第二話 右に出る者はいない。
文学部の部室に向かう道々、昨日のことを考える。遠島さんが多重人格ということを聞いて正直ショックではあったけど、一夜明けてみれば案外なんとかなるような気がしていた。そう思えるのはやはりリョウコさんの人柄のせいだろう。多重人格といえばジキルとハイドがあまりにも有名でネガティブなイメージを抱きやすいけれど、彼女は純粋に遠島さんを守るために存在しているような感じがした。昨日あれほど攻撃的だったのも、僕だけに限った話ではなかったのだろう。たぶん彼女はいつでもああして誇り高く胸を張って、遠島さんに危害を加えようとする敵に対し、毅然として立ち向かってきたのだ。
「こんにちは、遠島さ……ん?」
忘れずにノックをして部室に入ると、遠島さんがいた。それは当たり前だ。僕は彼女に会いに来たのだし、特に用事がなければ放課後は毎日部室に行くということも聞いている。
「あれ? おにいちゃんだあれ?」
しかし口元にチョコレートをつけて、舌足らずな口調で僕の名前を聞いてくる女の子に心当たりはない。
「えーっと、僕は直木翔太郎」
とりあえず聞かれたことには答える。
「あたしチヅル! ねえねえおにいちゃん、あたしとあそぼ!」
「え? いや、それは……」
まずい、と思う。リョウコさんならまだしも、チヅルちゃんの姿を遠島さんのクラスメイトに見られたら厄介なことになるだろう。昨日のリョウコさんの口振りからすると多重人格のことは恐らく誰も知らないし、下手をすると病院へ、という話にもなりかねない。
「おにいちゃん……」
え、と思う間もなく僕の体を柔らかな温度が包み込んだ。
「チ、チヅルちゃんんんんん!?」
「すっごく難しい顔してる。もしかしてチヅル、わがままだった?」
「いいいや、そんなことはないんだけどどどど」
これはいけない! 遠島さんの柔らかくほどよい大きさの誇りが僕の胸に押しつけられている!! このままでは、僕は……。
「ちょっと」
「はい?」
目線を下げるとぱちこーん、といい音を鳴らして頬が張られた。
「痛った!?」
思わず数歩退がると、彼女は思いきり叫んだ。
「いつまで肩を抱いているつもりですの!? 気安くわたくしに触れないでくださいませ!」
「あれ……ま、まさか」
また口調が変わっている。僕の無言の問いを察して彼女は自ら名乗ってくれた。
「わたくしはキョウカですわ。べつにお見知りおきいただかなくて結構ですけど」
「あ、いやよろしくお願いするよ。僕の名前は……」
「結構ですわ。存じています」
その答えの意味はすぐに察することができた。
「きみはリョウコさんと同じで別人格のときの記憶があるんだね?」
「あの野蛮人とひとくくりにされるのは不愉快ですけど」
彼女は不機嫌そうに顔を逸らした。
「あなたのおっしゃる通りですわ。先ほどの破廉恥な行いもすべて知っていますわよ」
と思ったら、ぎろりと睨みをきかせてきた。
「さっきのは不可抗力というか……あ、あはは」
しかし愛想笑いにごまかされてくれるようなひとではなく、彼女は構わずじろじろと僕を胡乱げに眺めていた。
「念のために言っておきますけど」
そこで彼女の瞳の温度がもう一段下がった。
「わたくしを口説こうなどとは冗談でも考えないでくださいませ。無駄ですし、なにより不愉快ですわ」
ゾクッと、背骨の代わりに氷柱をつっこまれたような冷たさを感じた。
「も、もちろんそんなつもりはないよ」
「……そうですか」
しばらく睨みをきかせた後、ふっと表情をゆるめて彼女は身を翻した。
「ではわたくしはもう帰りますわ。そもそも男性は苦手ですの」
チヅルの面倒を見てくれたこと、一応感謝しておきますわ、と。あとにはそれだけ言い残して彼女はスカートを翻した。
「なんだか、結局いい人たちばかりだなあ」
結局遠島さんには会えなかったけれど、彼女の新たな一面を見ることができた。
「ふう。やっぱり誰もいないか」
のっぺりしたコンクリートばかりの屋上をざっと見回してみても人っ子一人いない。今は昼休みだけど天気はあいにくの曇り空だ。もっとも、晴れていたら晴れていたで遮蔽物は貯水タンクくらいしかないところだから、誰も来ないことは想像に難くない。僕がわざわざこんな場所に足を運んできたのは、ここのところ頭の中をいい意味でも悪い意味でも四六時中占めている女の子のことについて、一度一人でじっくりと考えを整理したかったからだ。
「んー? そこにおんのは誰やー?」
「あ、ごめん」
予想に反して先客がいたようだ。トーンの高い明るい関西弁の主は貯水タンクの上にいるようだったから気づかなかった。べつに悪いことをしていたわけではないけれど、つい謝罪が口をついてしまう。
「ありゃ? どっかで見たような顔やな」
「とっ遠島さん!?」
ひょこっとコンクリートの縁から顔を出したのは紛れもない、僕の想い人である遠島和歌だ。
「トオシマサン?」
しかし彼女は首を傾げて頭に疑問符を浮かべる。もう三度も経験したパターンだからすぐにピンときた。
「あー、気にしないで。僕は直木翔太郎。きみは?」
コロッと変わった僕の態度のこともどうやらおおざっぱな性格らしい相手は特に気にせず、そっかと笑って自己紹介してくれた。
