第一話 告白の返事は左ストレート。
「遠島さん、きみが好きだ」
夕暮れの校舎裏。五月の風が揺らす木々の奏でる波のような音のなかで、僕は彼女に告白した。
「だから僕と付き合ってください」
彼女は驚いた表情で僕を見返したまま人形のように動きを止めて、僕もまた真っ直ぐ彼女の瞳を見つめて返事を待っていた。一時間か、二時間か、すっかり時間の感覚をなくしていた僕はどれくらいそうしていたのかわからない。しかし彼女の言葉が、滞った時を再び動かした。
「………………な……」
「え?」
唇が動いたのは見えたけど、息をもらした音が聞こえただけで僕の耳にその言葉は届かなかった。そして僕がもう一度聞き返そうと口を開きかけたとき、ガツンと右頬に衝撃を感じ、世界の上下が逆転する。視界がどんどん上がっていく。ああ、倒れている。遠島さんに殴られたんだ。僕はひどくゆっくり倒れてゆく体を感じながら、遠島さんって意外と武闘派だったんだなあとどうでもいい感想を抱き、意識を失った。
くまなく刻まれた小さな傷、ところどころに彩りを添える絵の具の跡など、見るからにくたびれた扉を前にして、僕は回想を終える。あの後気がついたらあたりはすっかり暗くなっていて、家に帰ると母さんにこっぴどく怒られた。そんなこんなで痛いやら悲しいやら、その夜は様々な思いを抱えて布団を被って悶々としていると、僕はとあることに思いあたった。僕は確かに遠島さんに殴られたが、告白の返事を聞いていない。我ながら往生際が悪いことは二百も承知だけど、そのおかげで僕は学校に来れたし、遠島さんと再び対面する勇気も出た。よし、と廊下で一人気合いを入れるさまは奇異に映るだろうけど今の僕にそこまで気を回す余裕はない。息を一つ吸い込んで扉を引いた。
「ひっ」
「あ……ごめん」
小さく悲鳴を上げられたので反射的に謝罪の言葉が出る。そういえばノックするのを忘れていた。
「直木くん……どうしたの?」
遠島さんは宿題でもしていたらしく、机の上には三分の一ほど埋まった原稿用紙が広げられていた。
「遠島さんにちょっと用があって」
部屋を見回してみる。準備室くらいの広さに置かれているのは机が二つだけだ。僕らのほかには誰もいない。
「これ、ちゃんと乾かしたよ」
「いや、それが気になったわけでなく」
机の上には小学校の図工で作るような牛乳パックのペン立ても置かれている。今もしゃべりながら、すでにハサミやらなにやらが生け花もかくやというほど刺さっているところに右手に握っていたシャーペンをねじ込んでいて、それはそれで気にはなったけれど。
「ここ、部員は?」
「いないよ。私だけ」
一応ここは文学部の部室ということになっている。これから話す内容は人に聞かれたくない内容だったので、人払いはしておきたかった。
「その……昨日は、ごめんなさい」
「えっ?」
彼女から昨日の話を切り出されるとは思っていなかったので、思わず面食らう。
「私、びっくりして」
「あー、うん。僕の方もいきなりだったし、しょうがないよ」
「でも、返事もしないで、帰っちゃうなんて」
その言葉に僕は心の中で天高くガッツボーズ。昨日の左ストレートが告白に対する返事でないことがわかればもう怖いものはない。
「じゃあ改めて言うよ。僕は、きみのことがぐッ!?」
右頬の衝撃、スローモーションで倒れる体、上がっていく視界、すべて昨日の再現のようだったが違うところが二つあった。
「あいたたたた……」
一つはしりもちをついた僕が意識を手放さなかったこと。そしてもう一つ。
「まあたお前かっ! 昨日思いっきり殴ってやったのにまだ足りないのか? なら何度でも殴ってやるぞ!」
目の前の彼女がこの場から去らず、僕の襟に掴みかかってきたことだ。
「何とか言ったらどうだ。ああ?」
ていうか彼女は明らかに遠島さんじゃない。確かに人はみんな表と裏を持っているものだけど、これは違いすぎる。混乱する頭で、記憶からとある知識を引っ張り出した。性格の豹変、腕力の変化、そして記憶の欠落。そこから導き出されるのは……。
「きみは……遠島さんは、まさか……」
問いの形をしていたけど僕にはわかっていた。ただ信じられなかっただけだ。ぴくっと眉を動かした彼女は僕を罵倒する口も首を締め上げる手も止めた。そうして唇を三日月に裂いて、僕を突き飛ばすように解放し、再びしりもちをついた僕を仁王立ちで見下ろして言ったのだ。
「ああそうだよ。あたしは和歌の中のもう一人の人格、リョウコだ。遠島和歌は多重人格なんだよ!」
多重人格。解離性同一性障害。
「お前が好きだなんだと言ってる女の中には得体の知れない人間がいるんだ」
彼女はきびすを返して、遠島さんが元いた椅子に腰を下ろした。
「わかったら出ていけよ。てめえが誰に言いふらそうが知ったこっちゃねえ。たぶん誰も信じねーだろうしな」
そこまでしゃべると腕組みをして、こちらを睨みつけたまま黙っている。僕が出て行くまでずっとそうしているつもりのようだ。だとしたら考えが甘いと言わざるを得ない。
「出ていかない」
ゆっくり立ち上がって、射抜くように視線を合わせる。
「多重人格だろうと関係ない。それでも僕は遠島さんのことが好きだ!」
「なっ……」
驚いたことに、あれほど豪胆だった彼女がぎょっと身を引いた。
「馬鹿か! お前はよくてもこっちが嫌だ! 何が悲しくて好きでもない奴と乳繰りあわなきゃいけないんだっ!」
「乳繰りって……」
言い方は気になるが彼女の言っていることはもっともで、体は同じでも遠島さん以外の人とそういうことをしてしまうのは僕にとっても大きな問題だ。しかし僕が頭を悩ませ始めたのを見て彼女はにやりと笑い、とんでもないことを言い放った。
「そうだ。お前、和歌と付き合いたいなら、あたしたち全員を恋人にしろ」
「え……ええええええええええ!?」
これが僕と彼女たちの恋愛が始まった瞬間だった。