第三話 下り坂な午後。
「待たせたね」
急ぎ足で歩いてくる彼女を見て罪悪感が胸を蝕んでくる。彼女の名前は遠島和歌。僕の大好きな人だ。しかし今の彼女は彼女であって彼女ではない。シズネさんという遠島さんの別の人格だ。
「どうしたんだい?」
「ううん、なんでもないよ」
だからといって今さらやっぱりやめようなどと言うのはあまりに自分勝手だし、失礼だ。
「あまり遅くなってもいけないし、行こうか」
残念ながら手を繋ぐような間柄ではないから僕が先に歩き出した。
「……不思議だな」
早歩きに僕と並んで、僕をじーっと眺めながら彼女は唇を尖らせた。
「普通こういう場合は喜ぶべきではないのか? 同じ体でありながら自分のことを好いてくれる人格が現れたなら、きみにとってはそこにつけこむ方がもっとも容易に目的を達成できる」
「つけこむって……」
シズネさんの直截な物言いに思わず苦笑する。
「僕が好きなのは、遠島さんだから」
それでも、気恥ずかしい気持ちを押し殺してきっぱりと告げた。
「遠島さん以外の誰かを好きになるなんて今の僕には考えられないな」
それに、と続く言葉は口には出さなかった。僕は彼女が本当に自分のことを好いてくれているとは思えないのだ。一番近いのは好奇心とか学術的興味とかたぶんそんな気持ちだろうと思う。もちろん彼女とは会ったばかりだし、好きって気持ちはもっと素敵なものだ、なんて理由では説得力も何もない。
「とても大切なんだね、和歌のことが」
遠く沈んでいく夕陽に目をやりながら、彼女は呟くように言った。
「一つ、きみに知っておいてほしいことがある」
ちょうど交差点の信号に引っかかったところで彼女が足を止めたので僕も足を止める。すると彼女は思い詰めたような顔でこちらを見上げてきた。
「和歌は最近、記憶があやふやなことについて悩んでいるようだ」
「え?」
「一応、気にしておいてほしい。それじゃ」
「あ、ちょっと……」
彼女はそのまま振り返らず、間抜けに立ち尽くす僕を残して走っていってしまった。
授業が終わると手早く荷物をまとめ、ホームルームが終わるとすぐに教室を出ていくのが習慣になった。
「開いてる、よ」
ノックの答えは囁くような返事だけ。扉を開けると愛しい彼女の名前を呼ぶ。
「こんにちは、遠島さん」
「こん、にちは。直木くん」
あれから頻繁に顔を出すようになった僕は文学部の正式な部員となった。文学部といっても難しい小説や書評を書いたりする必要はなく、読書好きならオッケーということだったのでそれなら、と思いきって入部届を提出したのだ。ちなみに部員が二人しかいないのに文学研究会、でなく文学部を名乗れているのは校長先生が古典文学について学術書まで出したほどの文学好きだかららしい。予算はちゃんと研究会並だからどこまで本当かは怪しいけれど。
「このあいだ薦めてもらった本、面白かったよ。遠島さんはああいうジャンルが好きなの?」
「ううん、あんまり……いつの間にか、借りてた本なの」
顔の筋肉を引き締めて表情が変わらないようにする。それは恐らく人格が変わっていたときのことだろう。
「変だよね。私、よくぼーっとして、記憶があやふやに、なっちゃうときが、あるんだ」
遠島さんは少し笑いながら話してくれる。僕はそんな気を遣ってほしくなんかないのに。
「あの、遠島さん」
耐えきれなくなって、僕は口を開いた。
「何か悩みでもあるの?」
最近は彼女と話す機会も増えて、僕は前ほど緊張せず気軽に話せるようになった。しかしそれは彼女の中の誰かと話していただけで、遠島さんと話す時間自体は決して増えたわけではないのだ。僕と遠島さんの距離は出会ったときから一センチだって縮まっていない。だって彼女はまだ笑っている。ううん、なんでもない。そんな答えは聞きたくないのに。
