三日月の上るとき
この作品はフィクションです。作中に登場する人物等の固有名詞は、現実世界のものとは関係を一切持ちません。
また、作者の意図に反して、友人から「心理学」というジャンルを賜りました。
時間と頭に余裕のある方、作者の描写不足を脳内補完できる方にお勧め致します。
雪が積もる真冬に、敢えて開かれた同窓の宴。
久しぶりに顔を合わせた学友と旧交を温めた夜、明慶は物足りなさを覚えたものの、遠くない日に再会する約束をして笑顔で別れた。その後の足取りは、玲美に運良く見つけられるまで、定かでない。会場となったお店を離れて数分ばかりのところで、路地に足を向けたはずなのだが。
臑や腰、膝や足先に痛みを覚える明慶であったが、深く考えることを酔いに妨げられて、そこまでであった。
恐らくは、あまり人の通らない道かあるいは既に獣道であったのか。
傷口近くに、ひんやりとした空気が触り、明慶は茫洋に周囲を見るのを止めた。
「此処は?」
近くに人の気配を感じて洩らした言葉であったが、誰にも汲まれることなく、足元を流れる水の音に吸い込まれてしまった。
流れを追い掛けた先に、穏やかな水面を見つけた矢先のこと――
「レイミ……」
どこかで聞き覚えのある声が、これまたどこかで聞き覚えのある名前を告げた。
「レイ、ミ? 此処が?」
覇気のない、ただ女声。明慶は振り向いたけれど、首から上はよく分からなかった。どこかで見たことがある程度には、見慣れていて、どこかで見たことがある程度には、見覚えがあった。でも、それがどこで見た誰なのかには繋がらなかった。
そんなことでレイミは地名ではないとだけ、明慶は確信した。
「ソコだけど、あなたにはレイミ」
しかし、抑揚のない言葉が、そう告げる。
レイミは春先の湖岸を思わせる。足元の一面を覆う草花は、時折吹く微風に朝露を転がしている。湖面は朝靄をうっすらと纏い、その穏やかな表情を悠々と隠す。
「出口は、あるのかな?」
アルコールの抜けきらない陽気な気分と、不安な気持ちが明るい尻下がりの声を絞り出す。
見ることの適わない女性へは振り向かなかった。
「ある……」
「笑ってないで、」
明慶は瞬間、次の言葉を喉に詰まらせた。明慶自身は何に巻き込まれているのか分からずに、半分笑い、半分引きつっていた。つまり、笑っているようで、笑えていない。傍らの女性は、初めから笑ってなどいない。声からも分かる。「あ」と「る」を抑揚なく繋げた言葉に、感情は籠もっていなかった。
にも関わらず、明慶は笑顔を見た。慌てて、周囲に目を配った。
「……」
首を右に左に振る明慶に、終始女性は無言を貫く。
そして、笑顔を見つけた明慶に、頭から足元へ向かって、極細の雷が落ちた。その避雷針を伝わる電流の為すままに、明慶は絶句した。
靄ばかりのせいではないはずだ、至るところに置かれたキャンバスに気が付かなかったのは。
「れみ……」
キャンバスには額が乗っていた。様々なサイズの額に、これまた様々な年齢層の女性――玲美、が額に収まって無造作に置かれていた。
「明慶はどうしてレイミに近づいた?」
明慶は無邪気に言ったものだ。
――その笑顔いいね。好きだよ。
愛を囁くような代物ではなく、子供が好奇心から口にしたものだ。
――どうやったら、そんな風に笑えるの。
窓際の席で、暖かな日差しを受けていた女の子に、明慶は話し掛けていた。
――教えてよ、れみ。
明慶は一つ一つ、そばにあるキャンバスから見て回る。
何かに耳を澄ませて、目を瞑って微笑んでいるもの。恥ずかしそうに俯きつつも、垂らした前髪の奧で小さくも嬉しそうな唇。はにかんだ表情。
「あの笑顔が羨ましかったから」
「だから、近づいたの?」
「あんな風に笑いたかったから」
「だから、奪ったの?」
明慶の尋ねた辺りから、玲美の笑顔は小さくなったと、当時から幼いながら敏感に察していた。
額の中のそれも、感じた通り、無理に頬を上げていた。
「何を奪ったって?」
絵の中の玲美は、複雑な気持ちを内側に渦巻き、一つずつ不自然な笑いに変わっていった。
「笑顔を」
「そんなまさか」
明慶は笑い飛ばしていた。だって、笑顔は奪えるものじゃないから。
「あなたは、私の笑顔を写していた」
「教えてくれなかったから、真似たんだ」
「あなたは、私の表情を写していた」
「笑顔が羨ましかったんだ、笑顔を創り出すのは表情じゃないか」
最後の一枚、ソコには宴の席でうんともすんとも言わない女性と同じ顔があった。何物にも揺るがんとする決意のこもった無表情。
「れみ……」
今更ながら、明慶は気が付かなかったと節穴な目を恥じて笑った。
「明慶が同じように笑うようになって、私は笑えなくなった」
「どうしてさ?」
明慶と話す女性もまた、無表情なれみだった。
「明慶の笑顔には、何にも無いの」
「この笑顔は、れみから学んだんだよ」
「笑顔は嬉しい、喜びの感情の発露。明慶にはその発露が無い。見えなくなった」
まるで、明慶を否定するかのような玲美に、明慶は必死になっていた。
「私も明慶の笑顔が好きだった。どうして、見せなくなった?」
明慶は玲美の笑顔を奪ってなんていない。笑顔なんて奪えやしない。
「だって。どこにも、私が笑う理由が見つからなかった。私には何を笑っていたのか分からない。あなたは、今何に笑うの?」
