るのは、基本的には遺跡に潜る探検家たちだ。そういったやつらは、潜る場所に合わせて時間を変えたりしている。朝でも昼でも夜でも、いつだってこの店が必要になる。俺がこの店の上に住んでいるのもそういう理由からだ。滅多に無いが、早朝や深夜にも客が来るからな」
もちろん、そういった場合には別料金を取るが。と言ったルーカスの膝辺りを見ながら、キャリーヌはゆっくりとパンを噛んでいた。
大きな町のあるところには、遺跡がある。いや、遺跡のあるところに、町ができるのだ。それは常識である。遺跡には、様々な宝が眠っているのだという。今となっては解明できないような仕組みを持った機械や、遺跡の外にいるものとは少し変わった動物。不思議な性質を持った繊維や、金属。様々なものが、遺跡にはあるという。
しかしそんな宝の山が、無防備に置いてあるはずもなく。遺跡は非常に入り組んだ構造で、様々な罠や、人を襲ってくる獣が潜んでいたりするらしい。この店舗を利用するのは、訓練を受けてそんな遺跡へ入り、何かしらの物を持ち帰ったり、研究したりする者たちなのだ。
「それにうちは販売だけじゃなくて、簡単な修理や調整も請け負っている。遺跡に潜る直前に防具を買いに来るようなやつはあまりいないが、違和感や小さな綻びを直しに来るやつは結構いるんだ」
ルーカスは卵パンの最後の一切れを口に入れると、もぎゅもぎゅ食べながら立ち上がった。
「さ、この後は品物の説明をするからな。先に店を開けとくから、食べ終わったら出てこい」
噛んでいたパンを慌てて飲み込み、「はい!」と返事をしたキャリーヌを見てから、ルーカスは店へ出ていった。返事をするときに思わず少し浮かした腰を下ろし、キャリーヌはパンにかぶりつく。覚えなくてはいけないことがたくさんある。ルーカスはやはり、顔が少し怖い。けれどもキャリーヌは、店で働くのを止めようとは絶対に思わなかった。きっと今後も、思わないだろう。
(フィリップが学びたかったのは……遺跡に眠っている特異繊維や特異金属の活かし方。私もそれを、サポートできるように勉強しなくちゃ)
パンを食べ終わったキャリーヌは、水差しから注いだ一杯の水を、勢いよく飲み干した。心持ちに強めに器を机に置き、気合いを入れる。エプロンの紐がしっかり結べているか確認して、キャリーヌは店へ出ていった。
◇ ◇ ◇
「はあ~……疲れた……」
自室に入るなり、キャリーヌはへにょへにょの声と共にソファに倒れこんだ。荷物を片付けていたフィオナが顔をしかめる。
「だらしない! 座るならちゃんと座ってください」
「うぅーん……はぁい」
キャリーヌはぐったりとした声で返事をしながらも、ゆっくり動いて座り直す。芋虫のようなその動きに、フィオナはため息をついた。着替えを持ってキャリーヌに近寄りながら、話しかける。
「そんなにお疲れですか。今日は、夜のお食事は止めておきますか?」
「まさか! 食べるわよ、食べなきゃ死んじゃう!」
キャリーヌは大体の閉店時間である八時までしっかり働いてきたため、現在はいつもなら夕食を済ませている時間を、とうに二時間は過ぎてしまっている。しかし彼女は、即座にフィオナの言葉を否定した。食欲があるならまだ少しは元気な証拠だろう。フィオナはキャリーヌの着ているブラウスを脱がしにかかった。普段は自分で着替えをするキャリーヌも、今日ばかりはフィオナに任せっきりだ。
「それで、どうでしたか、お仕事は?」
「……大変だった。覚えることがたくさん。まだ任せられた仕事は掃除くらいしかないけど、それだって今までやってこなかったことだから……。明日は今日教わったことの復習をしないと」
目を開けていることも億劫なのか、目を閉じたままキャリーヌが答える。てきぱきとブラウスを脱がすフィオナに、背中を浮かしたり手を伸ばしたりして協力したキャリーヌは、ゆるい家着に着替えると、もう一度ソファに沈みこんだ。
が、次の瞬間、「よっ!」とかけ声をかけながらソファから立ち上がると、ぐぐーっと伸びをしてから、大きなあくびをひとつした。
「……キャリーヌ様。そんなお顔を見たら、旦那様が何と仰るか……」
「何も言わないわよ。お父様は私にたくさん借りがあるもの。さ、これ以上眠くならない内にご飯をいただくわ」
そう言ってさっさか歩き出したキャリーヌの背中を、フィオナは一瞬遅れて追いかけた。
(夜遅くになってからの食事は太りやすいって、言った方がいいかしら……)
多少余計なことを、考えながら。
 