「おい、聞いてんのか」
「あいた」
額にトンと軽い衝撃を感じると、目の前を消しゴムが跳ねていった。
「なぁにブルー入ってんだよ」
それを投げつけた犯人は対面の遠島さんしかありえない。ただし、この乱暴な口調や歯をむき出すような笑みはリョウコさんのものだ。
「遠島さんはどうしたの?」
「さあな。あたしだって出てきたくて出てくるわけじゃないし」
そう言って彼女は机の中からまっさらな原稿用紙を取り出して折り紙を始める。
「べつに、無理しなくていいと思うぜ」
ぼーっとリョウコさんの手元を見るともなく見ていると、俯いたままそんなことを言われた。独り言とも、語りかけともとれる言葉を僕はじっと聞いた。
「キョウカはあたしたちで支えてやればいいと思ってるし、シズネだって何かを期待したわけじゃねえ。けどあたしは」
そこで彼女は顔を上げて僕の方を見た。まるで共犯者に笑いかけるような後ろ暗い笑みをして。
「お前がなんかやってくれると思ってるぜ」
そんなことを言い放ったのだ。
「なんかって?」
「さあ……」
中途半端に折られた原稿用紙をほったらかして床を蹴り飛ばすくらいの勢いでぐぐっと足を伸ばした。そのまま椅子の後ろ足に体重をかけて天井を仰ぐ。
「ただ単にいつでもそこにいる日常の目印になるだけかもしれねえし、あたしらの手伝いをするかもしれねえし……」
ふっと力を抜くと、大きな音を立てて椅子は着地した。
「ま、あたしが賭けるとすればお前がこの問題を解決させる、だな」
たっぷりと間を取ってから豪快に笑った。冗談なのか、本気なのか測りかねて僕は結局黙ったままだった。
「ちょっと、黙っていないでなんとか言ったらどうですの?」
「え? えーっと、キョウカさん?」
ふと目の前に意識を戻すと、彼女は苛立たしそうに眉間にしわを寄せていた。
「どうしたの?」
彼女はため息をついてビシッと指を立てる。
「どうかしたかはこちらの台詞ですわ。私が話しかけても生返事ですし、考え事なら夜寝る前にベッドの中でなさいませ」
「あ、うん、ゴメン」
しかし彼女は僕を見続けてくる。
「えっと……な、なに?」
「べつにあなたを見ていたわけではありませんわ」
ふいっと顔を逸らしてしまう。
「ただ、和歌の精神状態を考えると、わたくしたちは消えた方がよいのかも、と……」
彼女の横顔は酷く悲しそうで、だけど彼女はまだ微笑む。
「なんて、冗談ですわ。そもそも自由に消えたりなんてできないのですから」
彼女の見せてくれた弱さをなんとか支えてあげたくて、僕は考えもまとまらないまま口を開いた。
「僕がなんとかする」
「……なんですって?」
僕の言葉に、キョウカさんは下手な冗談に無理矢理笑おうとするように、顔をゆがませる。
「和歌が悩みを抱えていることすら、あの理屈屋に言われるまで気づきもしなかったんでしょう? あなたは。そんなあなたがいったい何をどうやってなんとかしてくれますの?」
「それは、答えられないけど……誰かが我慢したり、いなくなったりするような結末だけは認めない」
僕は彼女の瞳を見据えた。彼女の内側で聞いている彼女たちみんなに届けたかった。
「僕が好きなのは君たちじゃないけど……僕はきみたちみんなが幸せになれるようにしたいと思う。それが遠島さんを幸せにするって信じてるから」
キョウカさんは何も言わなかった。僕も黙っていて、そうするうちに彼女がカバンを持って立ち上がった。彼女が扉を開けたとき、馬鹿、と呟いたような気がしたけれど、誰の言葉だったのかはわからない。
夜のように暗い部屋に響く遠い雷鳴は、僕の手の届かないところにいる誰かの声に似ている気がした。