何故笑うのか分からなくなった玲美は、問い掛けてくる。
「僕は、笑顔を向けられたがっている人に笑い掛けている。笑うきっかけを渡しているんだ」
「そう……分かった」と玲美は表情を更に暗くした。肩を落とし、目に見える態度で溜め息を吐いた。
「あなたの造り笑顔に、私は笑えない。あんまりに押し付けがましいから。レイミに笑顔を返してくれたら、あなたも帰してあげる」
玲美は垂らした両腕、組んでいた両手を離して、湖岸のキャンバスに向ける。そうして、明慶の視界を遮る度にキャンバスはその場所から消えていった。
「座らない、明慶?」
瞬きをする前にはなかった木組みの椅子が二脚現れて、一つに玲美が腰を下ろしていた。
「……」明慶は憮然とした顔をして、席に着いた。
他方、玲美は両手で顔を押さえて、マッサージじみたことをしていた。
「表情筋を緩めて、目尻を下げる。その一方で頬を上げて、唇の端を上げて。こう少しだけ口を開く――笑顔かしら、これ」
笑顔かもしれない。けれど、明慶の知る笑顔ではなかった。
「あなたを返してあげられる条件は二つ。一つは、レイミに笑顔を返すこと。あるいは何故笑えなくなったか教えてくれること」
元の無表情に戻り、玲美が有無を言わせない押しに任せて続けた。
「回答を待つ間、適当に話し掛けるけれど、それも答えるの」
圧倒的にどうしようもない明慶は、頷き返すだけで精一杯だった。
「昔の学舎の方が分かるかしら」
靄の晴れたレイミは、玲美の抑揚の乏しい言葉に合わせて、懐かしい教室になっていた。
明慶が玲美に笑顔の秘訣を訊ねた場所。同窓会に顔を出せなかった数人も記憶のままの姿形で誰かと動いていた。
「此処もレイミ」
ただ、教室の騒がしさは無い。時が止まっていないのは、確かだが。
「うるさいと考えづらいでしょ」
「造り笑顔でもいいから。無表情は勘弁してくれ」
「いや。造り笑顔に慣れたら、笑えなくなるから」
椅子に座る玲美……だけでなく、明慶も当時の制服姿になっていた。
「二十歳過ぎの大人に、この格好は」
勘弁してくれと、明慶は落ち込んだ。
「可愛い」
「それは、玲美が女の子だから」
「思い出した?」
「何も奪ってなんかいないことを」
「そう……いいことを教えてあげる」
明慶は悪い予感しかしなかった。
玲美はそれ程に残念な溜め息を吐いてから、「いいこと」を告げた。
「明慶は、お店近くの裏路地で引っかかってるの。早く気が付かないと風邪ひくよ」
「どれくらい此処にいる?」
「……半刻くらい」
「誰だ、真冬に同窓会を開いたのは」
「はい」
明慶は声の方を振り返り、一瞬見開いた。
「レイミだよ」
先程までいた大人の、無表情な玲美はおらず、其処にはずっと幼い頃の玲美がいた。
「あんななんだ、私」
「おい。あれは?」
いつの間にか、明慶の背中側に回った玲美に状況を訊く。
「可愛らしいね、明慶の玲美ちゃんは。聴いてるだけで桜の蕾が開きそう」
見ていないことを主張するように、玲美の踵が明慶の椅子を蹴る。
「此処は玲美けど、あんまりに鈍感だから、繋げてあげたの。玲美ちゃんのいるアソコは、アキヨシだよ」
彼処が明慶とはどういうことだろう。
「此処にいるのも明慶だ」
「玲美もいたでしょう、でも此処はレイミ」
「まさかとは思うけど、非現実的だけれど、此処は玲美の記憶か何か?」
「そう。ここは記憶じゃない。ここはレイミだから。私はあなたには笑ってなかった」
「でも……」核心が直ぐ側に転がっていそうな感覚にあった。ただ、手探りでは見つからなかったけれど。
「玲美……他の誰かに微笑んでいた?」
「まさか。私を見てよ」
後ろの玲美を見るように言われるままに、明慶は振り向いた。髪の香りが鼻孔を着いて、くるりと向き直ったように思えた先に、玲美の姿はなく。
「こっち」
無表情な玲美が椅子に落ち着いていた。
「笑顔を奪われたままで、明慶以外の誰を見るのよ。返してよ、気持ち」
「笑顔じゃないのか?」
「自覚がないんだもの、返しようもないじゃない。だから、気持ちでいい」
「ま、返しようがないのは同じじゃねえ?」
「鈍感。もう――知らない」
突然の視界の暗転の後、明慶は酔いから覚めていた。
「玲美……」
路地に置かれていた何かに足を掛けて、転倒していた明慶は、起きる代わりにもう一度思い出していた。
明慶は無邪気に言ったものだ。
――その笑顔いいね。好きだよ。
愛を囁くような代物ではなく、子供が憧れから口にしたものだ。
――どうやったら、そんな風に笑えるの。
窓際の席で、暖かな日差しを受けていた女の子に、明慶は話し掛けていた。
――教えてよ、れみ。
「で、れみは確か……」
――あたしも。あ、それはその……。
顔を真っ赤にして慌てる玲美に、顔を赤く仕返した明慶は何を思ったのか。
「……」
二人で顔を赤く染めた時と同程度に、明慶は恥ずかしさを思い出していた。
「あー。返せるか、これ」
むしろ、笑えないだろう。
明慶は独り呟いた。
―了―
お読み頂き、ありがとうございます。
明慶の呟きの先ですが、元々はありました。
しかし、書き手の執筆力不足で作品の質を落としていましたので、泣く泣く削っております。
ぜひ、この後の展開などお好きに補完して下さい。