「うちはユキハ。まあとりあえずショータロー、そんなとこに突っ立っとらんとこっち来ぃや」
彼女の手招きに従ってはしごを上ると、貯水タンクの上には可愛らしいピンク色の弁当が広げられていた。
「邪魔しちゃったかな」
少し申し訳ない気持ちになりながら隣に腰かけると、彼女はまた笑顔になった。
「そんなことあらへん。うちはただぼーっとこっから街見てただけやから」
ユキハさんは遠く目をやった。よく見れば弁当箱の中身はちょっと手をつけただけで、まだ大半が残っている。
「何か嫌なことがあったの?」
「んーん。なんとなーく気分が落ちてもうてただけ」
本当にそれだけだとは思えなかったけど、それ以上尋ねる言葉を持っていなかったし、その権利もないような気がした。
「ま、こうやってぼーっとしてるうちになんやどうでもようなったけどな! ショータローも来てくれたし!」
そうしてにかっと笑ってみせる顔は本当に楽しそうだった。
「ショータローこそテンション低ない? いつもそんなんなん?」
「まあ、だいたいこんな感じかな……」
ていうか、ユキハさんのテンションの振れ幅が大きすぎてついていけないというのが正直なところだけど。
「んー、そうや! ショータロー、目ぇ閉じてみ」
「え!?」
ま、まさか……ユキハさんもチヅルちゃんみたいなスキンシップを……。
「あ、今変なこと想像したやろー! ショータローのムッツリスケベ!」
「ち、違うよ!」
「せやからな……あ」
そのとき、分厚い鉄の扉の向こうからくぐもった小さな鐘の音が聞こえた。
「もう終わりかー。しゃーない、ショータロー、またな」
「え? ちょっとユキハさん!」
呼び止める暇もあればこそ、ユキハさんは手早く弁当箱をまとめるとひょいひょいっとはしごを降りていってしまった。
「大丈夫なのかな、遠島さんは……」
ちょっと心配だったものの、鬼教師で知られる五時間目の担任の怒鳴り声で頭から叩き出されてしまったのだった。
「ん、やっと来てくれたね」
その日の放課後。部室の扉の向こうから聞こえたノックの返事はいつもと違うものだった。
「また違う人かな」
僕はちょっと心構えを改める。チヅルちゃんのときに驚いた例があったので、ノックをした際の返事で誰がいるのかを確認するようにしていた。
「やあ、初めまして直木翔太郎くん」
扉と対面の定席に着いていた彼女は本を読んでいたようだった。それはいつもと変わらないけど、本を左手だけで持っていたり傍らにある飲み物が水だったりと微妙の差異が見受けられる。
「僕も初めまして、でいいのかな」
「うん。ぼくの名前はシズネ。こうして言葉を交わすのは初めてだよ」
彼女は僕を見たときからにこにこと笑顔を崩さない。
「えっと……僕の顔に何かついてる?」
「ああ、いやいや」
軽く手を振って僕の言葉を打ち消す。
「ぼくはきみと出会ったときから、きみとこうして話すのを今か今かと楽しみにしていたんだ」
「出会ったときから……?」
「きみが和歌の多重人格を知った時さ。きみは気づいていたかな? リョウコはきみを追い払おうとしてあんなことを言ったんだよ」
そこでシズネさんは誰かの冗談を思い出したみたいにくすっと声を漏らした。
「それをきみときたら受け入れてしまうんだものな。どうだい、きみさえ良ければぼくと交際してみないかい」
「い、いやそれは……」
あはははは、と今度は声を上げて笑った。
「冗談さ。ぼくはそういう真面目なところも気に入ってるのだしね。むしろここで受け入れるような人間だったら興醒めだった」
さりげなく関係破綻のピンチだったわけか。会話の些細なところに地雷がある人だな……。
「まあ確かに否定はしないよ」
「うぇえ!?」
僕の心の声と噛み合った返事に、思わず変な声が出てしまう。
「べつに心の声を読んだわけじゃないよ。そういうファンタジックな考え方も嫌いな方ではないけれど」
その返しがすでに心の声を読んでるみたいなんだけど、と諦めにも似た気持ちで彼女を見るとペットボトルを開けて喉を潤していた。
「単に知識の問題さ。これくらいの親しさの人間にこんなことを言えばこう思われるだろうな、ということは知識から判断できる。ここで言う知識とは常識や経験のことであって……」
ぽかんとした僕の顔に気づいて、彼女は滔々とした弁舌を中断させる。
「すまない。つまらなかったね」
「そうでもなかったけど……」
ただ単に口を挟めなかっただけだ。
「あ、そういえば午後の授業は大丈夫だった?」
「授業? ああ、さっきの話だね。ちょうど授業が始まる頃にユキハは寝てしまったから僕が受けた」
「きみが?」
「なに、ままあることさ。リョウコかキョウカかぼくが出ているときには和歌の振りをしているよ。チヅルとユキハはたいてい飽きて寝るしね」
「そ、そうなんだ……」
「ほかにもなにか質問があれば答えるよ。今日ぼくに会ったことで、きみは和歌の中にいる全人格と顔合わせが済んだことだしね」
「んー、特にはないかな」
「そうかい?」
シズネさんはちょっと僕を見ると、カバンを持って立ち上がった。
「じゃあ今日はここまでにしようか。一緒に帰る?」
「あー……」
「途中まで、なら」