熊さんに出会った
※兎さんの事情
ある日森の中 熊さんに 出会った
花咲く森の道 熊さんに 出会った
みなさん、こんな童謡を知ってますよね?音楽の時間に一度は歌わされたことのある歌ですから。でもあれって全部歌ったことあります?
熊に出会ったけれども、熊が余裕ぶっこいてねーちゃん逃げろや、と言ったので、それではと走って逃げたら追ってくる熊。アンタが逃げろっていったんだろ!とか思ったら、なんと落し物を届けてくれただけらしい。あらありがとう、お礼に一緒に歌いましょ、ラララ。
というのが、歌詞の全貌です。これについては諸説あるそうですが、私はこの歌はナンパの歌だと思っています。思わせぶりなことを言って、一旦逃がした女の子を追いかけ、動揺するところにイヤリングの落し物をそっと渡す。コロッと転がされた女の子は、一緒に歌いだす始末。これをナンパと言わずしてなんというのか。チョロい、チョロ過ぎる女の子です。
だがしかし、今はこの女の子のことなんかどうだっていいんです。今、危機なのは歌の女の子ではなく、現実のわたし兎田美園なのですから。
「あの、兎田、少し話があるのだが」
「ななななななんでしゅか!?」
かみかみの返事しかできないわたしを、白い道着を着た体格のいい男子が見下ろしています。彼は熊川くん、同じクラスの人で、空手部の主将をしているらしいです。放課後の図書室から出てきて、暗くなる前に帰ろうとしていたわたしの前に現れた刺客といっても良いかもしれません。
「あの、だな」
「えええええっとわたし急いでいるんでしゅ!」
……さっきからかみすぎなのはわたしもわかっています。でもわたしは実は対人恐怖症というか、単なる口下手というか、とにかく人と話すのが苦手なのです。その上、熊川くんのように威圧感がありまくりな男子となんて、ムリムリムリ!なんてものではなく、気絶しそうなくらいに怖いです。さっきから森の熊さんの冒頭部分が頭の中でリフレインしています。森の中ではないですけど。学校の廊下ですけど。
「だから」
「さよなら!」
明らかに何か言いたげだった熊川くんを振り切って、わたしは脱兎のごとく逃げ出しました。兎田なだけに、逃げ足には自信があるんです。え、熊川くんに失礼ですって?いえ、これはここのところ毎日の恒例行事なんです。いつもここで出会って、熊川くんは何か言いたいようなんですけれど、それをわたしの心臓が待てないんです。ごめんなさい、分かって熊川くん。
ちなみに森の熊さんの英語版の歌詞は、熊に出会った人が熊から逃げおおせるまでを歌った、なかなかにスリリングな内容だそうです。
※熊さんの事情
俺の名前は熊川総一郎、学校の空手部で主将をしている。
突然だが、俺は怖い見た目をしているのだろうか?目が合うと固まられ、声をかけるとぷるぷると震え、近寄ると全力で逃げられるほどに怖いだろうか?二人いる姉に尋ねてみても、
「アンタがなにかしたんじゃないの?」
と言われる始末。誓って何もしていない。第一、近寄ると逃げる相手に、何ができるというのだろうか。いや、何もしないぞ、だからそんなに怖がるな兎田。
出会うのがいつも部活終わりの汗臭い時間帯だというのも悪いのかもしれない。着替えのために部室へと移動する途中、図書室へと向かう廊下でいつも出会うので、まだ体が温かいホカホカ状態だ。せめて、ちゃんと制服に着替えていればいいのだろうか。教室では特に逃げようとはしないしな。道着が怖さを増しているのか。謎だ。
だが最近は冬が近づき、暗くなるのが早い。帰り道が心配なので送っていくほうがいいのではないかと思う。兎田は背が小さくて色白で、いつもぷるぷるしていて、歩くときは隅っこを歩き、あれでは家と学校の往復は大冒険ではないだろうか。だが兎田に告げることに、ここ数日失敗している。
「一緒に帰ろう」
ただそれだけを言えばいいのに、ぷるぷるしている兎田を見ていると、まるで己が草食動物に止めをさそうとしている肉食動物に思えてくる。
だが、数日かけてだんだんと進歩している。最初は目が合っただけで逃げられた。少し慣れると目が合っても逃げなくなったが、声をかけたら逃げられた。それが、今日は会話ができた。すごい進歩だ。もう少し慣れて、一緒に帰ることが出来るといいな。
「先生、なんだか主将が不憫です」
「言ってやるな、青春だ」